第5話 本心/フィクション
日が沈み始めた黄昏時。
《走ってください!》
アイが叫ぶのと俺が動き出したのはほとんど同時だった。
濃密な殺気にあてられて、人気のない森を人里の方へと引き返す。
「
背中を強く強打される感触が全身を貫くと、体が地面に縫い留められた。
まるで影を釘で地面に固定されたみたいだ。
「ふふ、逃がすと思ったのかしら?」
悠然と女が近づいてくる。
「とってもおちゃめで、とってもキュートね。いますぐにでも殺してやりたいほどに」
背中に硬い、棒の先端のようなものを押し付けられている。
杖だと確信できる。
《マスター! 反撃です! このままだと殺されてしまいますよ!》
アイが胸中で騒ぎ立てている。
わかってる、そんなこと。
でも、これ以上アイに頼るのは、嫌だ。
こいつに任せていると、あれよあれよと孤高の英雄に祭り上げられてしまう。
そんな予感がしてならない。
俺はただ、おかえりだとか、生きてくれているだけで十分だとか、たったそれだけの言葉をくれる環境があればいいのに。
特別な才能なんて何一ついらないのに。
「あの、何か、勘違いしていませんか? 俺は、どこにでもいるただのガキですよ。あのお方とか、殺したとか言われても、正直何が何だかさっぱりです」
嫌な汗がジワリとにじむ。
心臓を握られ、血が口から逆流するみたいだ。
暗がり始める視界の隅と、酷い吐き気にさいなまれる。
「フフッ、魔法省の間抜けどもはそれを信じるでしょうね。でも残念。私の目は誤魔化せないわ」
口先でその場を誤魔化せないかと言う浅慮な愚行は失敗した。
女は間違いなく俺を犯人だと確信している。
そしておそらく、あのお方というのは、あいつだ。
生まれたばかりの俺に即死呪文をぶつけようとした、あの醜悪な男だ。
「あのお方が望んでいたのは完全なる勝利のみ」
女は言う。
俺や母さんがいる状態で勝利しても、守るべきものがいるから全力を出せなかった、などどケチがつく。
「あのお方なら、赤子と母親から先に始末する。だって――そうすれば怒るでしょう? あなたの父君は」
醜悪な男の目的は一つだった。
俺の父親を本気にさせて、全力で戦うためだ。
女はそう言うが、その理屈は穴だらけに思える。
「ま、待って。どうして父さんなのさ。父さんは、ただの雑貨屋だよ?」
禁術指定されるような即死呪文をぶっぱする男が、どうして一介の雑貨屋と命がけの決闘を望むんだ。
女は少し沈黙し、それから笑い始めた。
品性を感じない笑い方だ。
「あなたの父君も昔はイイ男だったのよ? いまじゃ見る影もないほど腑抜けてしまってるけど」
ちょっとタイム。
(アイ、弁明の機会を与えよう)
《マスターのお父様は、大陸三大魔法学校の卒業生であり、その中でも歴代最高峰の大天才と称された経歴を持つだけのごく普通な、――雑貨屋です》
(そんな雑貨屋がいてたまるか!)
俺は血統なんていらないって言ったよね?
とがった部分の無い親を望んだのに、父親が無冠の英雄格ってどういうことだよ。
《冷静に考えてください、マスター。平凡な両親から『大賢者』の素質を持つ子どもが生まれるのはおかしいでしょう?》
俺は特別な才能なんて望んでないけどな!
チクショーメ!
「話がそれちゃったわね。つまり、あなたが生きてるはずないのよ、本来ならね」
女は言う。俺の母さんは平凡な魔法使いで、とても即死呪文に対抗できるような人物ではない、と。
俺の父さんは、家族を殺されでもしない限り相手の命を奪うほど暴走してはくれないと。
「考えられる可能性は一つ。あなたが、あのお方の放った即死呪文を、何らかの方法で跳ね返したのよ」
背後で女が放つ殺気が、苛烈を極める。
呼吸の仕方を思い出せなくなる。
威圧感だけで殺されてしまいそうになる。
「答えなさい。生まれたばかりの赤子だったあなたが、いったいどうやって――」
「その手をどけなさい。
赤い光が弾けた。
女が小さく呻き、背中に突きつけられていた棒が取り除かれる。
「警告いたします。即刻この場から立ち去りなさい」
視線だけをそらし、光が瞬いた方をうかがい見ると、そこに、夕焼けに燃える金色の髪を揺らす女が立っている。
「さもなくば、エース様に仇なすあなたを仕留めます。ポット家に仕えるメイドとして」
立っていたのは一人のエルフ。
よく見知った相手。
そこに、ハーティアがいた。
「うふふ、素敵。そんな殺し文句を言われたら、私――」
「
背後から血しぶきが飛び散った。
女が凄艶な笑い声をあげている。
「勘違いなさらないでいただきたいのですが」
ひるがえって、ハーティアの語調は鋭利淡々。
「行われるのは蹂躙です。ゆめゆめ、戦いになるなど思いあがらないようご注意を」
ハーティアはあれで、手加減していたんだ、俺との鍛錬の時は、めいっぱい。
(強い……ひょっとして、ハーティアがいたら無事に帰れるんじゃないか?)
