2「桜乃真希がなんだってんだよ」

 メジャーリーガー八良尾勲選手の現役引退、というニュースが世間を騒がせた翌日の朝、スマホから鳴り響くアラーム音によって、谷地やち達巳たつみの悪夢は中断した。


 ぼやけた目を擦りながら時刻を確認すると、授業開始の三十分前をさしている。達巳は渋々体を起こして、身支度を始めた。


 一人暮らしの狭い部屋を出て、錆びた自転車で駅へと向かう。空は今にも泣き出しそうな鉛色であった。


「帰りは雨かもな……」


 そう独り言を呟きながらペダルを漕ぐ。徒歩で行って講義に遅れるか、自転車を使って帰り道で濡れるか、その二つの選択肢を比べると、僅かな差で後者の方がましだと彼は判断した。


 駅の近くの駐輪場に自転車を停めて、定期を使い井の頭線に乗る。中央線に乗り換えて大学の最寄り駅へ着く。バスを待つよりも走ることを選び、なんとか始業時間に間に合った。


 講義室のなるべく後ろの、端の方の席に腰を下ろし、席の下でスマホを弄りながら授業時間をやり過ごす。ベルが鳴って周りが席を立ち始めた頃、最前列に座っていた一人が、達巳を見つけて近づいてきた。


 灰色のパーカーに身を包み、黒縁の眼鏡をかけた肥満体型の青年だ。その顔を見た達巳は、あくびをしながら声をかける。


「よお、沢渡」


「やっちん、また遅れて来たな」


「遅れちゃねーよ。間に合ったろ」


 ほとんど何も入っていない鞄を背負い、言い訳のような言葉を返す達巳を、沢渡は呆れ顔で見ていた。


「ま、どうでも良いけどさ。単位は落とすなよ?この授業必修なんだから」


「んなこと分かってんよ」


 そこへさらにもう一人、派手な髪色の身振りの大きな青年が近づいてきて、明るく二人を呼ぶ。


「達巳、裕己ちゃん、今日のノート写させてくれない?」


「なんでだよ。授業受けてたろ?」


 沢渡が呆れ顔で言う。青年は苦笑いを浮かべて弁解をした。


「開始五分で寝ちゃってさー」


 言いながらパタパタと仰ぐ彼の手のノートには『水上和己』という彼の名が書かれている。


「ちょうど良いわ」


 水上の言葉に便乗して、達巳も沢渡に向けてノートを差し出した。


「俺も写させてよ」


「お前らさあ……」


 沢渡は深くため息をついた。


「マジで知らねぇぞ。そんな態度で、試験の時に泣きを見ても助けないからな」


「分ぁーってるよ。そんときゃ自分でなんとかするから」


 なぜか自信ありげな顔で、達巳は言う。そのすぐ横で水上もまた笑顔で頷いていた。沢渡はまたため息をついてから、二人を連れて部屋を出る。


「こっから二コマ空いてるだろ?どっか静かな喫茶店でも行くぞ」


「食堂で良いじゃん」


 水上が口を挟む。沢渡は小さく首を振って却下した。


「あんな騒がしいとこで勉強できるかよ」


「図書館じゃ駄目か?」


 今度は達巳が言った。沢渡はまた首を横に振る。


「話せないだろ、図書館は」


「店でも良いけど俺なんも頼まねーぞ」


 釘を刺すように言う達巳をジロリと睨んでから、諦めたように、沢渡は頷いた。


「……今日は奢ったるよ」


 なんで俺がこんな面倒見なきゃなんないんだ、と不満を呟く沢渡に連れられて、一行は喫茶店へと向かった。


「そういやさー、見た?昨日の『恋ハミ』」


 案内された席に腰を下ろしつつ、水上が言う。直後に店員が水とおしぼりを持ってきて、会話が一時中断する。沢渡が三人分適当に注文し終えてから、達巳の返答で会話が再開した。


