第20話 終転の魔女と透明な聖女2



 いつものソファの肘置きにもたれかかり、魔女は聖女が座っていた正面のソファをぼんやりと見つめる。

 沈み始めた太陽の光がレースカーテンを橙色に染め、空っぽのソファに複雑な模様を描く。

 時折風が流れ、影が重なってはまた離れる。

 ぐるぐると幾つもの小さな輪が踊る姿は、寄り添っては別々の道を行く人々の生涯のよう。

 とっくの昔にその輪からはじき出されたと思っていたが、自分にもどこかにつながる線があるらしい。


 それを知って喜ぶべきか、それとも嘆くべきか。


 言葉にならない感情が渦巻いて気持ち悪い。

 心がふわふわしていると同時にずっしりと体は重い。暴走する馬車に酔った時のようだ。

 魔女は肘置きに置いた腕の上に突っ伏し、意識して長い息を吐いた。


「一休みしませんか?」


 柔らかな声とともに、甘い香りが漂う。

 魔女が顔を上げると、トレーを手にした侍従がいた。

 トレーの上にはバターとチョコがふんだんに使われたお菓子。

 あまり露骨に喜ぶのも悔しくて、魔女は姿勢を正しながらせわしなく視線をさまよわせる。


 テーブルに置かれた丁寧に淹れられた茶と、甘い誘惑をする焼き菓子。

 なけなしのプライドで先に飲み物に手を伸ばす。


「温かい」

「日中は暑くても、森の中では気温は落ちますから」


 侍従の心遣いが、体だけでなく心も温める。

 ほうっと息をつき、続いて焼き菓子がのった小皿にことさらゆっくりと手を伸ばす。

 甘い香りを胸いっぱいに吸い込み、小さな口でかぶりついた。


 今なら籠に山盛りになったお菓子でもむさぼり尽くせそうだが、健康管理に厳しい侍従はそれを許してはくれないだろう。

 だがいつもより豪華なお菓子に十分満たされる。


「美味しい」

「それは良かったです」


 自分もソファーに腰を下ろし、侍従は昼間聖女に出していた物と同じビスケットをつまむ。

 しばらく無言で二人は口を動かす。

 二つのカップが空になった頃、侍従は背もたれに行儀悪く肘をかけて魔女のほうへと体を向けた。

 そして昼間は上げていた前髪の間から、藍の目がのぞき込んで魔女の名を呼んだ。


「シアの考えてること、教えてくれない?」


 視線と同じくらいに甘い声。

 シアは手の中でくるくるとカップを回し、何を言えばいいか探す。

 だがどう取り繕っても上手く言える気がしなくてため息をついた。


「何を考えればいいのか、分からない」


 正直な気持ちはそれだけだ。






 ――あなた、私に、来世があるのが見えるの?


 魔女の問いかけに、幼い聖女は目を点にして瞬きを繰り返した。

 それから口元に指先を当てて首をかしげる。


「え? 魔女さん、自分に術をかけられるの?」

「いえ、できないわ」


 自分が死なないということを悟った時、あらゆることを試した。その中にはもちろん、自分に新たに宿った力も含まれる。

 その魔女の答えに聖女は「だよねぇ」と納得してみせる。


「だったら、次があるでしょ? 魔女さんだっていつか死ぬんだし」


 魔女は彼女の言葉にあいまいな笑みを浮かべる。

 まさか不死ですなどと言えないし、言う必要もない。

 だが聖女は答えを期待していなかったようでぶらぶらと足を揺らし、残り少なくなったビスケットに手を伸ばす。


「あたしが見えるのはさ、そんなにはっきりしてないんだ。明日死にますとかじゃなくって、ぼんやりと三年先にぼっくり逝くとか、十年先に苦しんで死ぬとかそんな感じ。来世だともっと曖昧だけど、良い人生になるかそうじゃないかくらいは分かるよ」


