閉じた楽園の歌姫

宵宮祀花

鳥籠の天使

 天上の楽園を似せて作られた箱庭のように、美しい花々と家具で飾られた部屋で、一人の少女が細く白い喉を震わせて歌っていた。小鳥のような甘く愛らしい歌声は、しかし隠しきれない悲哀を纏い室内に満ちる。

 長い睫毛を伏せ、朝露に濡れた薔薇の花弁の如き艶やかな唇で少女は詩を紡ぐ。

 繊細な装飾を惜しげもなく施した鳥籠は、やわらかなレースと真綿のクッション、馨しい花で満ちている。囚われの小鳥の美しい羽が、僅かでも傷つかぬよう。花より麗しく小鳥より愛らしい、たった一人の稚い少女のためだけに。それらは在った。


「クリスティーネ」


 楽園の如き花園に、天上の鈴を転がしたような声が響く。晴れ空に澄み渡る歌声を思わせる、何処か弾んだ声音だった。

 鈴の音に呼ばれた少女クリスティーネは、歌うのをやめて小首を傾げた。


「わたしの可愛いクリスティーネ」


 眩しそうな表情でシャルロッテを見つめるのは、クリスティーネの癖だ。

 緩やかに癖のついた長い白金色の髪がふわりと靡き、髪に飾られた花が甘く香る。大地より切り離された切花でありながら、其処に咲いていることが当然であるように瑞々しく、クリスティーネのために色艶を保っている。

 シャルロッテはクリスティーネの稚い曲線を描く滑らかな頬に小さな手を伸ばし、両頬をやわらかく包んだ。

 擽ったそうに身を捩りながらクスクス笑うクリスティーネの額に自らの額を重ね、見つめ合い、甘く熟れた果実のような唇を合わせる。戯れのような口づけの合間に、しっとりと熱を帯びた吐息が漏れる。

 この世に並び立つもののない無二の歌声を持つ天使の唇を、当たり前に奪うことが出来る。その事実がシャルロッテをこの上なく陶酔させた。


「愛しているわ、クリスティーネ。あなたの甘やかな歌声も、星屑をまとった綺麗な瞳も、砂糖菓子のような唇も、全てよ」


 クリスティーネはシャルロッテの言葉にはにかんだように微笑み、己の頬を包んでいる白い手に手を重ねて歌い始めた。


「素敵な歌声ね、クリスティーネ」


 クリスティーネは歌う。

 喜びに満ち足りた微笑を浮かべて。

 この世に僅かな不安も恐怖もありはしないと、心から信じているような顔で。


 天使の鳥籠に囚われてから、クリスティーネは緩やかに壊れていった。

 まるで、生まれたときから歌うための人形であったかのように、クリスティーネは歌以外を忘れた。シャルロッテの呼ぶ声に反応は見せても、それだけであった。

 言葉も、愛も、口づけも、抱擁も、いつもシャルロッテから与えるばかりだった。だが、シャルロッテはそれで充分しあわせだった。


 オペラ座の象徴的ヒロイン。天賦の才を持つ歌姫。

 己を飾っていた言葉は、ある日を境にクリスティーネのものとなった。

 周りはシャルロッテを落魄おちぶれたヒロインと憐れみ嘲笑したが、シャルロッテにその声は微塵も響かなかった。何故なら、大衆などよりも余程シャルロッテ自身が彼女の歌に、才に、心酔していたから。

 嘗ての賞賛などに未練はない。けれどそれらがクリスティーネの歌声を飾ることも許せなかった。己のお下がりなどに収まるような、陳腐な才ではないのだから。

 シャルロッテにとってクリスティーネは地上に舞い降りた天使であり、花園に遊ぶ妖精であり、穢れなき無二の乙女だった。

 やわらかな陶器で出来た歌人形のようなクリスティーネを、シャルロッテは自身の屋敷に連れ帰った。絹糸のドレスを着せ、やわらかな羽毛のクッションで包み、甘く香る花々を集めて飾った。

 全ては、愛おしいクリスティーネのために。


「今日も綺麗よ、わたしの可愛いクリスティーネ」


 愛しい天使を抱きしめ、囁く。細く頼りない体を抱きしめているときだけは、胸に伝わる鼓動がクリスティーネを歌人形から少女に戻してくれる。


「愛しているわ、クリスティーネ。誰にもあなたの歌を聞かせたくないくらいに」


 暗い夜空のようなシャルロッテの瞳を、クリスティーネが眩しそうに見つめる。


「でも、あなたもわたしのために歌っているほうがしあわせでしょう?」


 言葉は無い。白い喉が震え、歌を紡ぐ。

 シャルロッテがクリスティーネの歌に歌声を重ねる。調和し、揺蕩い、部屋に歌が満ちる。


 閉ざされた楽園のような鳥籠の中で、少女たちは歌い続けた。

 この世の春を。終わりない幸福を。永久の夢を。歌い続けた。


 * * *


 見せかけの楽園に、あなたは心を閉じ込めた。

 あなたの畏れは毒となって、あなたを蝕んだ。


 かわいそうなシャルロッテ。


 わたしと出会ってしまったばかりに。

 あなたは永遠に此処から出られない。


 わたしを閉じ込めた天使の鳥籠は、あなたのための優しい檻。

 壊れてしまったあなたの心の破片を、せめて慈しんであげる。

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閉じた楽園の歌姫 宵宮祀花 @ambrosiaxxx

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