第28話 土屋陽菜乃の後悔 ―1―

 新太は私が守る。


呪いのように言い聞かせた。今でもそうしているし、これからも変わらないだろう。


11歳の私は、小さな新太を落とし穴に突き落とした。


小学校も高学年に近づくと女子の身長は男子を超える。クラスにいた男子たちよりも

高い身長の私は、もちろん貧弱だった新太よりも大きかった。


 体格差で突き飛ばすのは容易だった。


 あのだらしのない父親も、血縁でも何でもない間宮の連中も、異能を持った当主だ

からと、御神体のように、あんな小さくて気の弱い男を丁重に、丁寧に扱った。


 あいつのせいで父親から頭を叩かれたし、多恵子のババアからも立場をわきまえろ

と偉そうなことを言われた。


 叔父の悠寿君だけが私の味方だった。あいつらのせいで涙を流した私を商店街に連

れ出して、よくお菓子を買ってくれた。お父さんたちには内緒だよ、と彫刻のように

きれいな人差し指を、これまた小ぎれいな顔の真ん中に立てて無邪気に笑った。


 ああ、この人がお父さんだったらいいのにな。


 土屋太寿なんて、怠惰で口だけの偉そうな親父なんかじゃなくて、人の命を救う医

者であり、姪の心も救う叔父さんが大好きだった。


 魔が差したのは、いつの間にか、だった。


 新太を突き落とそうと、心が突き動かされたのは突然のことだった。


 歴代の土屋家の人間が作ったと言われる3メートルの穴。『禍の穴』と呼ばれる場

所を知っていた私は、そこに新太を閉じ込めてやろうと思った。


 『禍の穴』


 禍を埋めるための穴。掘り起こせば、禍が訪れると言われる穴。


 当時の小学生で唯一、『埋没忘却』を知っている勝治を呼んで、2人で新太を呼び

出し、突き落とした。


 『どうしたの? 勝治はすごいな、お姉ちゃんとも仲良しなんだ。…え』


 川に大きな石を放り投げたような、間抜けな感覚で、新太は落ちて行った。


 『下にクッションを敷き詰めたから大丈夫だよ』


 青ざめていく勝治の顔に、先回りして伝えると、勝治は『そっか』と気を張ったよ

うな小声で安堵した。


 『何が異能よ』


 高揚に任せて、ため込んでいた思いが言葉となって吐き出た。


『埋めたら忘れちゃうくせに。そんなやつは、自分自身を忘れてしまえばいいんだ

よ。忘れられる側の気持ちも知りなさい』


『い、嫌だ、待って! 待ってよ!』


案の定、新太は泣き始めた。これから何をされるか分かっているのだろう。そういう

察しの良さにも腹が立つが、今回は効果的だった。


知らない方がいいことだってある。漫画か何かで目にした言い回しの意味を、この瞬

間、真に理解した。


 『あんたは当主なんだから。一番上の人間なんだから、ちょっとは下々の人間たち

の気持ちも理解しな。…勝治』


 『おう』と歯切れの悪い返事で、私と一緒に幅3メートルの大きなアクリル板を穴

に被せる。透明で、新太の情けない顔がよく見えた。


 『お前が弱いくせに特別だから悪いんだよ』


 勝治は自分が正しいと言い聞かせるように、新太への文句を吐き出し、シャベルを

手に持った。


 『待って!』


 アクリル板から薄っすらと聞こえる悲鳴。まだ、自分の記憶を失っていない。


 『止めてよ! お姉ちゃん! お姉ちゃん!』


 『あんたが悪いのよ』


 泣きじゃくる新太には聞こえない声量で、呟いた。


 私もシャベルを手に持ち、徐々に土に消えていく新太を塗りつぶすように、アクリ

ル板に土をかぶせた。


 『これから10分だけ寝かせようかな。もたもたしてるとあいつら帰ってくるだろ

うし』


 父親たちは、政府の要人と会食に出かけていた。多恵子もいない。いるのは、新太

なんかを慕う未熟な孫だけ。


 『ダメだよ、そんなことしたら』


 その孫は、怯えながら私たちを咎める。


 『なに? 文句あるの?』と軽く睨んでやると、『いや』と下を向いて黙り込んだ。

こいつも新太と同じ。特別な境遇にいるのに、その特別を使いこなせていない宝の持

ち腐れ。


 新太が生まれてきたせいで、私はずっと軽んじられてきた。『お姉ちゃんだから我

慢しろ』ではなく、『当主様の意向を優先しろ』と言われるのが、新太の後ろを歩け

と言われているようで気に食わなかった。


 私の方が先に生まれてきたのに。


 私の方が運動もできて友達も多いのに。


 それからしばらくして、新太を掘り起こした。


 土を払い、アクリル板を取り外す。生気を失ってうずくまっている新太。それを滑

稽だと思ったのは、ほんの数秒だけだった。


 明らかに様子がおかしかった。


