第52話 イリーナ
ソキーラコバル壁外西地域。土がむき出しの道に面している、木造一階建ての大きな建物。
壁外の建物の多くは屋根も板葺きだが、この建物は素焼き瓦だ。
両開き扉の上に巨大な看板があり『イーヴァの止まり木』と書いてある。
押し開けて中に入ると、やはり酒場であるようだ。
「なんだい、準備中だよ」
しわがれた声を出したのは、一つだけ置かれた丸卓の席に座る老婆だった。
紫色の袖なしの服。簡素だが奇抜な意匠の布帽子を被っている。
「あの、自由労働者組合の受付の人に言われて、来たんですけど」
「あぁそうかい。んじゃ、ちょっと」
指で招き寄せられたので、イリアは老婆に近づいた。強い香油のにおいを感じる。
背の高い椅子に座ったままの老婆は、イリアの前髪を両手で持ち上げると顔をしげしげと眺めている。
「チッ、薄汚れてるねぇ。……ナターリア! ナターリアーッ!!」
酒場の奥には丸い舞台があり、舞台の奥に延びる通路の向こうは覆い布で隠されている。その覆い布から女が顔を出した。長いくせ毛の黒髪を頭頂で結わえている。
「何よイーヴァ母さん!」
「濡れ布巾もっといで! あと茶色の……
この老婆が店名になっているイーヴァ本人であるようだ。イリアは荷物を降ろし、指示された通りイーヴァの側に座った。
酒瓶の並べられた棚が壁際にあり、棚の前には大きな長卓があってそこにも椅子が10脚並べてある。
酒棚の横にある扉から中年の男が顔を出した。
イリアを見て一度引っ込み、ガラス杯2つと大きな銀の水差しを持ってまた出てくる。
ナタリアと呼ばれていた女も舞台裏から戻ってきた。手には濡れ
ナタリアは下着と胸当てしか身に着けていない。胸当てと言っても防具の胸当てではない胸当て。肌着の下に着ける、ただの布の胸当てだ。
イリアが口を半分開けてナタリアのむき出しの腹や太ももを見ていたら、イーヴァに首を無理やり捻じ曲げさせられた。強い力で顔を拭かれる。
布巾を丸卓の上に投げ捨て、イーヴァはイリアの頭にカツラをかぶせた。毛の長さはイリアの肩まである。何度か毛並みを整えるように手櫛された。
「ふん、悪くないねぇ」
「カワイイわね」
「いや、伯母さんちょっと待ってよ。この子まだ子供なんじゃないの?」
「組合から来たんだから、そんなはずはない。おおかたアビリティー取ったばかりの14歳ってところだろ?」
イリアは頷いた。
イーヴァを伯母さんと呼んだ男の服装はハインリヒ邸で執事を勤めていたマルクスを思わせた。上着は着ていない。チョッキは革ではなく絹製。ズボンと同じ色合いだ。
髪と髭は艶のある栗色。年齢は40を超えていそうだ。
「なら、まぁ法的にはいいのか。君、名前は?」
「イリアです」
「イリアくんだね。ぼくの名前はドランだ。この店の共同経営者だよ」
「よろしくお願いします」
軽く会釈したイリアの頬をカツラの毛が撫でる。外していいのかどうか聞きたかったが、面接はそのまま続いた。
ドランとナタリアも椅子を持ってきて、イリアを取り囲むように座る。ナタリアの組んだ足がイリアの視界から外れない。
「イリアくん。ここに紹介されたということは、君はお金が欲しいんだね? いくらくらい要るの?」
「金貨で2枚くらい、です……」
イリアは黒の革鎧に一目惚れしていた。当面の生活費云々の事は頭の隅に追いやられている。
だがあの鎧さえ手に入れば、低級魔物くらい恐れることなくマス釣りでもなんでもできる。それも事実ではある。
「うん。なかなかの大金だ。どうしてそんな大金が要るのか、聞いても——」
「ちょっとぉードランさん、そんなことどうだっていいじゃない? 話したくないこともあるだろうし、第一、うちの店はいまそんな余裕ないじゃんか。今晩にもこの子に舞台立ってもらわないと、お客さんがもう半分になってるんだよ?」
「ねぇ?」と言ってナタリアがイリアに首をかしげて見せた。
イーヴァが丸卓を叩いて催促すると、ドランが水差しからガラス杯に水を注いだ。
半分ほどを一気に飲んで、杯を持った手でイリアの顔を指さした。
「いいだろう。今日から働いてもらう」
「あの、俺は何をさせられるんですかね? それ次第ではお断りしたいと——」
