第27話 付け髭

 全身清潔になってイリアは宿に帰った。今晩の分の宿賃もハンスが払おうとしてくれたがさすがに固辞している。一泊の料金は小銀貨3枚。ビスト村の宿と違い食事は別料金だ。

 昼食を食べ損ねているので空腹だった。夕食を作ってもらおうと宿の女主人に小銀貨一枚を支払い、釣りをもらう代わりに大盛にしてもらった。

 まだ日が沈んでいない時刻だからか、食堂にはイリアしか客がいない。もっともこの宿はあまり大きくないので他に客がいないのかもしれないが。


 ひき肉を小麦生地で包んだものが入った汁物に、収穫したばかりの小麦と雑穀を鳥ガラの出汁で炊いたもの。どちらも大きな木椀にいっぱい出された。鳥ガラの出汁は陸生の大きな鳥の魔物であるケヅメドリの骨でとったもので、鶏のそれより味が濃く若干えぐみがあった。


 イリアは部屋に戻った。東向きの窓の外に夕焼けで赤く染まった雲が見える。

 寝台の布団の上に寝転がったイリアの左頬に、気の早い蚊が羽音を立てて止まった。

 平手で叩き潰す。


 換気のためなのか引き上げ窓が開いている。閉めるために起き上がり、蚊を叩いた左手のひらを窓の明かりで確認する。羽虫の残骸があるだけで、まだ血は吸われていないようだった。



 手を窓枠に擦りつけながら一昨日の朝、自分に起きたことを改めて考える。

 イリアはどんな生き物の命も奪えないという博愛主義者ではない。家畜も魔物もどちらの肉でも食べるし、蚊も蝿も殺す。


 ダンゴネズミを自分の手で殺せなかったのは、それが温かい体温を持っていたからだ。鳴き声を上げ、切れば赤い血が噴き出る生き物だったからだ。

 渦蟲うずむしの森の朽ち木の中に潜んでいた、あのねばねばの魔物。あれを切り裂こうとしたとき、イリアの心には何の葛藤も無かった。殺した事実について考えてみても、特別な感慨はない。


 つまり気を失ったのは心理的な問題とは考えにくかった。

 唐突に訪れたあの感覚、自分が壊れてなくなってしまうような喪失感。

 あれはもしかしたらイリアのアビリティーの性質なのではないか。

 この新種のアビリティーは「魔物を殺さなくてもレベルが上げられるアビリティー」ではなく、「魔物を殺してはいけないアビリティー」なのではないか。


 例えば蟲の魔物なら、命を奪う可能性があっても気兼ねなく戦える。一昨日まではそう考えていたが、その予想は間違っていたと思われる。

 そしてもう一つ。イリアのアビリティーが「魔物を殺さない」ことを前提に構成されているなら、残念な予想が成り立つ。



 イリアは部屋の隅に置かれている背負い袋を開け、中から魔石剤の入った小瓶を取り出した。蓋に『1』と書かれている。仮想レベル1の魔物から取り出された魔石を、魔道具で固定して作られた物。

 封を剥がして蓋を引き抜き、溶液をこぼして中の魔石剤を取り出す。刺激臭のする溶液は揮発性である。


 小指の先ほどの橙色の粒を口に含み、奥歯で噛み砕いた。

 魔石剤は粉々に砕け、そのまま口中に残った。消え去って成長素に変わる気配は無い。

 『砂化』である。


 舌にザラザラするものを感じながら、イリアは右手で顔を覆い、二本の指で両目を左から右に擦った。

 成長素を既に吸収した魔物のものではなく、誰かが普通に取り出した魔石、その魔石剤からも成長素を摂取できない。残念な予想は的中したようである。


 おそらく、イリアのアビリティーは「魔物を殺した結果によって成長素を得る」事自体が出来ないのだ。


 翌朝、日の2刻。

 食堂で朝食を摂り、水筒に水を入れてもらってイリアは宿を出発した。




 コトナーから州都ソキーラコバルへの道のり。地形に合わせて湾曲しながら延びる道は路面も整っていて、高低差も少なく平坦に近い。

 途中、街道の北側にいくつもの農村があるのが見えた。


 ソキーラコバル周辺は街道の北側を流れるセイデス川の流域にあり、農業用水には困らない。中規模の川であるセイデスは遥か南西、王都ナジアがあるティチニーウ州ま200キーメルテ以上流れ続け、ナジアを貫いて大湖海まで流れる大河『アクラ川』に合流する。


