第29話 土屋陽菜乃の後悔 ―2―

 同じ病院の看護師と3年も交際していたらしい。そんなことも知らないで、私は彼

を独り占めしているような気分になり、父親と新太を出し抜いているような、そんな

優越感を感じていた。実に愚かで滑稽だった。


 中学に入ってからは、心を彷徨う漠然とした何かをかき消すように、部活も勉強も

がむしゃらに努力した。


 必要とされたい。完璧でありたい。


 完璧。


 努力する中で、私が本当に欲しいものに気付いた。


 わずかな綻びがあるから、人は人を憎む。そして過ちを犯す。


 わずかな欠陥があるから、人は人に苦しめられる。そして過ちを犯す。


 私が完璧になれば、新太が安全に暮らせる。これから広がる交友関係の不確定から

守れる。


 パートナーにも完璧を求め始めた。勉強ができて運動もできる先輩は、一人のクラ

スメートの腹を数人がかりで踏みつけていた。顔がよくて教師からも生徒からも好か

れていた同級生は、付き合い始めると気性が荒くなり、私の頭を叩いた。学校でも、

乱暴に胸を掴まれた。


 欠陥だらけで不確定まみれの人間しかいないことに絶望した。


 次で変えられるだろうか。


 『私立時ノ丘高校』は生徒の自主性を重んじる。自由で不確定の匂いがする学校に

入学した。


 正してみたかった。


 生徒の自主性という自由。裏を返せば多少の好き勝手が許される、統一性の欠如。


 その自由を保ったまま、完璧を実現する。新太に自由で安全なレールを敷いてあげ

る。


 『私が安全にしてあげるから、新太も来てみない? 制服もいい感じだよ』


 久しぶりに話しかけた弟は、どこか大人びていた。背も私より少し高くなってい

た。彼も彼なりに成長したのだろうか。


 『考えとく』


 意外にも素直に聞き入れてくれたことに驚いた。嬉しさが後から生まれる。


 新太が入学する前に、片づけておくことがあった。


 カビのような連中が、生徒会の新3年生にいて、あろうことか、生徒会長や副会

長、企画部長などの役職を持っている。例年、新3年生がそのような役職を持つ。


 自由のせいで、立場の弱いものが不自由になるなんて、なんとも皮肉で憎らしい。


 だから、1月。


 私は、生徒会室を放火した。


 火災報知器が反応し、教師たちが駆け付け、消火器で鎮火した。


 目つきの悪い、暴力をするのに特化した大きな体格、着崩した制服を纏った先輩た

ち。


 『この人たちが、タバコを床に放り投げました』


 私は勇気を出して言った。


 彼らがタバコを持っていたのは観察済みだった。灰皿がない時も、吸殻をどこにで

も放り投げ、後輩たちに捨てさせることも把握していた。


 『なんだと! しょっ! 証拠はあんのかよ!!』


 私に近寄る暴漢のような先輩たち。怖くて、今にも足が崩れ落ちそうになる。声も

震えそうになる。


 しかし、平静を装った。少しでも崩れれば、説得力が無くなる。あえて、気丈にふ

るまった。小さな新太を落としたあの日と比べれば、こんなやつら、まったく怖くな

かった。


 『証言ならあります。彼らは日常的に、私たち2年生に吸殻を処理させていまし

た』


 我ながらに詰めが甘かった。私以外に、勇気を出して彼らの前で悪事を暴露するこ

となんてできるわけがない。


 『それは本当なのか?』


 教師の1人が尋ねると、狐塚や鈴井は下を向く。柳も『いやぁ…』と、言い淀む。


 雲行きが怪しくなる。


 やってしまった。


 彼らが私に笑いかける。あとで覚えておけよ、と。


 新2年生たちは私を睨む。生徒会室を燃やした責任を、自分たちにも取らせるかも

しれないから。何を勝手なことをしてくれたんだ、と鈴井が私を睨む。


 『じゃあ、火は…』


 教師たちも怪訝そうに私を見る。


 正直に手を挙げるしかない。


 この場でも、私は完璧になれなかった。


 これからのことをぼんやりと考える。2年には絶交されて、生徒会の外にもうわさ

が広がるだろう。あいつは勝手なことをしてくれた、と。3年の輩たちに、私は叩か

れ、蹴られ、最悪の場合、性的暴力もあり得るだろう。奴隷のような扱いになるのは

間違いない。


 学校をやめようか。成績は常に学内で1位だから、どこかの学校へ転校できるし、

学校に行かないにしても大卒認定がある。大学から、完璧を作り直す手だってある。


 いや、その前に、この一件があの家に伝わってしまう。屈辱で、死ぬ以上に避けた

い。


 じゃあ、これが終わったら、すぐさま死ぬしかないな。


 『証拠ならありますよ』


 後ろから足音がした。


 『最近のスマホは画質がきれいですね』


 振り返ると、スマホを片手に持って、大宮真宏が場違いに笑いながらこちらに歩み

寄った。


 『んだと?』


 3年生の1人が彼を睨む。普段から大人しい性格の大宮は、彼らからよく雑用を強

要されていた。


 まずは教師に見せると、困惑状態だった彼らは確信を取り戻し、『本当か?』と生

徒会長たちに詰め寄った。