 こぼれた欠片を聖女の膝の上に広げられたハンカチが受け止める。

 だが彼女がひっきりなしに足を揺らすせいで、食べかすがハンカチからさらにソファの上に転がり落ちた。

 聖女はそれを見ないふりをして彼女の話に耳を傾ける。


「魔女さんとさ、そっちの兄ちゃん、キラキラしてる。そういう人はさ、いっぱい生きていっぱい幸せになる人だよ。良かったね!」


 そう言って、にかりと悪ガキのような笑みで聖女は断言した。

 そんな彼女に、魔女は血の気の引いた白い手を握り合わせてぎこちない笑みを返した。







 人は死ぬ。


 当たり前のことだ。

 それを忘れたことなどない。


 だって、いつも魔女は見送ってきた。

 自分の前に現れては消えてしまう、愛情をたたえた藍の瞳を持った人のことを。

 たった一度だけ、見送らなかったことがある。

 それはあの始まりの日、騎士だった彼が息を引き取った日。

 目が覚めた時にはすべてが終わっていて、騎士も、騎士と魔女を殺した男も、兵士たちが残した武器や松明も消えうせていた。

 えぐり取ったはずの両目が復活し、ずたずたの顔も折れた足も焼けた肌も綺麗になっていたあの日。


 それからどれほどの年月が経ったか。

 人は死ぬ。

 それは当たり前のこと。

 だがその当たり前からとうの昔にはじき出されたと思っていた。


「死ぬのは怖いですか?」


 侍従の声に魔女は顔を上げる。

 彼の腕が伸ばされ、銀の髪をさらりと撫でて離れる。

 それはまるで恥ずかしがる女性をダンスに誘うような仕草で、魔女は唇を軽く引き結ぶ。

 この手に引かれてそのまま死ぬまで踊り続けられるならば、それはそれで素敵な人生なのかもしれない。


「あなたとなら、怖くはない、と思う」


 断言するには照れくさくて、魔女は弱弱しい語尾を付け足す。

 その声に、侍従は陶然とした笑みを浮かべた。

 なんとなくだが、魔女が聖女だった頃の騎士もこんな風に微笑んでいたのではないかという思いが背中をくすぐる。


「あなたの髪が背中まで伸びて、あなたの顔に年齢にふさわしい飾りが浮かぶのを見られるのはいつの私になるのでしょう。少し妬けますね」

「え?」


 魔女は金の瞳をぱちりと瞬かせる。

 侍従は目を眇めて魔女の完璧に整った顔を見つめ返した。


 何度転生しても、魔女は変わらない。それは美しさだけではない。

 どこか幸せに憶病なところも、自由な猫に見えてさみしがりやなところも、忠犬のように侍従の言葉はどんなに些細な事でも大切にするところも。


 小皿に乗った焼き菓子を摘み、侍従はそれを魔女の唇にそっと触れさせる。遥か遠い昔にそうしたように。

 魔女はゆっくりと口を開いてそれを招き入れた。歯を立てれば舌の上に濃厚な甘さが広がった。


「いつの時代も、あなたを見ていたい。でも一番の望みはあなたと一緒に歳を取って死にたい」


 魔女が齧った菓子の残りを口に放り、侍従は指先をペロリと舐めとる。

 それだけで魔女の顔が赤く染まる。


「それが、今ではないのは悔しいですが、それでもあの自分を神と同じ高みに登ろうとする存在にあなたを渡すのはもっと許せない」


 死の間際に願うことはいつも同じ。

 願わくば、いつまでも彼女と共にいられるように。

 死にも時の流れにも、ましてや神という胡散臭いことこの上ない存在にも引き裂かれることなどないようにと。


「いつかあなたと共に歳をとり、あなたと共に眠りにつけるのなら、私はその時になったら神を信じるかもしれませんね」


 口の端を上げて侍従が笑う。

 魔女は込み上げる熱を瞬きで散らし、薄い笑みを口元に浮かべる。

 そこに伸ばされた侍従の指が柔らかく頬を滑る。


「神にも渡さないとあの時、私は願いました。そしてあの時のままの姿であなたがここにいる」


 男らしい大きな手が魔女の頬を包んだ。


「あなたの中の時の針がまた進む時、それは神の存在の消失の証明となるでしょう」


 神などいないと宣言した男が告げる厳かな予言。

 いつか、誰もが転生を捨て、ただ一度きりの人生を生きる日が来る。

 その時こそ、全ての人は神という不確かな存在に背を向ける。

 作られた神は力を失い、砂時計をひっくり返す者は消え失せ、時はただ流れ落ちて元に戻ることは無くなるだろう。


 魔女は、胸の奥の心臓が時計の針よりも正確に鼓動を打つのが聞こえた気がした。





 







