第26話 浴場

 閉じたまぶたを透かして飛び込んでくる陽光に目を焼かれ、イリアは顔をそらした。

 ゆっくりと目を開ける。

 目の前には口髭と顎髭を伸ばした縮れ髪の男の顔があった。

 目を見開いてこちらを見ている。顔が近い。


「おい、大丈夫か? 頭はしゃんとしてるか?」

「……ハンスさん」


 どうやら屋内の寝台の上に寝ているらしい。イリアは自分の声がやけにかすれていることに気づいた。

 ハンスは体を引いて、寝台の横に置かれていた椅子に背中を預けた。天井を仰ぎ見て、大きく息を吐く。ゆったりとした白い寝間着のような格好だ。


「とにかく目覚ましてよかった。このまま死ぬのかと思ったぜまったく、カールの野郎」

「俺、どうなったんですか」

「待て、あいつらを呼んでくるから」


 ハンスが出て行った。イリアは寝台の上に体を起こしてみる。

 気を失う直前の事をだんだん思い出してきた。

 野営の翌朝、早朝に渦蟲の森に行き、得体のしれない魔物の魔石を取り出そうとして、倒れた。

 風邪を引いた後のようなだるさはあるが、それ以外特に異常があるようには感じられない。手足を動かしてみても力は入る。


 ハンスがカールとイジーを連れて戻ってきた。皆イリアが目覚めたことを喜んでいる。自分のせいで取り返しのつかないことになるかと、気が気ではなかった、そういう意味の言葉をカールはわめいた。イリアにつかみ掛かるかのようにして。




 ここはコトナーの街の宿の一室だという。

 3人の話を聞いたところによれば、一昨日の朝、カールが気を失ったイリアを背負ってコトナー東門前に帰って来たらしい。

 朝食を用意して待っていた二人は驚き、慌ててコトナーに入街する手続きを取った。ラクダのアクーは半魔物ということで手続きに時間がかかり、イジーを残して二人で宿を探し、医者も呼んだのだとか。

 ねばねばの魔物の毒のせいで倒れたと医者には話したが、診察しても原因は不明。イリアはそのまま二晩目を覚まさなかったのだという。




 現時刻は日の2刻。丸二日寝ていたイリアはまずかわやに行った。宿の部屋は二階にある。歩くのも階段を降りるのも問題はない。着ている物はイリアの私物の肌着ではなく知らない寝間着だった。

 厠の外まで付いてきた3人に促され、そのまま一階の食堂に入って食事をとった。

 用意されていたのは鶏卵のゆで卵に麦粥。いくら病み上がりだからといって味が無くては食べられないと抗議すると、塩を少しだけかけることを許可された。


 胃袋の調子も特に問題は無いようで、あっという間に食べ終わった。

 食べ終わってもハンスとカールが目の前に座っている。イジーはアクーの世話をしに行った。街の共用の厩舎に入れてもらっているらしい。


「もうどこも悪くないようです。ご心配かけました」

「そうか。とりあえず一安心だな」

「わるいイリア。俺がうかつだった。東方のねばねばもこっちのねばねばも同じだと思うべきじゃなかった」

「あー、それは、どうなんでしょうね……」

「それでイリア、どうする? 今日中に州都を目指すか? それとも、もう一晩くらい様子を見るか?」


 ハンスに問われてイリアは考えた。

 「三つ脚ラクダ」は旅商で生計を立てている。自分のせいでもう2日ハンスたちを足止めしてしまっている。

 宿賃も払ってもらっていて、見た目に寄らず善人の彼らにこれ以上負担をかけたくない。

 イリアの目的地は州都だが、彼らはこれから王都ナジアまで行って商品を売りさばかねばならない。


「皆さんは先に行ってください。俺はもう一日コトナーに居ようと思います」

「何故だ?」

「皆さん、なんか身ぎれいですし、俺が寝てる間に浴場行きましたね? 俺も風呂に入りたいんで、もう一泊します」


 ハンスとカールはばつが悪そうに笑いながら顔を見合わせた。

 別に気を失っている間ずっと見守っていてほしかった訳でもないので、イリアとしては文句があるわけではない。


「まぁここから州都まで、昼間に街道を行くなら危険はない。さすがに」

「もう一泊したって別にいいんだけどよ。俺らみたいなのにあんまりベタベタされても嬉しくねぇわな。俺が14歳のうら若き少年でもそう思う」




 泊っている宿は洗濯屋を兼業しているらしく、イリア所有の衣類は昨日のうちに洗われて奇麗になっていた。何もかも至れりつくせりである。

 昼になって、イリアは「つ脚ラクダ」の3人を西門まで見送った。アクーの体は大きいので、遠目に見ると後ろからでも獣車のほろの上にイジーの姿が見える。大きな荷物を背負ったハンスとカール。イリアの方を一度だけ振り返り、手を振ってから南西に駆けて行った。

