第32話 ゲゲゲゲ
まどろみの中に居たイリアは、部屋の扉が勢いよく開かれる音で目を覚ました。
「起きたまえイリア。出発するよ」
寝台の上で体を起こし、イリアは両手で顔をこすった。
ハンナが寝台の横にやってきて窓の覆い布を開く。夜は明けているようだがなんだか薄暗い。
「おはようハンナ」
「ああ、いい朝だねイリア。服を着たまえ」
「……何を着ていけばいい」
「防具なんか持ってないだろ? 昨日と同じでいいよ。でも雨具は着た方がいいかも」
窓に顔を近づけてみる。透明なガラスの向こう側、小雨が降っているようだ。いったんハンナに外に出てもらい、イリアはいつも通り身支度をする。
雨具を持って一階に降りると、ハンナは既に緑色の雨具を着ていた。普通の獣皮ではない、艶のある何かの革でできているようだ。
「朝食は食べないの?」
「作ってもらう時間が惜しい。外で食べよう」
イリアの雨具は獣皮を油と蝋で防水に加工したもの。頭巾付き外套のような型のものだ。ハンナの雨具は袖が縫い付けられているので腕が動かしやすそうである。
イリアが雨具を身に着け、二人で玄関に続く廊下を進む。
執事のマルクスではない、若い男が見送ってくれた。マルクスと同じような上下揃いの黒服を着ている。執事見習いとか、とういうことなのかもしれない。
小雨の降る中、イリアは北に向かって進むハンナの後をついて行く。市の中心である城のような政庁舎を横目に中央広場をさらに北へ。
ソキーラコバル市の政庁舎には国王からベルザモック州全体の政を任されている行政長官が住んでいる。
だが昨晩。食事の後にイリアが聞いてみたところでは、行政長官は州の他の街や村の問題解決に忙しく、ソキーラコバルのことにはあまり関わらないらしい。
州都であるかないかに関わらず、王国では規模の大きな街には『市』という格を与えている。イリアの故郷ノバリヤでも街の決め事を戦士団頭領の会合で決めてしまったりするが、市では評議会という組織が正式に認められている。
評議会には「国家法」に反さない範囲での「政令」を決める権限があり、その実行は評議会の選んだ市長に委ねられる。
市独自の税収や、その他の収入を財源として使うことが出来る市長。その政治力は大きく、市内においては行政長官に引けを取らない。住んでいるのは自分の家だそうだが、市長は政庁舎に執務室を持っている。
ハンナは北門に向かっているようだ。市の北側には軍の宿舎があるためか、大通りには鍛冶屋や武具店が目立つ。
朝が早いからか、天気がぐずついているためか、人通りは少ない。人混みを縫うようなことにはならず、すぐに北門に到着。
驚いたことに、ソキーラコバルでは防壁の外に出る時まで審査があるらしい。
青の鎧服を着た警士に何かおかしな物を持ち出していないか調べられる。そもそも荷物を持っていないのですぐに済んだ。
北門の外にもやはり木造の粗末な建物が建ち並んでいた。北に向かって道がまっすぐ延びているのだが、ハンナはいきなり横に逸れた。壁沿いに西に向かう。
ゴミが落ちていたりもせずに、思いのほか整った様子である。まだ開いていない店がほとんどだが、商店通りといった感じだ。
食器と皿の絵看板が既に掲げられている店を見つけた。扉を開け、ハンナが中に入った。
「いらっしゃい」
「すぐに食べられるものを2人前」
四角い食卓2つと長卓に長椅子があるだけの小さな店だが、客はすでに5人入っていてそれぞれ大きな木椀で食事をしている。雨具を脱いで、ハンナと並んで長卓の席に着いた。
汚れた前掛け姿の、厳めしい顔をした老人にハンナが小銀貨1枚渡す。引き換えるようにして、二人の前に大きな肉の塊を煮込んだ料理が提供された。
「やぁおいしそうだな。初めて入ったが当たりの店のようだ」
大きな匙とフォークを両手に持って食べ始めた。イリアも続く。
とろみのついた煮汁はなんらかの穀物が混じっているようだ。大人に比べて噛む力も歯の頑丈さも足りていないイリアにとっては、だいぶ固い肉。苦労して噛み切って、何とか飲み込む。味自体はまあまあであった。
