第二幕 第十四話「味噌汁一杯」

 道中、ヤスの足取りは重い。それは隣に子供が二人いるというだけではない。単にとして、荷車に積んで運んでいる物の量が桁違いに多いからだ。

 ガラガラと音を鳴らしながら車輪が回る。二本の平行線と、六つの足跡を地面の上に残していく。

「へえ、お二方、待ってくだせえ」

 ヤスがか細く情けない声を上げる。その細い見た目には不相応なほどの荷車を引いている。上半身は前へ突き出し、歯を食いしばることも少々。冬だというのに額には汗の粒が見えている。

 息を切らし、荷車を引く両手もプルプルと震えている。

「はあ、はあ。そろそろ、一度休憩にしませんか。おいらもう歩けねえです」

「ヤスさん、もうちょっと頑張って!私も後ろから押してあげるから」

「ひい、ありがとうございますう」

 前の方にちょうど休めそうな木陰を見つけたので、三人がかりでそこまでなんとか荷車を運ぶことにした。

 木陰に着くなりヤスは荷車の車輪と地面の間に木片を挟み込み、勝手に転がっていかないようにすると、先に二人が腰掛けるように促す。

「お二方、先にお座りくだされ。このヤスは、地べたで結構ですので」

 どういっても聞く耳持たずといったヤスに、なんだか申し訳なさそうにちょうどよいくらいの石に腰掛ける二人。少女は差し掛け傘を閉じて脇に置く。「ヤスさんのために休憩してるんだけどなあ」とは、心の中に留めておいて。

 ヤスも地面にドサッと座るなり、荷車から降ろした水を口に運んでいる。

 それにしても大量の荷物である。おばさんからは薬売りだと聞いたが、だとヤスは言っていた。少女はそれが妙に気になった。

「ねえヤスさん。いくらなんでもその荷物は多すぎないの?それにって」

「ああこれですかい。これには商品以外にもおいらの暮らすための物もありますからね。これで多いってことはないですよ」

 ハハハと乾いた笑いのヤスだが、その表情にはどこか陰りが見える。

 ふと、ヤスの腹がぐううと鳴る。恥ずかしそうにヤスは頭をかく。荷車に食べ物があったはずだと探しに行くが、しょんぼりして帰ってきたため、商品以外の食料は無かったのだろう。

 また地べたに座っては虚勢を張るように一段と明るく振る舞う。

 しかしすぐに地面に突っ伏して倒れてしまう。

「ここ二日三日と水しか腹に入れていないためのこの始末。ええ、もう少ししたら治りますんで、しばしお待ちを……」

 とくぐもった声でヤスは言うのだが、ドサリと腹まで地面に付けて倒れて、動かなくなってしまう。

「ヤスさん⁉」

 少女がヤスをゆすって起こそうとするも反応は無い。

 少年は水をかけて起こそうとも考えたが、少女の前ではあまり乱暴はしたくないとして止める。

 ヤスを木陰の奥に何とか動かして、木に背中を寄りかからせる。

 そういえば三日くらい何も食べていないとか言ってたなと、少女はヤスの言葉を思い出す。

 少女は「そうだ」と言って。

「ねえヤスさん、ちょっと待っててね」

 返事ができる筈もないヤスに語り掛けると、二人は示し合わせたかのように作業を始める。

 ヤスがもし起きていたのなら、「さて何が行われるのでしょうか。杖打ちでしょうかそれとも顔を上げたら誰もいないなんて仕打ちでしょうか。それならいいのですが一番はお嬢さんが鶴であった時……」などぶつぶつ言うのだろうが、意識の無いヤスでは無論そのようなことは無い。