 大きな西門の門扉の間に立って、「三つ脚ラクダ」の姿が見えなくなるまでイリアは見送った。


 コトナーの東西の門を繋ぐ大通りの活気はすばらしいものがある。道幅は10メルテ以上あるが、露店や屋台が並んでいるせいで半分しか道としての用をなさない。

 イリアが泊まっている宿は東門近くにあり、公衆浴場は南西にあると教えてもらっている。距離が遠いので一度戻るのも面倒だ。イリアは見送りに出たその足で浴場を目指した。


 防壁の外から見たときはそれほど大都市とは思わなかったが、中から見れば明らかに違う。建物はノバリヤと違いほとんどが煉瓦造りか石造りで、基本的に3階建てだ。


 においもちがう。下水道が整備されているらしく、路地の方に行くと下水ぶたの隙間から嫌なにおいがこぼれてくる。その代わりに厠はほとんど臭わない。

 南西地区にあるという浴場を目指して進むが、入り組んだ道に入り込んで途中で迷う。通行人に道を聞いてようやく防壁のすぐそばの浴場にたどりついた。


 石造りの建物は一階建てだが、敷地は周りの建物の4、5倍はある。防壁のある街では土地は貴重であるため、こんなに贅沢な使い方は個人の住居では許されない。屋根まで石造りであるようで、隙間から湯気が何本も細く立ち昇っている。


 玄関階段を上がって扉の無い戸口から中に入り、まず長卓の向こう側に居る受付の男に話しかけた。最初子供料金を取られそうになったがきちんと14歳であることを告げる。


 実家の風呂では風呂場に用意された風呂桶にただ浸かり、石鹸で体を洗って流すだけだった。公衆浴場ではもっと難しい作法があると聞いていたので、初めて利用することを告げて教えてもらった。


 まず盗まれれば困る品を全て預けなければならないらしい。イリアは無刃の短剣と財布袋を預けた。靴はいいのかと聞かれて、これも預ける。代わりに布靴を貸し与えられた。小銀貨よりも小さく薄い銀板に、細い銀鎖を繋いだ物を渡される。

 銀板には番号が記されていてイリアの番号は16番だった。料金を聞いたときに小銀貨2枚と言われ、聞いていた2倍だと驚いたが、この番号票を返還すれば1枚返ってくるらしい。


 公衆浴場はコトナーに2つあり、こちらは男専用である。教えられたとおりに脱衣所で服を脱ぎ、下着一枚になる。家の風呂では全裸だったが、脱げと言われなくてよかった。


 脱衣所から繋がる石畳の廊下を進み、木戸を開けると中は蒸し風呂になっている。すのこ状になっている床の隙間から蒸気が噴き出す、3メルテ四方くらいの部屋の長椅子に腰かける。

 反対側の長椅子には太った老人が座って目を閉じている。

 全身汗まみれで、血が巡って皮膚はもう赤くなっている。イリアが十分汗をかいて入口の反対にある戸から出ても、まだ老人は暑さに耐えていた。


 蒸し風呂から出ると垢落とし場があり、言われた通りに金属のヘラを使って体をこする。7日前に水浴びしたきりなのでたくさん出た。

 浴槽がある方につながる出入り口から籠を持った女がやってきた。裸足だが服は着ている。


「背中をやりますよ。銅3枚です」

「え? いや、いいです」

「お客さん、一人で来たら背中ができないでしょう? 節約したいなら何人かで来ないと」

「でも、今お金持ってないです」

「後会計ですよ。番号票見せて」


 イリアは番号表を見せて背中を擦ってもらうことにした。

 勧められて籠の中の梨の実も買った。一口齧る。ほとんど甘くなかったが、蒸し風呂でのどが渇いていたので銅貨2枚は惜しくなかった。

 石の椅子に腰かけて、女に背中を向けた。


「ぎゃっ! 痛ってえ!」

「あ、ごめんなさい。大人用で擦っちゃったわ」

「……」


 今度は滑らかなヘラで優しく擦られた。5分ほどで終わり、桶でお湯をかけてもらった。捨ててもらえるというので梨の芯は渡す。


 小さな窓が3つあるだけの薄暗い浴槽室。お湯の溜まった浴槽は目の細かい溶岩石の組み石で出来ていて、イリアの他に4人の老人が浸かっていた。

 浴槽は20人くらい浸かれるほどに大きい。客が少なく老人だらけなのはまだ昼間だからだろう。ちょうどいい温度のお湯は予想より澄んでいてきれいだった。

 お湯から上がり洗い場へ。壁際の盆の上に山盛りになっている泥石鹸で全身を洗う。流し湯が溜まっている場所で石鹸を流す。


 外気の入り込んでくる広い廊下のような場所で、汗を引かせながら備え付けの麻布で拭いて髪の毛を乾かす。

 脱衣所に戻って籠に入れておいた服を着ようと思ったが、下着がびしょ濡れである。先ほどの垢擦りの女が笑顔で近づいて来て、亜麻布の下着を売りつけられた。銅5枚。ついでに歯ブラシと磨き粉も買わされた。これも銅5枚。

 『耐久』で強化されていない子供の歯は虫歯になりやすい。イリアはまだレベル2で『耐久』も12しかなく、十分虫歯の危険がある。背中の皮膚も柔らかい。


 脱衣所で歯を磨きながらイリアが目の前の鏡で自分の顔を見ると、頬がこけてなんだか大人びて見えた。2日間街道を走り回り、そして2日間気絶していたせいだろう。

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