第19話 ぎらぎら

 父ギュスターブに決意を表明し、いよいよ旅に出ると決めたにもかかわらず翌日は雨。それもなかなかの大降りでこんな日に出発するのは利口とは言えなかった。

 やはり森に行ったりせずに部屋に居たユリーをイリアは訪ねた。

 ユリーは自分の持ち物であった数札かずふだをイリアにくれた。賭け事に使う物だとギュスターブには禁止されていたが、ユリーに子供でも楽しめる健全な遊び方を教えてもらう。初めてする数札での遊びにイリアは夢中になり、あっという間に一日は過ぎた。

 夕食もユリーとヴァシリ、それに家事手伝いの女たちと別室で摂った。別に家族に当てつけたいわけではなく、この数年父以上に一緒に過ごす時間の多かったヴァシリとも食事を共にしたかったからだ。




 早朝目を覚ましたイリアはかわやで用を足してから調理場に向かった。昨日の夕食の残りが鍋に残っていたので、皿にパンをちぎり入れて上から汁物を掛ける。粥のようになるまで潰してから一気にかきこんだ。窓から見た空に雲は無い。

 部屋に戻って寝間着から外出用の服装に着替える。赤茶色の毛織ズボン。上半身は一番新しくあつらえた綿服。色は白。

 上着は着ない。北の果てではあるが今日は6月22日。夏の気配が強くなってきていた。

 腰の革帯に無刃の短剣を差す。動いてみると腰の骨に当たる。長距離を歩くには邪魔になる気がした。急いで亡き母の部屋に行き、小物入れを探って細い紐を失敬する。短剣の鞘に結び付け、革帯にぶら下げるように括り付ける。

 もう一本紐を取り出して自室に戻る。その紐をズボンの左脇、膝辺りの高さに縫い付ける。鞘の先端付近を、ズボンに接続された紐で固定した。足踏みをしてみると痛みも違和感も無い。

 裁縫道具も必要になると思い、真鍮の小箱にかわいらしく詰め込まれたそれを背負い袋の中に押し込んだ。


 荷物を背負い、裏口から外に出る。

 厩舎に近づくと上半分が明け放してある扉からトーロフが顔を出した。イリアは毛が薄くなった鼻の上の部分を撫でてやった。


「お別れだぞトーロフ。長生きしろよ」


 トーロフが屋敷にやってきたのはイリアが7歳の時だった。体を悪くした母ポリーナが、いよいよ歩くことも難しくなった時。ギュスターブが馬車と一緒に購入したのだ。

 母との最後の思い出は馬車での夜の散策だった。父と母とイリアの三人。まだ幼いアレキサンダーとサーシャは屋敷で子守に見てもらっていた。

 座席に座る父子と、荷台で布団にくるまって横たわるポリーナ。ギュスターブは無理を言って西門を開けさせ、満月が明るく輝く夜空の下をどこに行くでもなく走り回った。

 母の命日は10月の末日。夜の散策はその10日ほど前だったろう。

 小さな丘の上で休憩中、ポリーナは荷台の上で上体を起こし、ギュスターブがその背中を支えた。

 寄り添ったイリアに、ポリーナは西空の3つの大きな星の名を教えてくれた。ポリーナはあまり本を読まなかったが、星の名前とその由来について書かれた本だけは唯一愛読書と言っていいほど読み込んでいた。その一冊は今も母の部屋に置かれている。


 トーロフとの別れを済ませて、屋敷の横を回って前庭に出る。門を塞ぐようにしてアレキサンダーが立っていた。


 2歳下の弟であるアレキサンダーは、平均よりも少し背の低いイリアと比べてもまだ小さい。イリアに気づき、1メルテ半の体を強張こわばらせ、イリアが近づくまでそうしていた。


