第53話 羞恥
2度目の舞台が終わって、またしばらく他の人の出番が巡る。イリーナ本日最後の舞台は夜の6刻を回って真夜中過ぎになってからだった。
客に要求されて例の歌を3回続けて歌う。2度目よりも多くの投げ銭がされた。
拾い集めた硬貨を持って舞台裏に引っ込む。すれ違ったイーヴァは前歯をむき出しにして笑いかけてきた。上機嫌を示しているのだとは思うが、照明が無く薄暗い舞台裏で見ると不気味であった。
「すごい……」
金属の輝きを放つ手の平の上の山を見て、イリアは呟いた。銅貨が20枚以上はあり、さらに小銀貨まで4枚ある。昨日泊った宿なら二泊4食分になる額だ。
舞台裏の一部は中くらいの大きさの部屋になっていて、大きな鏡が3面もあり、そこで踊り子たちが汗を拭いたり、化粧や着替えをするようだ。楽屋というらしい。
ちなみにナタリアを始め4人の踊り子は全員生まれつきの女性に見える。
楽屋からナタリアが出てきた。露出の多い舞台衣装ではなく、ゆったりとした部屋着だ。まだ化粧は落としていない。上まぶた全体が真っ青である。
「ねぇイリーナ。さっきの歌、イーヴァ母さんが歌わせたのよね?」
「はい」
「はぁ……」
「なんですか?]
「分からないならいいのよ」
とりを勤めたイーヴァの舞台が終わり店は閉店した。日暮れ前、イリアに夕食を作ってくれた調理係のシモンが調理場でコメを炒め煮にしているようだ。店の者はこれからなのだという。
イリアに食べる元気はない。普段ならとっくに寝ている時間だ。
イーヴァと甥のドラン。それとナタリアだけがこの店に寝起きしているという。踊り子3人に調理係シモン。それと箱琴弾きのローランは他に家がある。
ローランが裏口に向かおうとするのをイリアは呼び止めた。
「あの、これ忘れてます」
イリアが手渡そうとしたのは小銀貨2枚と銅貨13枚。伴奏をしてもらうとき、投げ銭の半額を渡すようにイーヴァに言われていた。
常に半額という訳ではなく、1舞台いくらで約束する場合もあるという。
箱琴を背負ったままで猫背気味のローランが体を斜めに向け、首だけでイリアを見て左手で指さしながら言った。
「……取っとけ。初舞台の祝いだ」
つばの大きな黒い帽子を目深にかぶり直し、そのまま去った。
「かっこいい……」
「駄目よイリーナ。あいつはたらしだから」
イリアの肩に手をかけてそう言ったのは背の高い赤毛の踊り子だった。
翌日は雨模様だった。目を覚ましたイリアが小部屋から出て店の方に向かうと、3人は店の真ん中の丸卓で食事の支度を整えていた。
「すいません、おはようございます。俺も手伝います」
ドランがガラス杯に水を注ぐ手を止めて振り返った。
「おはよう。といってももう昼だけどね。謝る必要は無いよ、支度出来たら起こしに行くつもりだったんだから」
「こっちの世界じゃ昼に起きて真夜中過ぎに寝るのよ。慣れてね」
豚あばら肉の燻製をつまみ食いしながらナタリアが言った。
イーヴァが卓に置かれたまな板の上で大きな黒パンを輪切りにしていた。
「とにかくあれはないわよ母さん。ひと月前まで子供だったイリーナに」
「しかたがないだろ、急だったんだから。あんたたちで、もっといいのを教えておやりな。アタシはああいうのしかできない」
ナタリアとイーヴァが話し合っている。イリアは
「……おいしい」
「お、それはよかった。ぼくの唯一の取り柄だからね」
「『浄水』ですか」
「そう。この水差しは持ち手から注ぎ口までが純銀だから、マナがきれいに通るんだよ」
「唯一ってことは、単精霊適正ですか」
「そうだよ。水精霊に『並』だ」
艶やかな栗色の髭をひと撫で。ドランは誇らしげにしている。
「……実は俺も、それなんです。水精霊に『並』」
「そうなんだね! じゃあ僕と一緒で、まさに水商売の適性があるわけだ」
完全に制御された『
杯を洗った後、最後に完全に奇麗な水ですすぐことで酒の味が変わるのだとか。他にも水で酒を割って飲む場合もある。
一杯で小銀貨1枚が飛んでいく高級な酒を扱うなら、その程度の気遣いは当然のことだとドランは言う。
「……俺も覚えられますかね、『浄水』」
「『マナ出力』は?」
「17です」
「じゃあまだ少し早いかな。『並』だったら25くらいは欲しい。発動途中でマナ切れで倒れるよ」
食後、ナタリアとドランに歌の指導を受ける。
イリアは聞いたことが無いが、とても有名だという恋の歌を覚えこまされた。ナタリアは踊り子だけあって、身振り手振りも加えて歌うように厳しく指示してくる。
「そこ違う! 『虹が見えたわー』、の時は指さすんじゃなくゆっくり広げる感じ!」
「はい! ナタリアさん」
「ナタリア姉さん!」
「姉さん!」
衣装もカツラも無しで舞台に立つと、イリアの胸中に恥ずかしさがこみあげた。だが昨日不相応なほどの収入を得た喜びを思い出すことで、羞恥は消えていった。
今日の舞台からはローランと投げ銭を折半しなければならないのだ。金貨2枚を貯めるにはもっと頑張らなくてはならない。
イリーナは一晩に4度舞台に立つようになった。毎日新しい歌を覚え、5日目の舞台では出番のたびに違う歌を歌った。
初日に20人ほどだった客は30人まで増えていた。「イリーナさまさまね!」とナタリアは褒めてくれたが、本当にそうなのかどうかよくわからない。
投げ銭の額は客数に比例して増え続け、折半ではもらいすぎだというローランの提案で、1舞台小銀貨1枚半で契約することになった。
5日目の舞台を終えてとうとう総収入は小銀貨で49枚に到達。あと一枚で金貨に変わる。
6日目の昼に目を覚ましたイリアは、店のほうから聞こえるイーヴァの怒りの声に驚いた。
「なんて奴らだい! 骨接ぎを呼んでくれないなんて! なんて奴らだい!」
「仕方がないのよ母さん、決まりだっていうんだから。お金でなんでも解決できるわけじゃないの」
イリアが恐る恐る舞台裏から顔を出すと、真っ直ぐな長い黒髪の女性がイーヴァと同じ卓についていた。顔立ち体つきは全体に細く見える。
だが背が高いからそう見えるのであって、実際の手足の太さはイリアと変わらないだろう。
黒髪の女性はイリアに気づいた。にっこり微笑みかけてきたので、挨拶するためにイリアは近づいた。
「こんにちは、イリーナです。本名はイリアなんですけど」
「話は聞いてるよ。私の代わりに店を守ってくれたんだって? アイーダ姉さんと呼びなさい。本名はアンドレイだけど」
色っぽいかすれ声でそう言った本名アンドレイは、座っているのとは別の椅子に右脚を乗せていた。その膝から下は添え木され、包帯でぐるぐる巻きになっていた。
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