第17話
※
まったく、何が面白くて笑っていたのか分からない。緊張の糸が切れた、というものなのかもしれない。
しかし、緊張の糸はすぐさま結び直された。ピピッ、という微かな電子音が、俺たちの耳に入ったのだ。
笑顔を消して、俺と薫はそれぞれ戦闘体勢に入る。
電子音が発せられたのは、エントランスから病棟に繋がるスライドドア。俺たちから見て右側のドアだ。
ガラス片を踏んで音が立つのを控えつつ、俺たちはスライドドアの方へと向かった。
すると、まさにこの時を待っていたといわんばかりに、ドアはするすると引っ込んだ。
俺はバイザーを赤外線モードに切り替えた。
「……敵はいないようだな」
「あたしたちを進ませよう、っていうつもりなのかしら?」
「それが本当なら犯人をとっ捕まえる。罠なら突破するまでだ」
「うん」
いつになく警戒心を前面に押し出しながら、薫が頷く。
しかしな……。
俺にも危惧というか、そんな簡単に考えていいものなのかという危機感がある。
ふっと息を吸おうとした、その時。
俺の前方から、急速に何かが近づいてきた。
「野郎!」
俺は立ったままゴム弾で銃撃。しかし、それでも敵の勢いを相殺するには及ばない。
人型の影がよぎったが、敵はゾンビなのだろうか?
「薫、頼む!」
「ふっ!」
状況を見計らっていた薫は、俺の両肩を跳び箱のように使ってゾンビの眼前に躍り出た。
勢いを殺さず、しゃがんだ姿勢から顎を狙って拳を突き出す。見事なアッパーカットだ。
「大丈夫か、薫?」
「その言葉、綺麗にあんたに返すわよ。それより大問題が発覚したのだけれど」
「大問題、って……?」
「あたしたちには、敵が見えない」
「お、おい、冗談よせよ」
薄っすらと月光に照らされた薫の頬。その輪郭線を見つめながら、俺はそう言った。
その声は、しかし自分で聞いても嫌になるほど恐怖心に染められたものだった。
※
何故赤外線バイザーでゾンビを捕捉できなかったのか?
これは俺たちばかりでは測りかねる部分だ。あまり面倒はかけたくないが、ヴィーナスから情報を貰った方がいいかもしれない。彼女にとっても、今回の事件は既に乗りかかった舟であるはずだし。
しかし、博士と連絡を取り合っていた大河原三佐は、博士と話すまでに随分と手の込んだ準備をしていた。トランクに入れていた無線機がそれだ。俺や薫が持たされたチャチな携帯端末で繋がるのかどうか……。
念のためにと用意しておいた、博士の端末番号。それを入力してみると、思いがけない音声が鼓膜を震わせた。
《あら、絢斗くん! どうかしたの? 順調?》
「……」
俺は答える術を持たなかった。博士の声を聞いて安堵した、というのが、もっともな理由なのだろう。
少し間があって、なにやら端末の向こうでごそごそという音がした。聞こえてくる声からすると、そばには三佐がいるようだ。
《それで? ご用件は何かしら?》
「あ、あのですね……」
薫が周辺警戒をしてくれている間に、俺はゾンビの体質について尋ねた。
どうして赤外線で捕捉できないのか。そして、本当に彼らは元の人間に戻れるのか。
二つともいっぺんに言い切ると、博士は低い呻き声を上げた。
それから短く息を吸って、応答し始める。
《まず答えやすい方から。ゾンビにも種類があるのだけれど、体細胞中の切り替わり、つまりゾンビになっている時間はそう長くはない。もし気絶させることができれば、放っておいても気がつく頃には人間に戻れているはず》
「そうですか……」
これを聞いて、今度は薫が胸を撫でおろした。
三佐が『しかし』と注釈をつけるまでは。
《絢斗、お前はさっき、赤外線でゾンビを捕捉できない、と言っていたな?》
「は、はッ!」
《そいつらは、ヴィーナス博士の推測によれば『完全なるゾンビ』なのだそうだ。通称は『ゾンビⅡ型』。普通のゾンビよりも耐久性があり、仕留めるのは困難。赤外線で捕捉できないのも無理はない。体温が急激に降下しているところだろうからな》
「それってつまり――」
《対人用の非殺兵器ではどうしようもない、とでもいうことだな。自動小銃なら足止めはできるだろうが……。いずれにしても、連中の足を止めるには重火器を調達する必要がある》
狭い屋内では戦いにくいだろうが。――そう言って、三佐は少し間を置いた。
さて、この場に『ゾンビⅡ型』に通用する兵器はあるだろうか?