 たくさんの旅人が歩く道は土が削れて溝のようになってしまい、雨が降ると水が溜まってぬかるみになってしまう。街道保全隊の役割は周辺の木を伐採するだけではなく、地魔法を用いて削れた道を元に戻すことも含まれる。

 道を舗装してあればそういう心配は無くなる。3刻間ほど歩いていて、ソキーラコバルが近くなってくると足元は石畳になった。2メルテ半ほどの幅で、形が様々な石板が地面に埋め込まれている。大きな荷車や馬車でもはみ出さずに通ることが出来る幅だが、すれ違いは無理だろう。

 石畳の道はソキーラコバルに到着するまで5キーメルテほど続いた。




 ベルザモック州の中心、ソキーラコバル市。遠くから見えてきたその外観は確かに今までの街の規模とは一線を画しているが、イリアの思っていたものとは違った。

 100年前、建設当時はチルカナジア王国でも最大だったという、街を囲う全長13キーメルテの大防壁はまだ見えない。イリアの目に最初に見えてきたのは小屋のような木造建築の群れだった。


 徐々に広くなっていく石畳の道を行く人は数多く、農民と見える者も居れば荷物を背負った旅商の者、鎧を着こんで武具を背負った戦士らしき者らもいる。

 道を進むに従い、家屋は二階建ての多少立派な造りになっていく。

 横道の奥に小さな広場があるのが見え、井戸小屋もない共用井戸の周りで小さな子供たちが遊んでいた。


 戦士風の格好をした若い男が路肩で何か商品を売りつけられている。宝石細工のような物を腕に何本もぶら下げているのは、胸元の開いた服を着た若い女だ。

 イリアがそちらの方を見ながら歩いていたら、反対側から声をかけられた。


「オイお兄さん、あんた他所から来なすったのだろう?」

「え? はい」


 イリアの目の前に居たのは四角い奇妙な帽子をかぶった男。足首まで長さのある東方風の服を着て、髪も眉毛も黒いのに口元に金毛の付け髭を張り付けている。


「ならその腰の短剣は州都に持ち込まん方がいい。そんな野蛮な代物は都会には似合わない。私が買い取ってあげるから見せてごらんなさい」

「は?」


 男はそういうとイリアの短剣の鞘に結ばれている紐を解こうとしてきた。

 通行人には自分の背丈ほどもある大剣を背負っている者もいる。イリアの無刃の短剣など野蛮でも何でもない。


「ちょっと止めてください、売る気はありません」

「役にも立たない小さな短剣だが大銀貨1枚で買い取ろう。私は損をするが、これも人助けだからね」

「そんな値なわけないでしょう、いや値段はともかく売りませんから離してください」

「私は怪しい者じゃない、そこの店の店主で税金も払っている立派な市民だ。安心して渡しなさい、値段は見てから決めるから」


 男が指し示す場所。小さな展示台の上に雑然と統一感の無い品物が置かれている。何に使うのかも分からない、ほぼガラクタに見える。

 とうとう下の紐を解いてしまったしつこい男に、そろそろ怒ろうかなとイリアが思っていると、後ろから違う男の声が聞こえた。


「その辺にしておけ、冗談では済まんぞ」


 イリアが振り向くと立派な体格の若い男。鎖鎧の上に、イリアが魂起こしで着た垂革たれかわのような様式の青い毛織布を着こんでいる。足元は鉄甲付きの長靴、首覆いのある兜をかぶって、右手には長い真っ直ぐな鉄棍を持っていた。

 気付くと付け髭の男はイリアから離れ、展示台の向こうでそっぽを向いている。短剣は無事である。


「えーっと……」

「州都に用なんだろ。付いてきなさい」


 速足で州都に向かって歩く男の後をついて行くと、5分ほどしてようやく大防壁が見えてきた。防壁外に居る人数だけでノバリヤの定住人口を超えているのではないかと思われる。先を行く男に東側だけこうなのかと聞くと、「西も南も北も同じだ」とのことだった。

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