おかえりの匂い

 そうこうしている間に、彼女は住処にしているマンションに到着したようだ。ひとしきり泣き腫らして、バックから鍵を取り出している間に気が収まったらしく、玄関を開けたときにはかなり落ち着いていた。


「ただいま……」


 暗い部屋にそう呼びかけるが反応はない。その状況に下唇を噛み締め、また涙が溢れてくる。


 返事が返って来ないのは当たり前で、彼女は一人で暮らしているのだから、もし返事が返ってこようものなら、血相を変えて扉を閉め、大家か警察にでも通報しているところ。そんなことは心晴自身も痛いほど理解している。


 けれど、ただいまって言って何も返って来ないというのは言葉にならない寂しさが込み上げてくるものがあって、それは家に帰れば必ず誰かが返事を返してくれる環境に住んでいた人間ほど深く濃く影を下ろすもの。


 今日のように落ち込んだ時は、家族が気を使ってくれて、香りの良いお味噌汁や家で解体された動物の肉を焼き豪勢な食事の匂いがする。いわば、『おかえりの匂い』っていう嗅ぐだけでホッとして、心が温かくなり休まる良い香りだ。


 でも、そんなものは今や都会で一人生活するようになった彼女の部屋には無い。誰かとシェアハウスをしているならあり得たかもしれないが、現実問題としてそれもない。どう足掻いても覚えている、おかえりの匂いは再現できない。


 部屋の電気を付けて、生活の残骸だらけになっている廊下を渡り、仕切りを跨いで生活の定位置に座り込む。


 元々は白いローテーブルの姿があり、定位置の前には録画機器やゲームを収納する台の上にテレビがあって、背後にはベットが存在してその側面を背もたれとして利用し、そこでゲームのコントローラーやリモコン、スマホを持って、自分の世界に浸り込でいた。


 けど現在は、忘却飲料が詰められたクシャクシャのビニール袋と散らかったゴミが散乱する生臭い空間。ローテーブルには洗ってない食器やいつ買ったのか分からないデカい飲料の飲みかけのボトルが何本も立っている。


「ああ、生臭い~でもこれが感じられるってことは、まだ生きている証拠なんだよね。はあ、この腐乱した絶望感もきっとそうなんだろうな……」


 皮肉な話これが現在のわたしの『おかえりの匂い』である。


 会社で時計を見たときは十九時だったのだが、ふと自宅の時計を見ると、片道長くとも一時間は使わないはずなのに、意識が飛んでいたのか、もう既に次の日を跨いでいた。


 無意識にその白い毛玉になったような袋から缶ビールを取り出し、缶の常温の冷たさで時の経過は現実のものだと自覚させられる。いつもであれば、冷蔵庫でキンキンに冷やして、最初の一杯目を愉しむために良い軽減お料理や塩辛いおつまみをお供にして、最初のひと口で半分近くを胃袋の中に入れる。特にビールって奴はそれが良いのだ。不健康だと分かりつつも行うその罪深さに酔いしれるのだ。


 そのイメージを想像しながら常温のビールを口にして体感五秒後、すべてを戻しそうになった。


「カッ、絶望的に酒がマズイ!」


 頭の中はおかしくとも内臓は正常なようで、突然、空きっ腹に入ってきたアルコールを異物として判断したらしく、その溜飲と共に口内へと上がってきて苦酸っぱい味と空気中の生臭いさも配合してきて味はさらに最悪になる。その口内を消毒しようと逆にアルコールをぶち込んで錯乱に近い中和を図ろうとする。


 意識が戻ってくるころには三本も開けていて「これは酷いな~」とはき溜めになっている周囲を眺めながら、悪い意味で落ち着く。


 そして、もう一本開けて苦虫を潰したかのような顔の渋さを感じつつ飲み終わったものを捨てるところを探した。ゴミ箱を見つけたわたしは、酒も腕にも焼きが回った手つきでそこに目掛けて握りつぶした缶を投げつけ、カランカランとゴミ箱の縁を跳ねて、最終的に床を跳ねて手元に戻ってきた。

 

 舌打ちしながらもその缶を掴み、他の缶ゴミと一緒にゴミ箱と落とし込む。


「これなら確実……可能性も関係…………ないよね」疑いようもない事実なのに、何だか納得できない。


 定位置に戻ったあと再び、缶を開けて先ほどの作業を繰り返す。気付けば最後の酒も飲み干し、混濁した意識の中一つの言葉が頭に浮かんできて、缶同士がぶつかり合う音でその言葉は言語化され、口から外へと排出された。


「わたし……なんで生きているんだろう?」


 再び定位置に戻り、ベットに背を沿わせて天井の蛍光灯の白い光を背景にして、そのことについてわたしは考え始めた。

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