第20話 カバンの中

 「今度はみんなで泳ぎにいこ!」


 「いいね。ていうか、いちるんはリサーチ不足だよ~。こんなところに海水浴場が

あったとはね~」


 雲一つない青空の下。潮騒の匂いを漂わせた8月の風が、前方を歩く彼女らの髪を

揺らす。


 「じゃあさじゃあさ、今度は新太っちをみんなで海に放り投げちゃおうよ~」


 柳先輩が気遣うように俺の名前を出し、場を盛り上げようと試みる。


 「名案だな、柳君! 弟を投げるとは多少心苦しいが、スキンシップにはなるだろ

う! ははは…」


 歪みのある抑揚でぎこちなく笑う大門先輩。修羅場の瞬間に立ち会った彼は、俺に

一番に寄り添ってくれた。


 この人たちが俺を信じてくれたのが、唯一の救いだった。輔も、俺の隣で笑顔を作

る。


 一方の峰は、俺の名前が出た途端に黙り込んだ。眉一つ動かさない表情を浮かべ、

前方を見て歩いた。


 小さな声で、「なんでいるの」と聞こえた。


 …死にたいと思った。


 昨夜は最悪だった。峰の着替えと、下着と思しきものが俺のカバンから溢れだし、

その瞬間を峰に目撃された。目と目が合って数秒は、お互いに何も喋らなかった。


 徐々に、峰の表情が険しくなる。


 「どうして…」


 違うんだ。


 否定したかった。でも、否定できない理由もできてしまった。


 今にも泣き出しそうな顔で、バタン、とドアを強く叩くように閉めた。


 「新太君、何か言い分があるんだろう?」


 「そんなの、ないですよ」


 力のない声で否定した。


 「僕は君を信じる」


 「またそれかよ。てか、もう見たでしょ? 俺がやったんですよ。これが証拠です

よ」


 「それは信じない。とにかく、今は柳君を通じて衣服を返しに行こう」


 先導する先輩がいなければ、俺はそこで泥のように座り込んでいたかもしれない。


 そして、この場にいられなかったかもしれない。


 「ほ、ほら、水族館あるけど、行こうよ~」


 「いいなぁ! 水族館! 海洋生物を見て癒されようではないか!」


 先輩たちがこの不自然な空気を少しでも正常に戻すために努力してくれている。そ

んなことしなくても、俺がこの場から消えれば、峰のためになるのに、俺はそれをし

ない。それをしたくない。


 「いいですね! 行きましょ!」


 峰が笑顔を向ける人間の中に、俺はもういない。これからもそうなる。俺かあいつ

が、あるいはその両方が明日にでも生徒会を辞めて、接する機会を失う。俺はその思

い出を書き留めて、土に埋める。


『埋没忘却』で忘れる。前に進むために、抱えきれない思い出を消し去る。峰は、俺

に服と下着を盗まれた記憶を持ったまま生きていくのに、俺は自分に備わった卑怯な

力で忘れる。


閉ざされた水槽の中で泳ぐ魚は、自由に、楽しそうに泳いでいた。


それぞれが笑顔を作る中で俺は黙り込んだまま、行軍について行く。水族館を出て、

海が見えるレストランのテラス昼食。それまでも俺は、1人で抜け出すことも出来な

いまま、晴天の闇の中をさまよう。


 ようやく、旅が終わる。


草木の生い茂る平野のバス停、舗装されているコンクリートの上で、午後4時の眩し

い光を横目にバスを待つ。


身体と心の疲れで静寂と化した空間。


「ねえ、そろそろ、本当のことを言ってもいいんじゃない?」


 今日一日、笑顔を作っていた柳先輩は、昨日、峰の抱擁を拒絶した時と同じ表情

で、俺の方を見た。いや、正確には…。


 「輔ちゃん」


 名前を呼ぶ。俺以外の全員が、輔に視線を向ける。


 「なんですか?」


 訳が分からないといった表情で応じる。


 それでも、先輩は平静を崩さずに、淡々と言い分を述べた。


 「昨日、いちるんの服と下着を盗んだのは、あなたでしょ?」


 「え」


 「なに言ってんすか? 俺が盗ったんですよ」


 俺は、弱弱しくなった声で否定した。


 「峰はそれを目撃したんだから」


 俺の方を絶対に見てくれない峰一縷の顔を一瞥する。


 「分かった。じゃあ、質問を変えるね。いつ盗ったの?」


 輔の表情が一瞬だけ固まる。俺も多分、こいつと同じ顔をしていただろう。


輔は、すぐさま反論する。


 「いつ盗った…ですか? 僕にそんなことができるわけないじゃないですか? 僕

ら意外に宿泊客がいたのに、どうやって忍び込むんですか? 脱衣所にだって人はい

たはずですから、忍び込んだら必ず騒ぎになる」


 「そうね。女子専用の場所に男の子が1人現れたら大問題よね」


 柳先輩は輔の言い分に一度だけ頷き、「で、その紛らわしい一人称、やめたら?」

と問うた。


 「女の子で一人称が『僕』なんて、漫画とかアニメの見すぎなんじゃないかしら」


 「っ!?」


 輔の顔が、明らかに図星を突かれた様子だった。俺は、諦めて言い逃れすることを

辞めた。しかし、輔はまだ、足搔いていた。


 「なに言ってるんですか? 頭おかしいんじゃないですか?」


 「おかしくないよ。じゃあさ」


 柳先輩が手を出した。


 「カバンの中、見せてよ」


 「え」


 「なに? 見せられないものでもあるの? 例えば、自分の下着とか」


 「…ない」


 「じゃあ、見せられるじゃん」


 先輩が追求すると、「うるさい!」と手で何もない空間を跳ねのけた。


 そして、言ってしまった。


 「ああ、そうだよ! 僕は…、私は…、女なんだよ! 私がやったの!!」


 年ごろの男では出せない音域の金切り声が、開けた平野にこだまする。


 「柳君、どうして彼が…、いや、彼女が女性だと?」


 「ヒナから聞いた。ああ、新太っちのお姉ちゃんね」


 名前を聞いて、顔を思い出して、今日の今日まで消沈しきった気力が奮い立たされ

た。


 「またあいつが余計なことを…」


 怒りが収まらなかった。手の平が裂けそうなくらい力強く握らなければ、ギリギリ

と歯を軋ませるほど食いしばらなければ、心がどうにかなりそうだった。


 「だって、だって、私の方が…新太のことを知ってるのに」


 輔の泣き顔を見るのは、覚えている限りではこれで2回目だった。


 「途中から割り込んできたくせに、生意気なんだよ」


 目を真っ赤にして、今度は峰の方を強く睨んだ。峰は、何が起こっているのか分か

らない様子で一言も喋らなかった。


 「新太も新太だよ。こんな頭の悪い女に引っかかって」


 「…」


 「ねえ、なんとか言ってよ」


 「ごめんね」


 謝ったのは、柳先輩だった。


 しかし、輔は謝罪の言葉を微塵も受け付けない。


 「謝るくらいなら、こんなところで暴くなよ、低能。陽菜乃ちゃんも結局こいつら

の味方なのね」


 「それは違う。ヒナは2人を想って…」


 「うるさい!」


 次に声を上げたのは俺だった。自然と怒りがこみ上げてきた。


 「あんたらは知らないだろ。見たことないから分かんないんだよ」


 「一回落ち着くんだ、新太君」


 近づく大門先輩から距離を取る。



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