第11話 流唯に起きた異変

 それからというもの、朝餉のテーブルには澄香がひとりでこしらえた一品料理――茶碗蒸し、豚汁、サバの味噌煮、肉じゃが等々――が必ず加わるようになった。

 橘花家にいた頃、澄香はいっさいの台所仕事を押し付けられていたため、ある程度の料理はできた。しかし、いつも『不味い!』とか『味が薄い!』と罵倒されていたため、正直なところあまり味に自信はなかった。

 それなのに、毎朝流唯は澄香のこしらえた料理を絶賛してくれる。それだけでも涙が出るほど嬉しいのに、流唯は――。


「こんなに美味しいものを俺のために……澄香、ありがとう! これで今日も仕事を思い切り頑張れそうだよ」


 そう言って右腕を伸ばすと、大きな手の平で澄香の頭をワシワシと――でも、とても優しく――撫でるのだった。



「澄香ぁ、今朝も頭がボサボサになったねぇ~」


 部屋に戻ると、ハチ香はさも愉快そうに歌いながらベッドの上をピョンピョン跳ね始めた。

 確かに、姿見に映る澄香の頭は見るも無惨なほどに乱れきっている。

 最初のうちは、遠慮がちにさらさらと撫でているだけだった流唯だったが、回を追うごとに手の平の動きが大きくなっていった。


(今朝などは、まるで大型犬を撫でているかのような手つきだったわ)


 つい先ほど感じた流唯の大きくて温かい手の平の感触を思い出すと、澄香はふふっと口元を緩め、ベッドにぽーんと身を投げ出した。


(旦那様……)


 澄香は自分に向けられるキラキラと輝く優しい眼差しを思い出し、胸がキューッとなるのを感じていた。


(旦那様…… わたしなんかにはもったいないような、素敵なお方……)


 澄香は突然、泣き出したいような気持ちに襲われた。


(――わたしなんて、霊力もなければ美貌もない。女学校も途中でやめてしまったから教養もない。身体だって痩せっぽちで……本当になんの魅力もない人間なのに……)


 窓辺で優雅に毛繕いをしていたハチ香だったが、ウッウッという泣き声に気付くと素早く近寄ってきて、澄香の頬をペロペロと舐め始めた。

 澄香は黙ってハチ香を抱きかかえると、ありがとう、と呟き、そのまま目を閉じた。




◇◇◇

 ――ゴロゴロゴロ、ピッシャーン!

 その日の晩、雷鳴が響き渡るなか、鬼京家の窓を開け部屋に入ってくる人影があった。

 その男は真っ暗な部屋に降り立つと、雨で濡れたサイドゴアブーツと黒のインバネスを乱暴に脱ぎ捨てる。


「――疲れた……」


 男はひとりごち、ベッドにどさっと身を横たえた。




 翌朝、澄香はいつものように朝餉の準備を終えると、部屋で着物に着替えてからダイニングルームへ向かった。


「旦那様、おはようございま――」


 言いかけて、澄香は言葉を飲みこむ。

 ふだんは先に席についている流唯の姿が、その日はなかったのだった。

 ドアから顔を出し、キョロキョロと廊下をうかがう澄香の目に、こちらに向かってパタパタと歩いてくる多江の姿が映った。


「澄香様、若旦那様の側近の方から連絡がありまして……お食事、先に召し上がっていてくださいとのことです」

「……旦那様、お加減でも悪いのですか?」

「――大丈夫でございますよ。少しお疲れとのことで、お食事は後になさるそうです」


 多江はそう言うと口の端を上げてみせた。


(旦那様、大丈夫かしら……)


 胸騒ぎを感じ、ダイニングルームを出ていこうとする澄香を多江はそっと手で制した。


「側近の方から、『澄香様におかれましては、朝餉をしっかりとお召し上がりになられますように』と言われておりますので……」


 多江はそう告げると、席に着くようそっと目線で促した。


(旦那様のお加減が悪いというのに、居候いそうろうのわたしがひとりで食事をとるだなんて……)


 澄香は俯き、黙って首を横に振る。

 ふと視線を感じ顔を上げると、自分を見詰めているハチ香と目が合った。

 ハチ香は大きく一度頷くと、いつものように皿に頭を勢いよく突っ込んでみせた。


「――ハチ香……。そうね、わたしが食事を取らずに体調を崩しでもしたら、それこそ旦那様にご迷惑をかけてしまうわね……」

 

 ハチ香に向かって言うでもなくそう呟くと、澄香は近くの小鉢に箸をつけた。


(旦那様がいらっしゃらないと、こうも寂しいものなのね……)

 

 今朝、千代と一緒にこしらえた料理にほとんど手をつけないまま澄香が席を立とうとしたそのときだった。

 ドアが開き、いつもの着流し姿の流唯が姿を現したのだった。


「――旦那様……!」

 

 口元に笑みを浮かべ、澄香を優しく見つめる流唯ではあったが、誰の目に見ても明らかに顔色が悪かった。


「遅れてすまなかった。――なんだ、澄香。あまり食べていないじゃないか」


 皿に残ったままの料理の数々に目をやると、流唯は口をへの字に曲げて見せた。


「旦那様、お加減の方は大丈夫なのですか……?」


 澄香は、今にも泣き出しそうな顔で流唯を見詰めている。


「――大丈夫、心配するな……。それより澄香がこしらえてくれた一品は……おっ、きっとこれだな!」


 そう言うと、流唯は切り干し大根に箸を伸ばす。


「はい、旦那様。そうでございます……」


 消え入りそうな声で答える澄香の頭を、さらりさらりと優しく撫でる流唯。


(――昨日のような豪快な“ワサワサ”じゃない……。旦那様、かなりご無理をされているんだわ……)


「今朝も澄香の手料理を食べられて幸せだ……澄香、ありがとう。――悪いが、仕事があるので先に失礼する。おまえはゆっくり食べていけ。皿にあるもの、残さず食べるんだぞ」


 ふわりと微笑むと、流唯は席を立ちドアの向こうへと消えていった。


「……」


 しばらく微動だにしなかった澄香であったが、ちらりとハチ香の方を見たかと思うと、ひとつ大きく頷いた。

 そして箸を取ると、皿に残っていた料理を猛然と口に運び始めた。


「しっかり食べるのが、わたしの仕事。わたしが元気でいれば、旦那様にお料理をこしらえてさしあげることができる! 旦那様のお役に立てるのだわ」


 気付くと、ハチ香が足元に寄ってきて、澄香のくるぶしに小さな頭をスリスリとこすりつけていた。

 まるで、そんな澄香を応援するかのように――。

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