「アレク。しばらくお別れになる」

「……」

「……すまない」


 何について謝っているのだろう。ただ久しぶりに弟の顔を直視して、自然と謝罪の言葉がこぼれ出ていた。

 目つきのあまりいい方ではないアレキサンダーの顔は父によく似ている。暗い褐色の髪色がよりその印象を強くしていた。

 いつもならまだ寝床に居る時間だというのに紺色の外出着を着ている。その左手にはなにやら薄汚れた麻袋が握られていた。


「何を持ってるんだ?」


 アレキサンダーは麻袋の底を両手で持ち、逆さまにして中の物を石畳の上に落とした。その正体を確認し、イリアは息をのんだ。


「オレが昨日の夜、斬った。イリアが失敗した試験に、オレは合格した」


 石畳の上に転がっているのはつのザルの頭部だった。首の切断面の血は半分乾いている。口元は歪んで開き黄色い犬歯がはみ出している。黒い瞳が無表情に天を仰いでいる。


「……父さんが、やらせたのか?」

「違う! オレが! ……オレが、自分でやりたいと言ったんだ。団員の人に言って、長老の人が用意してくれた。オレは、ちゃんと殺した。怖いことなんて、何もなかった」

「アレク……」

「イリアが居なくなっても、オレが居る。オレが武技系になって、戦士団に入って、それで頭領も継ぐ」

「あぁ、そうしてくれ。そうなってくれれば俺も、安心できる」


 アレキサンダーは顔を上げ、キッとイリアを見返した。その眼の下には隈ができている。


「出ていくのはいい。仕方がないことかもしれない。けど、サーシャのことは許さない」

「サーシャの事?」

「母さんが死んだことを、イリアはサーシャのせいだと思ってるだろ。だからサーシャを嫌って! だからサーシャを構わなかったんだろ、ずっと!」

「そんなことはっ……!」

「違うっていえるのか!」


 震える声でイリアを問い詰める弟の目には涙がにじんでいた。


 サーシャの出産は大変な難産であった。丸二日掛けて母ポリーナがサーシャを産み落とした後、イリアの記憶では一度元気になったはずだった。

 だが一月後、ポリーナは急激に体調を崩して寝込んでしまった。医者に見せても治療法はわからず、そのまま崖を転がり落ちるように健康を失っていき、亡くなってしまっている。


 イリアには自覚が無かったが、サーシャが生まれたから母が亡くなったと、そう心のどこかで思ってはいなかったか。本当にそんなことは考えなかったと言えるのか。

 出産によって体を壊したり亡くなったりする女性は少なくない。

 そして事実として、兄が当たり前に与えるべき愛情をイリアはサーシャに与えてこなかった。


 イリアは弟に近寄り、その手から麻袋を取った。角ザルの頭部の角を右手で掴んで、袋に戻す。石畳には半乾きの血が所々飛び散っていた。

 麻袋を二歩離れた場所に置いた。その行為に特に意味はなかったが、生首の転がる場所で家族と話し続けたくなかった。右手が穢れたような気になり、ズボンにこすりつける。

 アレキサンダーの傍に戻って、左手でまだ肉の薄い肩を掴んだ。


「……アレク。俺のことをアレクがどう思っていても、俺にはそれを否定する権利が無い。……だが頼む。俺が、母さんのことでサーシャを恨んでいるとか、そういう話はサーシャにだけはしないでくれ。お願いだ」

「そんなことは、分かっている」

「……すまない」


 もう一度謝り、イリアは屋敷の門を出た。

 歩きながら、急に胸が締め付けられる思いがして振り向くと、アレクはもう居なかった。


 旅に出るのをやめて二人と共にいるべきなのではないか。あと20日もすれば「白狼の牙」は北東部森林魔境の奥地へ向けて遠征に出かける。一月ひとつき近くギュスターブは屋敷を留守にし、小さな弟妹はたった二人の家族として過ごすのだ。


 そう考えて、気付く。今までもそうだったではないか。


 『適性試験』の失敗で図書室に籠るようになってからだけでなく、その前からイリアはサーシャと親しくすることはなかった。サーシャの遊び相手をしたり我儘に付き合っていたのは、いつもアレキサンダーだった。イリアは同じ建物の中に居るだけで、居ないと同じだった。


 悄然しょうぜんとして道を進むイリア。その心中とは裏腹に、6月の朝日は建物の隙間から時々顔を出しては、やけにぎらぎらとイリアの顔を照らすのだった。

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