第44話 青スグリ

 ハンナが近くに生えていたクルミの若木をへし折って持ってきた。懐から綿帯を取り出す。イリアとジゼルを背負子しょいこに固定するのに使われたものだ。

 黒染めの綿帯の端を括り付けたクルミの木。それを担いだハンナが、まだぼんやりとして動かない茶色の鎌蟲かまむしに駆け寄った。上から跳びかかり、足元の草を蹴散らしながらなにかごちゃごちゃとやっている。


 その様子を見て、イリアの方を振り向き、ジゼルが聞いてきた。


「あれは何をしていますの?」

「たぶん、鎌蟲を拘束しようとしてるのかと」


 綿帯の長さは5、6メルテほど。クルミの木と鎌蟲を繋いだようだ。

 呆然としているように見える鎌蟲。腰から伸びる綿帯の先には枝ぶりも貧弱な全長3メルテほどのクルミの木。置き去りにしてハンナが帰ってきた。


「あれじゃすぐ逃げられるんじゃないか?」

「どうだろうね。確信はないんだが、あれでいけるような気がするんだ。まぁ様子を見てみよう」



 3人は池のほとりから離れた。

 池からだいたい20数メルテほどの距離にあったクスの大木の下で観察を開始。

 鎌蟲はしばらくぼうっとした後、ゆっくりと動いて草藪の中に消えた。綿帯は繋がったまま。

 クルミの木は少しだけ移動したように見えるが、草藪の中までは引きずられなかった。


 足音も無く、再び草藪に接近したハンナ。低い体勢で首を巡らせて、覗きこむようなしぐさでをしてからすぐ戻ってきた。



「やっぱりね。帯をそのままにしてじっとしてるよ」

「嘘だろ? ただの綿帯なんかあの鎌で切ればいいじゃないか」

「だから言っただろう、ただの昆虫なんだって。アレが今何を考えてるか教えようか。広いところから草藪の中に隠れられて落ち着くなあ、なんか体が重かった気がするけど、何だったんだろう? って感じだよ。きっと」

「頭が悪すぎるだろ……」


 ハンナにうながされ、全員でクスの木の太い根に座った。生徒二人はハンナに対面するように並んでいる。講義が始まった。


「ハエが料理にたかろうとすれば手で払うだろ? するとハエは、『ああ、あれは人間の食べ物で、危ないからもう近寄らないようにしよう』って考えるかね?」

「……」

「考えない。ハエは何度でも繰り返し料理に集ろうとする。あいつらは料理のにおいを嗅いで近寄り、殺されそうになって逃げる。それを延々繰り返すだけだ。昆虫は基本的に考えたり覚えたりしない。本能的な反応だけで生きているんだ」


 ハンナによれば、鎌蟲のような肉食性の昆虫は匂いにも敏感でないし、目も良くないのだという。

 良くないというのは、遠くの物を見分ける視力が無いという事で、近くに来た動くものを見つけ、捕らえるための視力なら十分にあるらしい。「動体視力」と言うのだとか。


「では、あの魔物はわたくしたちがここに居るのも見えていないし、わたくしたちの事を覚えてもいないと?」

「たぶんね」

「そんな相手に俺は苦戦したんだな……」

「頭が悪いというのは、悪いことじゃないんだよ。イリアは鎌蟲と戦っている間、怖さで何度か我を忘れそうになっただろ? あいつらはそうならない。想像したり恐怖したりする知性も無いし、たぶんまともな痛覚すらない。よけいな事に気を取られずに、ただ純粋に、常に全力で戦い、生きているんだ」


 戦闘中のイリアの心中まで見透かされていたらしい。



 獣系の魔物も『凶化』すればなかなか逃げ出さなくなるらしいが、イリアに打倒されれば『凶化』状態は解けてすぐに逃げる。

 だが元々生き物として痛みも恐怖も無い魔物というのは、打倒するという基準が獣と異なってくる。大きな脳が無く打撃で失神させることすら難しいとなると、【不殺(仮)】にとって苦手な相手という事にならないか。