「なんだっけ『恋ハミ』って。確か少女漫画じゃ無かったか?」


「そうなんだ。いや、俺が言ってんのはドラマの方よ。今やってんだけどさ」


「ああ、知ってる。流行ってるよね」


 沢渡が頷いた。手を拭きつつ二人を交互に見ながら、達巳は顔を顰める。


「お前ら男だろ。んなもん見てんの?」


「若男女に流行ってるんだって」


「『にゃくなんにょ』に流行ってる?……なんだその言葉」


 沢渡の生み出した新語について、達巳が追及する。沢渡はこともなげに答えた。


「『老若男女』マイナス『老』イコール『若男女』。多分、お年寄りの間では流行ってないからな」


「熟語で計算式を作るんじゃねぇ!」


 それから呆れ顔で頬杖をつくと、水上の顔をチラッと見てから達巳は話を件のドラマへと戻す。


「そもそも『恋ハミ』ってなんの略だよ」


 この話題に大した興味があるわけでも無いのだが、雑談として特に考えなしに口にしていた。少し間を置いてから、沢渡が答える。


「正式なタイトルは『恋はハミガキ粉と共に』だと」


「なんだそのふざけた名前……本当に流行ってんのか?」


「良いじゃん、タイトルなんか何でも。それより達巳さ、見てないならすぐ見た方が良いぜ!ヒロイン役が桜乃真希だから!」


 水上の無邪気な言葉が、その場の空気を凍らせた。沢渡が「あ」と呟いて達巳の顔を見る。達巳は低い声で水上に聞いた。


「……桜乃真希がなんだってんだよ」


「あれ?達巳の推しじゃなかったっけ」


「ちげーわ」


 あからさまに気分を害した様子で、達巳が言う。そのタイミングで、注文していた品が続々と運ばれてきて再び会話が中断した。


 沢渡の注文した甘味の多さに、達巳は引き気味に呟いた。


「お前……そんなん食ってるから太るんだぞ」


「余計なお世話だ。俺はお前達二人より頭使ってるか糖分が必要なの。脳の唯一の栄養だぞ」


「脳に行ってねぇよ!全部体に蓄えられてるよ!」


 沢渡の腹や顔の肉を指して、達巳は言った。その会話の内容は沢渡にとっては不本意であったが、それでも先程までの会話の流れよりはましだと判断して心の中でホッとする。それからさらに話題を変えようと口を開く沢渡であったが、彼の言葉が出るよりも早く水上が話を元に修正してしまった。


「桜乃真希って可愛いよなー。俺らと同年代だっけ?」


「……同い年だよ」


 開けた口から、予定していたのとは違う言葉を沢渡は発した。それを聞いて、水上は思い出したように笑った。


「そっか、裕己ちゃん確か桜乃真希と同中だったんだっけ」


 沢渡は静かに息を呑んで、横目に達巳を見る。達巳は詰問するような視線でこちらを睨んでいた。沢渡はそれを無視して、観念した顔で水上との会話を続けた。


「中学じゃない。小学校で数ヶ月だけ一緒だったんだ」


「へー、小学校なら達巳も一緒じゃん」


 達巳がたどり着いてほしくなかったであろう場所へ、話は着地した。


「なんだ、言えよ〜。なー、あの子と話したことあんの?」


「……そりゃ、クラスが同じなら多少は話すだろ」


 渋々と言った様子で達巳が答える。


「昔っから可愛いかった?」


「さあね。覚えてない」


 あからさまに不機嫌な言動のまま、コーヒーを啜る。そんな達巳の様子に気づくそぶりも無く、水上はさらに続けた。


「可愛いかっただろうな〜今でさえめっちゃ美人だもんね。それがちっこかったら可愛いに決まってる」


「化粧がうまいだけだろ」


「特にあの目元が良い!なんか、守ってあげたくなる感じ」


 達巳は小さく舌打ちをした。おそらく、彼女の目元を思い出してしまったのであろう、と沢渡は予想した。


「でもさ、惜しかったよな、達巳も裕己ちゃんもさ」


「惜しかった?」


「あの子とクラスメイトだったってことはさ、ワンチャンあったってことじゃね?」


「無ぇよ」


「マジで、あんな子と付き合いたいな。理想だわ。ねえ、誰か紹介してくれない?」


「お前に紹介するくらいなら、俺が貰うわ」


 話を変えるチャンスと見て、それまで黙っていた沢渡がおもむろに口を開いた。


「……しようか?紹介」


「え?」


 二人は同時に沢渡を見た。


「紹介っつうか……合コンのセッティングならできるけど。ちょっとしたツテがあってさ」


「マジで!頼むよ!」


 身を乗り出し、嬉々として手を合わせる水上。それに対し、達巳は渋い顔で独り言のように呟く。


「合コン、なあ……」


「なに?」


 達巳のぼやきを沢渡が拾った。達巳は苦々しげに言う。


「どうせ、見た目ブスか性格ブスの女しか来ねーだろ」


「そんなこと無いよ。性格も綺麗で見た目も良い感じの子を揃えてあげる」


「……」


 しばらく無言で、なにか言葉を選ぶように思案してから、達巳は続けた。


「……なんつーか、そういう『恋愛をするため』の出会いって、こう純粋な出会いじゃないって言うか、そういうある意味人工的な出会いってなんか釈然としねぇっつーか……」


 そのような達巳の自論を呆れたように聞いていた沢渡は、深いため息をついてから、わざとらしくスマホを覗き込んで、スケジュール帳のアプリを開いた。


「じゃあ、やっちんは不参加ってことで」


「なっ……そんなこと言ってないだろ!」


 慌て気味に訂正する達巳を面倒くさげに見てから、沢渡は予定を設定する。


「じゃ、明後日の夕方五時ごろだ。これは遅れるなよ?」


 二人は食い気味に頷いた。

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