 そのあとは、2年生たちも動画を観る。すると柳希和が自信をもって『本当です』

と声を張った。


 『俺たちもタバコを捨てさせられました』と狐塚。『間違いありません』と鈴井。


 『でたらめ言ってんじゃねえ!』


 教師に腕を引かれる生徒会長。


 『土屋。てめえ、覚えとけよ』


 喫煙の噂はあっという間に広がり、居場所を失った彼は、学校を自主退学した。


 あの復讐に飢えた眼を、一生、忘れることはないだろう。


不確定要素ができてしまった。


 しかし、私はこの一件で完璧に近づいた。


 『じゃあ、生徒会長になったので、改めてよろしくね』


 たどたどしい口調であることは自覚しているが、柳希和と狐塚紺太に笑われると少

し苛立たしい気持ちになる。3年の前では縮み上がって堂々と発言できなかったくせ

に。


 『就任おめでとう』と大宮真宏が拍手する。どこか悔しそうに見えたのは気のせい

だろうか。鈴井凛も同調して拍手する。


 『ヒナヒナ、なんかオシャレになったね。彼氏でもできたん?』


 『部分的には正解』


 やはり彼女は指摘してきた。


 『これからはイメージ戦略も大事にしようと思ってね。新入生も入ってくるから、

生徒会長という肩書きがいかに大きい存在になるか。前までの盗賊団のように荒んだ

団体から、王国のように清く気高い組織を目指す。あの3年たちのような不確定は徹

底的に排除する。これが私の理想』


 ボブまで切りそろえた黒髪を撫でる。なれないシャンプーと香水の匂いが鼻腔を突

く。


 『学園モノに出てくる生徒会みたいでいいじゃん』


 『そういうチープな考えじゃないから。まったく、希和ちゃんは』


 勇気を出して呼んだ、彼女に対する新しい呼び方。今まで柳さんと呼んできた彼女

はどんな顔をするだろうか。


 『へえ。呼び方は庶民的になっちゃうのねぇ』


 分かりやすい顔で喜んでくれた。


 そのあとは、鈴井凛のことを凛ちゃんと呼んだ。希和ちゃんと比べるとハードルが

かなり高かったが、あっさりと受け入れてくれた。相手から会長と呼ばれたが。


 『俺はなんて呼ぶんだ? 紺ちゃんでもいいぜ』と軽薄な声で笑うキツネ顔には

『狐塚くん』と無味乾燥な声で応対した。


 こうして、3年生を排除した2年生5名のみの生徒会は、私が掲げた理想に向け

て、目まぐるしい日々に追われた。


 『火をつけたの、君だろ?』


 大宮真宏だけが、あの日の真実を知っていたが、黙ってくれることを約束する代わ

りに、本人の希望で彼を副会長に就任した。


 完璧に近い状態で、新太が1年生を過ごす。大宮くんの独断で引き入れられた生徒

会にも順応していく。


 新太が、正しく安全な道で、確実に強くなっていく。私の望みが叶っていく。


 しかし、弟が強くなる大きな要因は、生徒会という環境ではないことに気付いてい

た。


 『お願い』


 体育館の隅で、私は電話相手に訴えかける。


 『新太には、私には、あなたが必要なの』


 峰一縷。


 彼女に出会っていなければ、新太はここまで強くなることはなかっただろう。


 その名の通り、一縷の望み。


 今回の抽選会の司会者は、新太と一縷ちゃんを起用するつもりだったが、アクシデ

ントが起こった。輔ちゃんの妨害を予期するのが遅すぎた。希和ちゃんから電話で聞

いた情報をもとに、犯行を言い当てることができたが、事が起こってしまっては最低

限の処置しかできない。私がその場にいれば、阻止できていたのに。


 『いるじゃないですか』と別人のように暗い声が返ってくる。


 『土屋君には、お姉さんも、お父さんも、…間宮さんもいるじゃないですか。私が

そこにいる必要はありません』


 『でも、今日の司会は』


 『狐塚先輩だって柳先輩だっているじゃないですか。私よりも適任ですよ』


 何を言っても無駄だと分かっていた。


 『仕事もできなくて、土屋君が何を考えてたなんて分からなかった。分かろうとも

しなかった私に、何を求めるんですか?』


 諦められなかった。電話の先の彼女がどれだけ沈んでいるかも分からないが、言わ

ずにはいられなかった。


 『新太が、あなたのことを大切に思っているから』


 また私は、無責任な発言をして弟を危険にさらそうとしている。それでも、やめら

れなかった。


 『新太が心の底から笑わなくなったの』


 『私じゃないと思います』


 「あなたなの!」


 反射的に声を張ってしまう。少しづつ集まって来た中学生の数人の目線を遮るよう

に目をそらし、距離を取る。


 「一縷ちゃん。あなたは、あなたが思ってる以上に魅力的なんだから。新太の顔を

見れば、いつも一縷ちゃんを見てる。男の子はね、いつでもどこでも、好きな女の子

のことばっかり見てるんだから。…だからお願い」


 しばらく声が返ってこない。


 待っていると、ブツ、と着信を切断する音が鳴り、ツーツーと無情な音だけが耳に

届いた。



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