突然やってきたピンチ。
またアイに頼らないと生還できないのかと思ったけれど、ハーティアは駆けつけてくれた。
そのうえ、実力は俺の想定をはるかに上回っている。
俺が何もしなくても、解決しそうだ。
《マスター、それはフラグ》
アイが言い切るより早く、女が俺を盾に身を隠した。
「うーふふっ」
そのうえ、彼女の手には、いつのまにか杖が握られている。
「残念、杖が一本だと思った?」
二本目だ。女は二本目の杖を隠し持っていたのだ。
「フフッ、妙な真似はよしてね? あなたが魔法を発動するより先に、私の杖がこのボウヤを殺すわよ?」
ハーティアが歯噛みする。
「杖を置きなさい、エルフ。早くッ!」
女が語気強めに言い放てば、ハーティアはしぶしぶ、杖を捨てた。
捨てるしかなかった。
女が不敵に笑う。
「形勢逆転ね、エルフ! さあ、
「グっ、あ、ガァあぁぁぁァァッ!」
響いたのは、耳を防ぎたくなるような絶叫だ。
わかったのは、ハーティアがもだえ苦しんでいること。
「あはははは! さっきまでの威勢はどうしたのかしら、金髪エルフさん? 蹂躙するんじゃなかったのかしら!」
女は執拗に、同じ呪文を繰り返している。
「やめろ」
俺の喉から絞り出された声は、あまりにも弱弱しく、頼りなかった。
「やめてくれ」
ハーティアは関係ないだろ。
お前の興味関心は、俺だったんだろ。
もう、もういいだろ。
「あはァ」
そんな俺を、女は愉悦に満ちた瞳で見ていた。
言葉が通じる相手じゃない。
「ハーティア逃げろ! 俺は、お前が命を賭けてまで守らないといけないほどできた人間じゃない!」
ごめん、ごめんよ、ハーティア。
本当の家族じゃないくせになんて言って、ごめん。
嘘だよ。そんなこと、思ってない。
大事な、大事な家族なんだ。
初めて手に入れた、失いたくない家族なんだ。
「だから、頼むよ」
これが嘘偽らざる俺の本心だから。
心の底からの純粋な願いだから。
「逃げてくれ、ハーティア」
ハーティアが、長い、ため息をついた。
彼女の顔は、見れなかった。
見捨てられるとわかっていて、その傷を受け止める覚悟は間に合っていなかった。
それでも、ここで彼女を失うよりはずっとマシだ。
だから、後悔はない、絶対に。
「お断り、いたします」
ハーティアは、短く言った。
「その願いは、聞き入れかねます」
なん、で。
俺はハーティアに酷いことを言ったのに。
見限られて当然のことを口走ったのに。
「エース様はおっしゃいましたね、『本当の家族じゃないくせに』と」
うなだれたままの俺に、ハーティアは構わず言葉を続ける。
「私にとっては、本物だったのです、生まれて、初めての、家族だったのですよ、エース様」
ハーティアは言った。
「ですから」
ハーティアは言った。
たとえこの身が傷ついたとしても、死よりも苦しい責め苦を受けるとしても。
「大切なものを、失いたくないから」
ハーティアの気迫に釣られて、顔を、上げた。
そこに映った彼女の顔は、どうしてだろう。
慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「逃げるなんて、ありえません」
琴線に触れたのは、形容しがたいほど熱い、ナニカだった。
「うっふふ、素敵な家族愛だこと。直視できないほど眩くて、胸が熱くなるほど劇的で、いますぐにでもぐちゃぐちゃにしてやりたいくらい!」
何をやっているんだ、俺は。
(アイ)
拳を固める。
《なんでしょう、マスター》
意地張って、ごめん。
助けてくれようと差し伸べてくれたお前の手を、何度も振り払ってごめん。
謝るよ、何度だって、俺が悪かった。
だから、お願いだ。
――力を、貸してくれ!
俺がアイに願うのと、女が呪文を叫ぶのはほとんど同時だった。
即死呪文。
女が放った呪いの文句は、相手の命を奪う光を呼び出した。
時間の猶予はわずかもなかった。
光が狙うのは、拷問呪文でいたぶられ続けたハーティアだ。
半秒と待たずに死の光はハーティアを貫き、その灯火をあっけなくかき消すだろう。
だが、俺の予想を裏切って、おぞましい光は霧消した。
《魔法詠唱者の術式解析、解読完了。術式干渉。出力減衰。効果不発》
光る文字列が、粛々と処理を執行する。
《ようやく素直になりましたね。マスターはただ、わたしにお願いすればいいんです》
そう語った文字列は、少し小躍りしているように思えた。
《格の違いを教えてやれ、と》
胸中の『大賢者』は、ふてぶてしくもそう語った。
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