絶対音幹ピアニスト・矢野しずく

11月15日。雫音も予定通り紅白歌合戦に出場することが決定し発表された。その反応は様々だった。これきっかけに認知してくれた新規のファンがかなり増えると同時に、いわゆる「ポッと出」と言われている私達の影響により、出場枠から漏れてしまったアーティストのファンなどからの誹謗中傷の数も増加。兎にも角にも、コメント欄やSNSなどでかなりの盛り上がりを見せた。

ただ何を言われようと、二人にしか作ることの出来ない作品がその中心にある事に違いない。この時、外野に引きずり落とされるような事はなかった。私達は強く美しい。


それとは全く関係なく、12月に入りしずくの体調が本格的に悪化する。基本的に強い薬などは服用したくないという意思のもと続けてきたが、演奏終わりの息切れ回数、その長さなどもかなり変わってきたと感じる。最低限の痛み止めや抗生物質を弱々しく口に運ぶ彼女を見るたび「辞めても良いんだよ」と言いたくなってしまう。でも絶対にダメだ。なんのためにしずくは私を最期のパートナーに選んでくれたのか。なんのためのマネージャーなのか。自分の負けそうになる心音「そのもの」すら私は必死に押し殺し、アリスを歌うことに注力した。我ながら歌の上達速度は中々のスピード感であり、毎回しずくが褒めてくれることがモチベーションにもなっていた。


だがしかし、最後の最後になって自らが作ったこの「アリス」という曲が、己の首を締めていることに気付く。私が書き上げたこの曲は、何故かとっても悲しくて残酷だ。最後にふわっと前を向けるのだけれど。それをこの状況(しずくの生命の灯火が消えかけていく中)で練習することになるなんて、制作中の私には考えつかなかった。相変わらずの詰めの甘さを発揮してしまう自らを叱責、時には鼓舞しながら年末に向けて日々は過ぎていく。



本当の事を言えば、私はしずくが居なくなる事を心の中で消化しきれていない。しずくが居なくなった世界を想像するだけで、怖くて怖くて気持ち悪くなってくる。


いくら出しても良いから、とってもいいお薬を買ってあげたい。

いくら出しても良いから、飲めば直ぐに治るような新薬を作るために協力したい。

そして私の寿命を分けてあげられるのなら、彼女が望む分だけ差し伸べてもいい。

生まれてこの方、こんなにも死んでほしくない、と思える人は私の中ではいなかった。


しずくはボロボロだった。来る大晦日。しずくは車椅子で現場に入り、そのままピアノの前に向かって、スタジオからの呼びかけを待つ。かなり痩せていたので、そうとは分からないような工夫のある衣装を身に纏いながら。


そして、絶対音幹ピアニスト・矢野しずくは最期のステージで、自らの人生の走馬灯を日本中に語りかけるような、渾身のパフォーマンスを魅せる。その心音は今まで聞いたことのないような音だった。私の中の絶対音幹がそれに応えるように共鳴する。

「ありがとう。ずっと一緒だよ」

その光景と二人の出す音色に数多くの視聴者が涙し、私達のステージは大反響を呼んだ。結果、雫音は伝説となり、最初で最後の大舞台を無事に終えることになる。


しずくはもう長くない。そして、それに輪をかけるように幸福の「下振れ」が、年明けから私をじわじわと苦しめ始めることになる。


覚悟はしていた。でも…。

神様は時に優しく時に残酷だ。

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