 呼吸を拒否したくなる臭いが鼻を突く。便を漏らしていることに気付いた。


 『こいつ漏らしてるよ、なあ、陽菜乃ちゃん』


 勝治も分かっているのだろう。作り笑いで私に声を掛ける。


 『ああ…、ああ…』


 力のないうめき声が聞こえた。聞こえた直後に、私の身体は落とし穴に落ちた。


 『新太!』


 俯いていた顔を、手で上げると、死んだように白目をむいて『うう…』と喉を鳴ら

す小さな弟。口から涎を垂れ流している。


 自分の息遣いが荒くなるのを感じる。気を抜いてしまえば全身の力が抜けてしまい

そうになる。


 『新太! 新太っ!』


 焦燥。


 新太が死んだらどうしようと思いながら、父親たちに見られたらどうしようなどと

下劣に考えてしまう自分が意地汚くて嫌いだった。


 『ねえ! 起きて! 返事してよ! 泣き虫なんだからいつもみたいに泣いてよ! 

わめきなよ!』


 相手に泣き虫と非難する私の眼から涙が零れ落ちる。その顔のまま、『何やってん

の! 早くお父さんたち呼んでよ!』と勝治と輔に怒鳴る私。


 『ご、ごめん!』と慌てる勝治。『多恵子さんに連絡を』と努めるように落ち着き払

う輔。


 父親たちが帰って来たのは、新太を引き上げて30分後のことだった。


 取り返しのつかないことをした。こんなことになるなんて、気づけなかった。


 『お父さん!』


 加害者のくせに逃げるように飛びついた。


 『新太が…新太が!』


 大人の強い力で縋りつく私を引きはがすと、普段の軽薄な笑みを完全に捨て去った

真顔で、輔に問うた。


 『新太は?』


 『この奥の居間で座らせてます。意識は少しづつ回復してます』


 『そうか』


 そう言い切るなり、黙って襖を開ける父親。


 『新太、どうだ、調子は』


 優しい顔をしていた。相手を安心させるための顔。私にもその顔を向けてほしかっ

た。


 『…大丈夫』


 うつろな目をして返答する新太は、父親が帰ってきて少し安心しているようで、そ

の存在が効果的だったのか、少しづつ意識を取り戻す。


 よかった。心の底から安心する私がいた。


 この一件で、私は新太の姉なんだな、と改めて実感した。大事にしないとな、守っ

てあげないといけない。傷つけるなんて言語道断だ。当主である前に、私の弟だ。


 『新太、さっきはごめんね。生きててよかった。何にもなくてよかった』


 肩にのしかかった重荷が外れる。自然と笑みが浮かぶ。


 しかし。


 『来るなよ』


 この一件で、新太が完全に心を閉ざした。


 『お前なんか、姉でも何でもない』


 冷たい声だった。恐怖を乗り越えて何かを悟ったように、無味乾燥な声音。


目を合わせてくれなかった。


新太が、私を拒絶した。


 『早く消えろよ、この家から』


 新太の声を合図に、細くも力強い手が私を掴み、新太を遠ざけるように引っ張る。

多恵子のババアが何とも形容しがたい剣幕で私を睨みながら、男のように強い力で私

を引っ張る。


 痛い。離してほしい。本来ならそう思っていたはずだ。でも、新太に掛けられた言

葉で頭がいっぱいで、そんなことはどうでもよかった。


 私の部屋の前に放り投げられる。『あれほど丁重に扱えと言ったはずですが、陽菜

乃様はよほど頭が悪いようですね。異能の片割れは出来が悪いのかしら』と、捨て台

詞を吐き、しわだらけの老婆は背を向けた。


 挫けそうな意識の中で、思いがこみ上げた。


 どうしてお父さんは、何も言ってくれないの?


 今だって、どうして私を助けてくれないの?


 悪いのは私だし、これからは新太のことを大切にする。そう決めたのに、なんで?


 怒ってもくれない。こういう時は、私の頬を張ったりするんじゃないの?


 『なんでよ…』


 腹が立った。


 そして悟った。


 どうでもいいんだ。この家はもともと、異能を持った当主で成り立っていた家。長

らく不在だった異能の家を、新太という神童が救った。


 この家が消えようと、どうでもいい。


 ただ…、


 全部が消えてなくなれとは思わない。


 新太の恐れる顔、放心する顔、死にかけたように生気のない顔が頭から離れない。

弟を思う気持ちは本当だったことを、今になって気づいた。遅すぎた。


 悠寿くんだけが、その夜、声を掛けてくれた。ハンバーグをごちそうしてくれた。


 大好きだった。


 悠寿くんと一緒に暮らしたいな、なんて思っていた。


 その翌年、悠寿くんは結婚した。



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