 おそらく再戦させられるだろう鎌蟲。今度はどうやって倒せばいいのか。

 イリアは膝の上に左ひじを置き、その手で自分のあご先をつまんだ。




 ジゼルが青スグリの実を摘んできた。手巾に載せられたそれをハンナとイリアがもぐもぐと食べる。まだあまり熟れていない青スグリは甘さが少なく酸っぱかった。


「あの…… 聞いてもよろしいでしょうか……」


 ハンナが食べ続けているのでイリアが答えた。


「なんでしょう?」

「今って、なんの時間なんでしょう? いつまでこうしているんですか? あの鎌蟲はどうなさいますの?」

「……あー、ジゼルやジゼル。イリアが新種のアビリティー持ちと言う話は聞いているんだったね?」

「はい」

「そのアビリティーの性質を調べるための実験なんだ。なにをしてるか分からないかもしれないが協力してくれたまえ。あと1刻半もしたら、もう一度イリアがあれと戦う。そしたら魔石はジゼルが食べていいから」

「それは、助かりますけれど——」


 ハンナが手を上げてジゼルの言葉を止めた。鎌蟲のいる草藪とは反対側、森の奥に顔を向けてじっとしている。


「……なんだ、キツネか」


 生徒二人に動かないように言って、ハンナが立ち上がった。そのまま数歩森の奥に向かって進む。


 ハンナの周りに空気が渦を巻き、風が悲鳴を上げる。

 腕を交差させるようにして突き出すと、太いつむじ風が巻き起こって前方の藪の葉が吹き散らされた。

 赤茶色の生き物がそこに居る。

 走り出したハンナに呼応するように、尖った鼻の魔物が駆け寄ってきた。数メルテの距離を一跳び、ハンナと衝突した。

 イリアは立ち上がって身構える。

 隣のジゼルが「巨人ギツネ……」と呟いた。


 拳で地面にたたき落されたキツネの魔物は、殴ったハンナよりもデカい。

 筋肉の隆起が目立つ4本の脚で立ち上がった。

 魔物ではない普通のキツネも夏毛の季節は鋭い顔立ちをしているが、この魔物の容貌は可愛げが無いなどという範疇ではない。


 鼻面に皺を寄せ、開いた口。鋭い牙が奥までずらりと並んでいる。

 ハンナの倍は体重がありそうな体を、信じられないほど俊敏に、左右に切り返しながら魔物が迫る。


 結った後ろ髪が軌跡を描き黒い影が舞った。ハンナの後ろ回転蹴り。靴の裏が巨人ギツネの右肩に突き刺さり、お互いが後方に弾き飛ばされた。

 骨が折れたのだろう。動かなくなった右前足をぶらぶらさせながら、尚も魔物は退かない。牙と、はみ出だ舌から唾液が滴る。人間のような声で、「ギィャアアン」と鳴いた。

 足を前後に開き、腰を落としたハンナが構えを取った、かと思った直後。

 その足元の木の根がはじけ飛び、瞬間的に魔物に接近したハンナ。振り切った右手の手刀が耳の先端を切り飛ばし、左の掌底が鼻面はなづらにめり込んだ。

 血をまき散らす巨人ギツネの折れている方の前足を掴んだハンナ。いったん背負うようにして、魔物を投げ飛ばした。


 数メルテ先の地面にたたきつけられた巨人ギツネはようやく負けを悟ったのか、3本足でよたよたと逃げて行った。


 黒い服に付いた毛を払いつつハンナが戻ってきた。


「見たかねイリア。今のが『凶化』した魔物の普通のふるまいなんだよ」

「いや、一方的だったから、相手のふるまいとかよくわからなかったけど……」


 横のジゼルは魔物の去った方をしばらく見ていたが、やがてまたクスの木の根に座り直した。ハンナを見て小さくため息を吐く。


「せっかく勝ったのに、逃がしてしまいましたのね……」

「お腹がすいたのかね?」

「そうじゃありませんけど」

「夏毛の毛皮なんか売り物にならんだろ? 肉じゃなく魔石が欲しかった? 駄目だよ、計算が不可能になる。あれは魔石格の個体差がけっこうあるんだ」


 巨人ギツネの仮想レベルは20台前半らしい。ハンナのレベルの足しにはならない。魔石を消費しない魔物を無駄に殺すことは推奨されていないので、ジゼルに摂取させられないなら逃がすしか無い事になるわけだ。

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