第21話 もし一緒に暮らしたら③

 わたしは五十嵐先輩の秘密をまた覗いてしまった。

 まぁもう知ってる事だから、そこまで驚きはしないけど、本当に好きなんだなぁ。


 すると下の階からドタドタと音が近づいてくる。

 勢いよくドアが開くと、全然髪が乾いてない五十嵐先輩。

 真剣な目でわたしの持つ漫画を見ると、頬がぷくぅっと膨れた。


「おい!物色するなって!」

 飛びつくように来ては、漫画を取り上げられた。

 濡れた髪がわたしの肌に張り付く。

「ちゃんと乾かしてない!もう!」

「もう!はこっちの台詞だって!」

 わたしは腰に巻いていたタオルで五十嵐先輩の髪を拭く。

「あ、ごめんなさい。つい……嫌ですよね。新しいの取ってきますね」

「別に気にしないぜー?汚くないだろ」

「わたしが気にしちゃうんですけど……」


 五十嵐先輩は「いいから」と言って、立ち上がろうとしたわたしの裾を引っ張り、体をわたしに預けてくる。

 わたしの胸に五十嵐先輩の濡れた頭が寄りかかる。

 昔妹を足の間に座らせて、テレビを見てる隙に髪を乾かしてた事を思い出す。


「くっつき過ぎですよ。わたしまで濡れちゃうじゃないですか」

「わりぃ」

 笑いながら後頭部を浮かせてくれる。

 丁寧に髪についた水気をタオルに吸わせる。

 しっぽはすぐ乾きそうだ。


「聞いてもいいですか?」

「聞く、だけならな」

 顔は見えないけど、多分笑ってないし、嫌そうだった。


「本当に好きなんですね。百合って言うんですよね?」

「聞くのかよ。普通聞かなくないか?」

 ちょっと体が強張った気がした。

「聞きますよ。今日やんちゃし過ぎた罰です」

「さっきも言ったろ、好きだって」

「なんで中身が違ったんですか?」

「多分、面倒くさかったから?」

 わたしは斜めになった五十嵐先輩の頭を真っ直ぐに正す。

「ええー?それだけですか?それで、ああなりますかねえ?」

「実際なってんだろ?」

 体が小刻みに震えた。多分笑ってる。

「今度はこっちから質問ー。また敬語に戻ってるのはなぁんでだ?」

「んー。今日だけは友達じゃない何かかもしれません」

「なんだそれ?先輩と後輩って事か?」

「さぁ、どうでしょうー?」

「……何か嫌だな、その言い方」

 わたしは次に何を聞こうか考えながら、同じ場所を何度も何度もタオルで擦っていた。あんまり気を悪くしない質問。んー聞く側もちょっと怖いな。




「……なぁ千秋、ほんとに、嫌ってない?」

 か細い声だけど、勇気を振り絞って出した声。

 多分「友達じゃない何か」が引っかかったのかもしれない。

 わたしはどう答えるべきなのか考える。あまりにも返事がないからか、わたしの足の間でもぞもぞして、五十嵐先輩はまた心配そうにわたしの名前を呼ぶ。


「ち、あき?」


 ただ普通に「嫌ってない」と答えても良かったと思う。でもこの時のわたしは信じてほしいという気持ちがいっぱいだった。

 どうすれば五十嵐先輩の不信感を取り除けるのか、言葉だけじゃなくて、行動で。

 考えている内にわたしは、五十嵐先輩の顔を上に向けた。

 自分でもこれが最善とは思いはしない。でも、もし逆の立場だったらと思ったら体が勝手に動いてしまってた。


 わたしはそっとおでこに唇を当ててすぐ離した。



「分かりました?」


「……まだ、分かんない」

 五十嵐先輩は視線を横に流す。その顔はほんのりと赤みを帯びていた。

 わたしがもう一度顔を近づけると、五十嵐先輩は目をきゅっと閉じて、短く息を漏らす。

 わたしはまたおでこにキスをする。今度はすぐには離さなかった。

 唇が熱くなってきてる気がする。ゆっくり唇を離すと同時に、五十嵐先輩の目もゆっくり開かれる。わたし達は目が合う。その潤んだ瞳は奥深くまで見透かされているようだった。



