第31話 正気

 『ごめんなさい。急用ができちゃいました』


 中学を卒業するまで、堀田瑠璃子は俺の誘いを断り続けた。断られにくいように、

3ヶ月も先に日程を組み込んだ時もあり、その時は、急用ができたと言われた。2人

で会うはずの日に外に出ると、彼女は他の男子と並んで歩いていた。


 隣を歩くあいつと彼女は、きっと俺のことを面白可笑しく笑っているだろう。情け

がないとか、諦めが悪くて気持ち悪いとか、光の隣にいて鬱陶しいとか。そういう会

話を容易に想像できる。少なくとも俺のことはよく思っていないだろう。


 それでも、諦められなかった。


 俺は彼女の外見やしぐさが、本能的に好きだった。彼女の内面を無視していた。我

ながら最低だが、それが事実なのだから仕方がない。


 幼児のような顔。小さな鼻や口。対して大きな目。動物に例えるならリスのような

顔。高い声。低い身長。華奢な骨格。


 『時ノ丘高校に合格したら、一緒にお昼ご飯くらいならいいですよ』


 千載一遇のチャンスが到来した。彼女は、俺の本当の学力を知らない。学年で下の

方だと思っているが、それは兵頭が俺の教科書やノートを埋めているから、本来のパ

フォーマンスを発揮できていないだけで、もちろん彼女はそれを知らない。


 俺は、教科書や参考書を買い込んだ。同じものを3冊ずつ、受験に必要な5教科全

部を買いためた。目を通し、外に持ち込まず家の中で保護した。


 最初からこうすればいいじゃないか、と気づいていたが、もしそれを兵頭に勘づか

れたら、次は何を埋められるか分からない。内容がエスカレートする可能性もある。

共謀して俺を落とし穴に入れた姉と、まだ繋がっているかもしれない。だから、ここ

ぞというときに取っておいた。


 すべては、堀田瑠璃子を手に入れるために。


 『堀田さん。俺、合格したよ』


 合格通知を、目の前に掲げる。


 『約束、忘れてないよね?』


 『はい』


 小さな角度で首肯する彼女は、本当に嫌そうな顔をしていたが、俺はそんなことを

微塵も気にしていなかった。


 ここから、彼女に俺の良さを分かってもらう。軽薄で軽率な男とは違う。俺は高尚

で、面白みが合って、雰囲気もカッコいい男で、彼女の人生に影響を与えられる人間

なんだ。


 勘違いも甚だしい。


 顔に出ていたのだろう。彼女は怖気にも近い顔で、『約束ですからね』と吐き捨て

て家に帰った。


 俺は、調子に乗っていた。


 今までの全ての不幸は、たった一つの幸せのために起こったことなんだと、信じて

疑わなかった。


 書いた。


 メモを書いた。


 『4月20日、堀田さんとデートする』


 休み時間に、メモ帳に書き記した。ボールペンで、ページの真ん中に、大々的なニ

ュースのように、仰々しく大きな字と、ページを突き破るほどの筆圧で書き記した。


 書いてしまった。


 冷静さを欠いて、書いてしまった。


 愚者の極みだった。せっかく努力して手に入れた幸せは、兵頭の手によって、いと

も簡単にぐしゃぐしゃにされた。


 『最低』


 くしゃくしゃになった顔。俺に初めて見せた泣き顔は、彼女自身のものだった。俺

みたいな下も下の男に裏切られ、プライドを傷つけられたことに対する涙。


 『恨みですか?』


 怒った泣き顔で俺に訴えかけた。


 『違う』


 『逆恨みなんて情けない。みっともない。子供みたい。嫌い。嫌い。嫌い』


 『頼む、信じてよ』


 『うざい。死ねよ』


 信じてくれなかった。


 『あんたなんか、死ね、死ね、死ね』


 俺なんかに掛ける言葉は、それで充分だった。


 約束を守れないから、彼女はここまで現れたのかもしれない。


 死ぬことを命令されたのに、何を呑気に愉快な行事に参加しているのかと。沈みゆ

く俺を嘲笑うように表情が不敵の色に歪む。


 どうだ。ざまあみろ。


 表情だけで彼女が言いたいことが分かった。


 「新太っち、ってば!」


 焦燥と怒りに満ちた小声とともに、柳先輩が俺の肩を突く。周りも何事かとざわつ

く。


 無理だ。


 終わりだよ。


 彼女は俺にトドメを刺しに来た。


 俺みたいなやつが贅沢をしてはいけなかった。異能をコントロールできずに支配さ

れて、それでも自分は悪くないとどこかで決めつけて。今だって、この状況から逃げ

出したくて。そう、過去から逃げて、逃げて、逃げて、逃げて…。


 姉の方を向いてしまいたくなる自分が、どうしようもなく憎い。


 あれだけ憎んでいた姉に、助けを求めてしまう。


 そんなやつこそ、死ねばいいんだ。


 「もう、無理なんですよ…」


 マイクを通さない泣き言。


 何もできないくせに、弱さを見せることだけは上手な自分が、大嫌いだった。


 もう。


 今すぐにでも。


 この壇上から下へ飛べば、それも頭から床に叩きつけてしまえば、可能だろうか。


 死ぬことは、可能だろうか。


 身体を前に預けた。前方の小さな断崖に向かって、頭を下に向けて落ちることだけ

を意識した。


 この瞬間、不確定要素が生まれる最大の理由を知った。


 生きているから、だ。


 この世に生まれて生きるという行為を続けている限りは逃れられない。また、他人

のせいにしていたことに気が付く。


 違う。


 全部俺のせいだ。


 姉が悪者になったのも、兵頭が殴られたことも、カコちゃんが侮辱を感じたのも、

輔に憎しみが生まれたのも、全部、全部、全部全部全部!


 「俺のせいだ」


 ドン、と大きな何かを強く叩きつける音が、大きく鳴り響いた。




 …俺のではない。




 俺は、遠くから聞こえる音で正気を取り戻し、重心を戻した。


 その音で、魚群のようにざわめいた喧騒は静まり返り、全員の視線が出入口に集ま

った。


 テラスから差し込む西日の光が、ちょうど開けられた場所を差し込む。


 この時間帯。


 この頃合い。


 この状況。


 「このわたくし! 堂々と遅刻させていただきました!」


 全てを狙いすましたかのように現れたのは、まるで天上人のように煌びやかな浴衣

に包まれた、少しおかしな少女、峰一縷だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る