あわただしい朝食を済ませ、店を出て北に向かう道に戻る。
住宅の玄関先で骨材にやすりをかけている老人にハンナが何か尋ねた。目当ての店が「貧民街」の外縁東側にあると聞いて、向かう。
数分で見つけたその建物は壁内の高級住宅よりもずっと大きく、一階の北側が壁も扉も無く開け放されている。柱が数本立っているだけの一階は床板も無かった。少し高く盛られた土がむき出しで、大量の材木が積まれていた。
「ここで少し準備する。イリアにも手伝ってもらうよ」
この店は製材店である。
森で切り出された、建材に向いた真っ直ぐな生木。または建物を解体した時にでてくる、まだ使える材木。そういったものを乾燥させたり、腐った部分を削ったりして、売れる材木に整えるのが製材店の仕事だ。ノバリヤにも似た店はある。
製材店の工具を借りて、材木を加工して必要な物を揃えたのだが、結局イリアに手伝える部分はほとんど無かった。腕力においても今のイリアは大人と大きな差があり、作業効率がまるで違うのだ。
作ったわけではないが、ハンナが店員に頼んで探してきてもらった
「さぁイリア。これに座りなさい」
ハンナが細い綿帯を手に持っておかしなことを言ってきた。
「何、どういうこと。俺を背負って行こうってこと? やめてくれよ。自分で走るから」
「今から10キーメルテ以上移動することになる。イリアの足に合わせるとか、時間がかかって嫌だ。それに疲れてもらっても困るんだよ」
「あんまりだ。俺もう14歳なのに。いくらなんでも恥ずかしい」
「自分で走らないってことなら馬車とどう違うんだ? 怪我をしたり気絶した場合、否応なしにこれで運ぶことになるのだから練習が要るだろ? なに、雨具を深くかぶれば顔はわからないって」
ハンナに押し切られて、結局イリアは背負子に座らされ、胴体を綿帯でぐるぐる巻きに固定されてしまった。雨具の頭巾部分を深くかぶり、揃えた道具を持たされる。
背負子を背負ったハンナは製材店の会計を済ませるとすぐさま北に向かって駆けだした。小雨が降りしきる中、後ろ向きのイリアの視界のソキーラコバルはどんどん遠ざかっていく。
イリアを背負い、イリアの全力疾走よりも速く走っているにもかかわらず、ハンナの走行による振動はほとんど伝わってこない。
丈の低い草藪や、まだらに生えた雑草の草原などがつぎつぎ風景を流れる。
滑らかな加速でハンナは宙に跳んだようだ。人の身長ほどの起伏を飛び越えて着地する。さすがに大きな荷重がかかってイリアは手に持った荷物を落としそうになった。
半刻も掛からなかったろうか、ゆっくりと速度を落とし、立ち止まったハンナ。背負子が地面に降ろされた。体を固定する綿帯をイリアは自分で解いた。
「さてイリア。キミはこれからどんな魔物と戦うことになるでしょうか?」
イリアは立ち上がって周りを見渡した。森林と言うにはほど遠いが、細い小さな木がちらほら生えている。草藪も多く見通しが悪いので、いつ魔物が飛び出してくるか分からず不安だ。
なだらかに低くなっていく地面の先に川が流れている。川幅は2、30メルテほどだろうか、ゆったりと流れる中規模の川。セイデス川で間違いないだろう。
「分からない」
「正解は大アマガエルでした。皮は私の雨具の材料でもあるよ。今頃は繁殖期の終わりで、ちょうどいい具合に雨が降ってくれた。我々は大変運が良い。絶好の大アマガエル日和ってやつだね」
イリアが運んできた道具の片方。長さ半メルテ、太さはイリアの二の腕ほど。
乾燥して樹皮を剥がされた丸太を中空にくりぬき、表面に何本もの横溝を刻んである。
ハンナはそれを左手に持つと、右手に持った一本の棒で溝の部分を擦った。
「ギギギギ」「ガガガガ」と何度か速さや力加減を変えながら擦る。
やがて加減が分かったのか、ハンナが棒でゆっくり溝を擦ると、「ゲゲゲゲゲ」という音が丸太の空洞から鳴り響いた。
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