「大丈夫大丈夫。うちはこの辺りではむしろ健全なほうだから。歌を歌ってくれるだけでいいんだ」
「本当ですか? それで金2枚なんて稼げるんですか?」
「君次第ではあるかな? 少なくとも10日はかかる」
「たったの10日?」
予想外に短い。実入りのいい仕事にイリアが目を輝かせたのを見て、イーヴァがニヤリと笑った。
「決まりだね。あんたの名は今日からイリーナだ。アタシのことはイーヴァ母さんって呼びな。あんたの母親を侮辱してるんじゃないよ。ただの業界の慣習さ」
そう言って右手で撫でたイーヴァの顎。頭髪同様真っ白なので気付かなかったが、よく見れば無精ヒゲが生えていた。
かなりの高齢だとは言え、しわがれた声は女性にしては低すぎることに気付いたイリアであった。
店の奥にある小さな小部屋をイリアの部屋にしていいと言われた。夕食も食べさせてもらい、当面の寝食の不安が無くなったにもかかわらず。イリアは今までにない緊張を感じていた。
時刻は夜の4刻を過ぎていて、もうすぐ夜中と言っていい。
イーヴァの舞台があと少しで終わるとナタリアが知らせてきた。次はイリアの出番である。
うすうす感づいていたことではあるが、イリアは今、女の格好をさせられている。
ひだのたくさんある膨らんだ赤いスカート。真っ白で清潔そうな肌着はすこし寸法が合わず体を締め付けている。
上着は毛足の長い黒の毛皮だ。丈が短く前を大きく開いているとはいえ、まあまあ暑い。夜でなければ汗だくになっているだろう。
なぜ男のイリアが女の格好で歌わなければならないか。着替えを手伝ってくれたドランに聞いたところ、「そういう需要があるから」とだけ言われた。
ナタリアに呼ばれ、紫の覆い幕をくぐって舞台に出ていくイリーナ。天井からぶら下がる巨大な吊り燭台の灯がまぶしい。
店内には丸卓がいくつも並べられ、20人ほどの男女が酒を飲んでいる。男の割合が多いのは酒場だから当然ではある。
舞台中央に進むと、酒を提供する長卓の向こうでドランが大きな声を上げた。
「さぁー皆さまお待たせいたしました! 今夜お目見え、はるばるノバリヤからやってきました新人歌手、イリーナの舞台です! うれしはずかしイリーナの初舞台。皆さま温かい拍手を、お願い申ーし上げまーす!」
イリーナは自己紹介のあと、「リンゴの実が生ったらみんなでお手伝いをしましょう」という内容の童謡を歌った。
歌い終わると、数人の客がパラパラと拍手をしてくれた。緊張していた割に間違えずに歌えたことを満足して舞台裏に戻る。
やたらに盛り上がった金髪のカツラをつけたイーヴァが皺だらけの恐ろしい顔をしてイリアを睨んでいた。
「なんだいあんた。舐めてんのかい」
「舐めてないですよなんですか」
「あんなんじゃパンは食べさせてやれないよ。ちょっとこっち来な」
ナタリアをはじめとする踊り子兼給仕係4人が舞台で踊っているらしい。
その間、イーヴァに指導を受ける。まずイリアの知っている数曲の童謡を伝えた。
「よし、それならアタシの言う通りに詞を変えて歌いな。なるべく高く大きな声を出して、ゆっくり歌うんだよ」
夜半近く、二度目のイリーナの舞台。今度は舞台の横に椅子があり、箱琴弾きの男が座っている。
男の箱琴の弦を右手の指でかき鳴らした。その伴奏に合わせ、胸の前で手を組んでイリーナは高らかに歌い始めた。
『キノコ探しに 森の中へ いっぱい集めて 森の奥
クマとオオカミに 見つかって 逃げて逃げても 追いつかれる
やめて 僕はまだ小さいよ お肉は ちょっとしかついてない
キノコを見せたら驚いて 獣はおびえて逃げ出した』
歌い終わると、客の多くが歓声を上げたり口笛を吹いたりした。
硬貨が何枚も舞台上に投げこまれる。イリーナは箱琴弾きの男がにうながされて全ての硬貨を拾い集めた。
もともとはキイチゴだった部分をキノコに変えて「キイチゴを差し出して仲良くなった」という結末を少し変えただけだ。
なぜ最初の舞台とこれほど反応が違ったのか、イリーナにはまるで分らなかった。
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