「どうですか?」


「……まだ…」




「じゃあ、これなら……どう、ですか?」


「……ん」





 五十嵐先輩の微かな吐息を感じる。

 頭を支えながら、無理に顔を上に向けているせいか、五十嵐先輩は小刻みに震えている。

「ちあっ――」

 名前を呼ぼうとするけど、わたしは呼ばせなかった。

 ネジとか糸とか棒とか、わたしの中の何かが外れたかもしれない。

 わたしは五十嵐先輩の柔らかい唇に唇を重ねていた。

 何故だろう?呼吸を止める時間がすごく短い。

 空気を吸う時、その唇を少し離すとまた、名前を呼ぶ。

「ちあきっ――!」

 また重ねると、五十嵐先輩から唇が離れる。

 すると、そのままもたれ掛かってくる。五十嵐先輩の体を支える事が出来ず、そのまま一緒に後ろに倒れてしまった。


「はぁ、はぁ、はぁ」

「……」

 息を荒げてるのはわたしだけ。倒れた今、冷静になる。

 何をした?何があった?息苦しい。


「千秋……」


 わたしの名前が呼ばれる。怖い。何が起きたのか、何をしたのか、知りたくない。

「千秋さ、さすがにあの態勢は辛すぎだってー、首が痛えよ」


 すぐ横にいる五十嵐先輩。顔なんて見れない。わたしは両手で顔を隠しながら謝る。

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

 こんな事するつもりはなかった。こんな事したくなかった。

「千秋」

 五十嵐先輩がわたしの手を掴み、持ち上げた。

 涙を流すわたしの顔。

「ははっ、ぶさいくな顔」

 わたしの顔を見るなり、悪態をついて笑う。

「だって……わたし……」


「そろそろ寝よっか?」




 五十嵐先輩は何も言わなかった。

 どうせなら何か言ってくれれば、多少は楽になれたかも。

 何をすればいい?どんな気持ちでいればいいの?



 五十嵐先輩は無言でテーブルをずらし、布団を敷く。

 部屋の隅で膝を抱えて、それを見てるだけのわたしは、すごく情けなくて、不安で、消えてしまいたいと思った。

 時刻は22時前。本当ならもっと夜中まで喋ったりして楽しいお泊りをしていたかもしれないのに、わたしがそれを壊してしまった。


「千秋いいぞー」


 その声に反応してのそりと動く。頭まで布団を被って、全身を隠した。


 カチッという音が聞こえ、部屋の明かりが消えたと思い、少しだけ頭を出してしまう。部屋は暗くなってはいたけど、微かにオレンジ色の光が部屋を照らしていた。


「わぁぁっ」

 全然驚かせようとする気のない声。でもわたしは体が跳ねるほどにびっくりした。

 まさかいるとは思ってもいなかった。

 咄嗟にまた布団で頭を隠す。



 ギシッとベッドが軋む音が聞こえた。今度はちゃんと寝る態勢に入ったようだ。

 寝たい。寝れば、こんなぐちゃぐちゃな感情を気にしなくて済むのに、寝れない。

 なんで寝れないの。酸素が薄い。熱が籠って暑い。

 なんであんな事しちゃったんだ……


 お泊りで浮かれていたのはわたしだった。何をしても誰も見ていない。

 五十嵐先輩なら許してくれる、そんな甘い考えだったのかも。

 だからといって、こんな友達の関係を壊すような真似は絶対にしないって決めていたのに、急に糸が切られて、吊るされていたわたしの何かが落下した。

 底のない深い深いその場所まで、そのまま落ちていく。

 落ちて、落ち続けて、次第に歯止めが効かなくなっていった。



 またわたしは泣いてしまう。この暗い布団の中で声を押し殺して泣く。


「何泣いてんだよ」

 わたしの布団に入り込んでくる五十嵐先輩。

 背中には温かい感触。優しく擦ってくれるその優しさに、また涙が溢れ出てしまう。


「なぁ、別に怒ってないぜ?」

「……だって、五十嵐先輩の事も考えずにあんな事、好きでもない奴に、初めてだったらとか考えると」

「初めてな訳ねぇだろ?先輩だぜ?」

 何故か心が締め付けられる。

「そう、なんですか?」

「……いや、初めて……」

 ホッとする自分と罪悪感を感じる自分が入り交ざる。

「なんか無理矢理してやったとか思ってない?」

「だって……逃げられないように頭掴んで……それで――」

「あんなん本気出したら逃げられるつうの」

「でも」

「あんな近かったのに私の事見えてなかったのかよ?……普通に、あ、くるなコレ。って分かったよ」

 わたしはすぐに理解が出来なかった。じゃあなんで、分かってたのに?

 なんで?気を遣って嘘をついてる?


「こっち向いて」

 振り向くのが怖い。顔を見せたくないって分かるでしょう?