自動小銃の弾倉を実弾に交換しながら、絢斗は考えた。するとすぐさま薫が声を上げた。
「大河原三佐、具体的にはどんな兵器が有効なのですか?」
《ふむ。連中を駆逐するには、貫通性の高い兵器が有効だ。流石に頭部を破砕すれば、ただの死体にしかならん》
ゾンビあるあるだな、それは。
《それと、温度差だな。生身の人間に戻れる旧式と違い、Ⅱ型は温度変化に弱い。だからこそ、これを生物兵器として欧州某国へ輸出する計画があったんだ。年間を通して温暖だからな。日本での運用は厳しいが……》
「大河原三佐は何でもご存じでいらっしゃるのですね。警視庁の公安でも、そこまでの情報は掴んでおりませんでした」
《それはそうだ、七原警部補。情報化社会における一番の脅威は、他の組織に情報が漏洩してしまうことだからな》
俺は妙な違和感を覚えた。
「三佐、それを今言っていいんですか? 俺と三佐の間ならまだしも、七原は警視庁の人間ですよ? 勝手にそんな情報をリークして――」
《おっと、言い忘れた。今から三十分ほど前、この件については、防衛省と警視庁公安部が共同でその情報を取り扱うことになったんだ。情報解禁というわけだな。だから七原警部補にも伝えた。これが一時間前だったら、私は軍法会議に晒されていたがね》
そんなことがあったのか。やっぱり御上の考えることは、下々の俺たちには分かりませんな。
《話を戻すぞ。葉崎! 対戦車ライフル、または携行用対物ロケット砲の実弾訓練は受けていたな?》
「はッ!」
すると空気を読んだのか、薫ははっとした様子でしゃがみ込み、背負っていたスポーツバッグを床に下ろした。
「絢斗、これ……」
俺は思わず、目を見開いた。
「でかしたぞ、薫! 三佐! ライフル、ロケット砲共にあります! 残弾も、今ここで使用する分には十分かと。ついでに――」
俺は言葉を切って、スポーツバッグから野球ボールほどの大きさの球体を取り出した。
「強発熱性の手榴弾があります! 起爆すれば、一瞬でフロアの一角を焼き払うことができます!」
《了解。こちらから増援を出せないのは心苦しいが、全責任は私が取る。存分にやってこい》
「了解!」
俺は端末の通話を終了した。
「いやあ、薫! よく持って来てくれたな、こんな重いのに……」
「わっ! ばっ、馬鹿! 頭を撫でるな!」
おおっと、家族ごっこの波に乗ってしまった。今はそれどころではないというのに。
「薫、提案だ。言いにくいんだが……」
「あたしに囮になれ、って言いたいんでしょ?」
「え? どうして分かったんだ?」
そこから先、薫は俺の脳内をトレースしたかのように語り出した。
その作戦概要はこんなところである。
まず、薫がゾンビの蔓延る廊下に現れ、無理のない範囲でゾンビ共にダメージを与える。
どうやらⅡ型と言われる奴らは、簡単に骨や筋肉を破壊できる相手ではないようだし、だからこそ『無理のない範囲で』と言いつけたのだ。
陽動が終了し次第、まとまりの大きくなったゾンビ共の前から薫には離脱してもらう。
薫の安全が確認され次第、俺は対戦車ライフルでⅡ型の連中を消し飛ばす。あわよくばヘッドショットで。
「問題は射角だ。自動小銃ならまだしも、対戦車ライフルを担いで発砲することはできないからな……」
もちろん、光石による能力付与があることは、俺も実感している。だが、それでも対戦車ライフルを直立姿勢で発砲するのは不可能だ。というか、無茶苦茶。
対戦車ライフルと対物ロケット砲の残弾が気になるところだが、こればっかりは今更どうにもならない。
今の薫が本気を出せば、Ⅱ型の首をへし折るくらいはできるかもしれない。だが、それで薫が負傷してしまっては元も子もない。というか、そもそも怪我なんてしてほしくない。
「……」
「どうする? 絢斗」
「ねえ、聞こえてる?」
「ん? ああ」
「ゾンビは防護壁のすぐ向こう側まで来てるわよ、早く作戦を!」
そうだな。作戦に私情を挟むべきではないよな。
「最初は俺が対戦車ライフルを撃ちまくって、接近中のゾンビを粉砕する。それから陽動を頼みたい。できるか?」
俺の問いに、薫はにやりと口角を上げてみせた。
やってみなければ分からん! とでも言うのか。
振り返って、鋭い視線を注ぐ薫。俺は口の動きだけで、こう呟いた。
「頼むぜ、お嬢さん」
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