 歩道いっぱいに人がひっきりなしに行きかう。一体この数の人間はどこから湧いてくるのかと問いたくなる。

 車道は車道でこれ以上ないほどに混雑を極めていて、あまりに見つめすぎるとめまいを起こしそうだ。

 そんな文句を延々と心の中で呟くシア。乾いた風が吹いて彼女の長い銀の髪を揺らした。


「――ね、すっごい美人!」

「本当だ。銀髪って天然かな?」

「染めてんじゃない? てか、隣の人も格好良かったよね」

「嘘!? 見逃した!」


 若い女の子たちの会話がすれ違いざまに聞こえる。

 斜め上を見上げれば、風にあおられた癖の強い茶色の髪を耳にかけながら藍色の目をした男が首を傾げた。


「どうした?」

「別に、どうも」

「嘘。すっごい口が尖ってるけど?」

「気のせい」

「そう?」


 甘い笑みを浮かべるレゾルに、シアはそれ以上自分の魅力を振りまくなと言いたくなる。

 だが、そんなことを口にしたものならば、シア自身が羞恥で憤死してしまうだろう。


 この街はどこに行っても忙しない。

 だがそれこそが人の営み。ゆっくりした森から離れ、何もかもが早い時間の流れの中にいると人生がさらに短く感じられる。


「タワーは登ったから、今度はあっちに行こう。チョコレートクリームサンドがあるって」

「食べ過ぎじゃない?」

「うーん、旅行の間は良しとする」

「上から目線」

「背が高いからね」


 大きな口を開けて笑うレゾルを睨みあげる。

 彼は気にした様子もなく、シアの手を取って指を絡めた。


「さ、食べる分は歩いて消費消費!」

「ちょっと、急ぎすぎ!」

「シアがのんびりすぎ。若い時間はあっという間だよ」


 何度も人生を経験した男が言う。

 だがそれをそばで見ていたシアもその言葉に納得して頷いた。

 その力強い手を握り返し、人が溢れる流れの中へと繰り出した。



 ビルの森に住む鳥たちの声が聞こえる。

 清潔な洗剤の香りがするシーツから顔を上げ、シアはベッドの上に体を起こした。

 高いビルの窓の外から聞こえるのは鳥の声だけでなく、目覚め始めた町の喧騒。

 夜も眠らない町にあるこの宿は、ずいぶん遮光性の高いカーテンを使っているようだ。

 カーテンの裾からほんの僅か、一筋の光がベッドの上を走る。

 シアは手を伸ばし、癖の強い茶色の髪に触れる。それからそっと体を倒して彼の額に唇を寄せた。

 彼女の動きに合わせて、肩まで伸びた髪がさらりと流れ落ちる。

 もう消えかけた魔女の力が流れる。

 レゾルの魂に刻み込まれた遠い昔の記憶が伝わってくる。



 ――連れて行くな。



 掠れた男の声がする。



 ――渡さない。



 魂をがんじがらめに縛る声がする。

 それはシアをこの地に繋ぎとめた。


 あの時、自分の巫女であるシアを掴んで離さない男を前に、あの光は何を思ったのか。

 何を思ってシアに終転の力を与え、止まった時の中に縛り付けたのか。


 その答えは返ってこない。

 転生が揺らいだこの時代に、神の姿は希薄だ。


「――シア?」


 シアの名を呼ぶ寝起きの掠れた甘い声。

 寝乱れた前髪の間から藍の瞳がシアを見上げる。

 その瞳を見るだけで、シアの心は満たされた。


「どうした?」


 長い腕が伸ばされる。

 細い指がシアの頬を撫でた。


 指先を透明な雫が伝い落ちる。


「やっとあなたと死ねる」

「まだこれから長いのに」


 ベッドに突っ伏したままレゾルは笑う。

 シアも釣られるようにして口元に笑みを浮かべた。



 ただ一度の生を生きる者よ。

 巡る生から解放された者よ。


 限りある時に縛られた命に祝福を――


 










【後書き】

お読みくださりありがとうございました。


クロノスターシャ(シア)

聖女であり魔女。術を使う時は自身を巫女と呼ぶ。甘いもの好き。基本、侍従には弱い。

「クロノスタシス」という時計の針が止まって見える現象から取った名前。


レゾリアディヌス(レゾル)

騎士であり侍従。ダンディなおじさん、チャラ男、無口嫉妬男、ショタ、王道モテ男、腹黒騎士、お色気系と七変化した。

「復活」を意味するresurrectionから取った名前。



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