「千秋、こっち向け」

 五十嵐先輩はわたしの髪をグイグイ引っ張って催促する。

 根負けしてゆっくりと振り返る。目は閉じたまま。一方的に見られるのは恥ずかしいけど、目を合わせるよりはマシだ。


 スンスン。


 微かに何かが前髪に触れた感触でわたしは目を大きく開ける。

 布団に潜ったから少し汗掻いていた。


「嘘、こんな時に……」

「えへへ、千秋の匂い好きだぜ?」

 ものすごく熱い。2人で布団に入っているから?

「怒るなら、怒ってよっ。気を遣わないで!」

 その言葉に五十嵐先輩の笑顔はすぅっと真剣な顔になった。

 五十嵐先輩は布団を覆いながら、起き上がり、そのままわたしの上に乗ると体を密着させてきた。

 咄嗟に引き剥がそうとするわたしの手は上から強い力で押さえられた。

 布団から顔を出してるのはわたしだけ。

 微かに出来た布団の隙間に視線を落とし覗くと、オレンジ色の光のお陰か、薄っすらと五十嵐先輩の頭が見えた。

 何をしているのか分からない。何か恥ずかしくて、何か熱い。

 最初はお腹が熱さを感じた。

 もぞもぞと動いているのは分かる。布団が少しずつ近づいてくる。五十嵐先輩は決して顔を出そうとしなかった。

 次は胸辺りに熱さを感じた。

 その次は腋に熱さを感じる。

 上に這ってくる五十嵐先輩の頭は気付くと首元にあった。


 スンスン ハァァ

 鼻を鳴らしては、熱い息が鎖骨にかかる。

 その熱さにわたしの体が反応してしまう。

 この人は下から上へ、わたしの匂いを嗅いでいたんだ。

「やだ……汗かいてる……」

「臭くねえよ。言ったろ?千秋の匂い好きって?」

 スンスン

「ンッ……怒んないの?」

「なんで?」

 クンクン

「だって、んんっ、やめてよ……」

「まだ分かんねーのかよ」

 五十嵐先輩はムッとしてまだ布団の中に戻ってしまう。

 またお腹が熱くなる。さっきとは全然違う熱さに感じてしまう。

 何度も何度も息を当ててくる。


「謝りますから、止めてください!」


 顔を出すとまだムッとしてて、五十嵐先輩はわたしの首筋に噛みついた。

 意思とかモラルとか恥じらいだとかは、壁を無視するように、すり抜けてしまい、わたしは声を漏らしてしまう。

 咄嗟に我慢なんて出来なかった。それほどの衝撃的な快感。

 少し痛いようで、でもその痛みは全然痛くなくて、だから余計にわたしを狂わせてしまう。


「ははっすげぇ声」

 耳元で囁かれて体が跳ねる。

「ちゃんと言ってくれなきゃ分かんないよ……」

「ここまでしても?」

「違ってたら、恥ずかしいですから」


 五十嵐先輩はわたしの上にうつ伏せで、全身を預けてくる。

 まるで赤ちゃんを寝かしつけているような。

 わたしは薄暗い天井を見上げながらただ黙ってる。


 すううぅぅぅ。


 もう、またこの人は飽きもせずに。

 大分慣れたのか最初の頃よりは平気になっていた。恥ずかしいのは恥ずかしいけど。


「……くっさぁ!」

「はぁ!?さっき好きって言っ――!」


 横を振り向くと唇に何かが触れる。一瞬の出来事でよく分からなかったけど、わたしの顔と五十嵐先輩の顔の距離がすごく近くて、この熱は多分……

「臭い千秋はきらーい」

 いたずらっ子のように笑っているけど、言ってる事とやってる事が全然合ってない。

 五十嵐先輩はゴロンとわたしの上から降りて、そのまま背を向けた。

「んじゃおやすみー」


 え、いや、言ってもらってないんですけど?

 あれ?

「ねぇ、ちゃんと言ってくれるんじゃ……」


「あー?あぁ、全然怒ってないよー」


 それだけ?いやそれも聞きたかったけど。ほんとにそれだけなの?

 だって、ええ?そういうもの?

 恐る恐る五十嵐先輩の腰に手を回そうとすると

「今お前から触ってきたらマジでキレる」

 はぁぁ?めっちゃ怒ってるじゃん!面倒くさすぎる!もういい!知らない!ばぁか!






「……しっぽだけでも、触っていいですか?」

「ん―」


 わたしはそっとしっぽを手に取り鼻に近づける。

 スンスン


 いい匂い。なんか落ち着いてきた……。


 クンクン


 スンスン



 クン、



 スゥ……



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