 少年はもう少し奥の方に行って乾いた枝や松ぼくりを拾い集めてくる。背負い籠は無いので、白衣を少したわませて、そこに入れて運ぶ。

 少女は、少年の脇差で髪の先端を少し切って火種にする。少年の拾ってきた薪に近づけると、たちまち火がついて少女の膝下くらいの高さになる。

 パチパチと燃える音に意識を取り戻したか、木に背中を預けていたヤスがうっすらと目を開ける。

「あ、ヤスさん。起きたんだ、良かったー」

 目を擦り、顔を上げるヤスだったが、目の前にあるのは見事な火である。

 影の長さもさほど変わっていない。火打石の類も見当たらない中、どうやって火を点けたのだろうか。それも、子供二人で。

 風が吹いてもその火の形は変わらないのである。ただずっとゆらゆらと燃えているだけなのである。

 ヤスにはそれが、とてもこの世の物とは思えなかった。まだ夢を見ているのかもしれないとも思って頬をつねるが、痛い。どうやら本当に夢ではないようなのだ。

「こ、これは……。奇術か何かですかい」

 そうかもしれないね、と少女は井戸からんだ水をその火で沸かす。

 湯気が出てきたところでふところから弁当を出す。そこには味噌や山菜などの具材がたっぷりと入っていた。

 カツオの出汁だし袋やあらかじめ切られたネギ、漬けてあった大根を湯に入れる。

 香りが立ってきたところで次は味噌だ。おばさんから教わったのだろう、少女のそれは寸分違わぬ目分量だ。

 その味噌を入れてしばらくすると、湯に色が均等に付いた。

 小さめの茶碗のようになっている弁当の蓋に出来上がった味噌汁を入れると、ヤスの前に差し出した。

 差し出されたヤスは何が何だか分からないと言った様子でまばたきを繰り返している。

「これを、おいらに……?」

「うん。だってお腹すいてるんでしょ。ほら食べて。困ったときはお互い様だよ」

 その姿はいつかのおばさんに重なって少年の目に映った。

 ヤスは味噌汁の入った茶碗を受け取ると、中をまじまじと見る。

 味噌の濃い香りの隙間にカツオの淡い香りが入り込んでいる。ネギや漬けた大根が浮いていて食欲がそそられて、もう一度ヤスの腹が鳴る。

 ヤスが再度顔を上げると、少女はにこやかに笑っていた。

 それを見て本当に自分のための味噌汁なのだと理解したのか、ヤスは茶碗の端に口をつけて味噌汁をかきこんだ。

 腹に入っていく味噌汁とは反対に瞳からはぽろぽろと泪が溢れ出て、「ありがてえ、ありがてえ」と言いながらきれいに食べ終えた。

 犬のようにかぶりつくのを、いつかの自分と重ねて見る少年もまた味噌汁を食べる。

「どう、美味しいでしょう」

「うん、美味しいよ、とっても」

 そう笑い合う二人の子供と、泣き崩れる一人の男。小さな木陰にいびつな組み合わせの三人が、同じ味噌汁を食べて同じ時を過ごす。


 滝のように泪を流していたヤスも、やがて落ち着きを取り戻した。

 食べ終えた茶碗は地面に置かれている。

 パチパチと火の燃える音だけがあたりを包む静寂の中、ヤスは胡坐あぐらをかいた膝に手を乗せて頭を下げている。

面目めんぼくねえ、かたじけねえ。おいらこんな施しを受けたのは、生まれてこの方初めてだ」

 鼻水を垂らしたその顔は少し紅潮していて、溢れんばかりの感情を伝えるとともに、口から出た言葉に、自身の過去を思い出すことを余儀なくされている。

「お嬢さんそういえば、さっきおいらがだってこと、気になっていましたね。ええ、そうです。おいらそうやってうたっていますけども、そんなに良い奴じゃあないのです」

 顔に深く影を落とし、ぼそりと吐く。

 少女ら二人は「なんだろう」と言った感じであるが、ヤスが「このせっかくの休憩に、お耳汚ししてしまうかもしれませんが、聞いていただいてもよろしいでしょうか」と言うのを聞くと、姿勢を若干正す。

 ヤスは「いままでおいらに興味を示してくれる人なんて、いなかったものですから」と続ける。

「おいらはと言えばそうなのかもしれませんが、実のところは違うのです。と言えばわかりやすいでしょうか。江戸で商品を仕入れ、田舎の右も左も分からないような老人や子供に高値で売りつける。、なんて言っていますが嘘なんです。おいら、そんなお天道様に顔向けできないような、日陰者なのです」

 日に当たることのできない日陰者。少女はその言葉に、チクリと胸を刺されたような痛みを覚えるが、次の瞬間にはすでに消えていた。

「おいらの親も商人でしたが、おいらが10の時にしちまいまして、店を売り、家を売り、残ったのはこの荷車と野犬のような三人のみでした。ほどなくして親も亡くなり、荷車を引いて野を這うだけの日々で、残された金も無くなっていく一方でした。その時よく食っていたのが一本あたりで売られている団子でした。それである時気が付いたのです、思えば悪の考えでした。一つの串に三つの団子が付いているのですが、その団子を一つずつでバラバラに売れば儲かるのでは、と考えてしまったのです。初めは田舎のばあさんに売りに行きました。すると美味いだなんだと言って、また売ってくれなんて言うのです。それで拍車がかかってしまいまして、六文、一二文、一八文と残る金も増えていきました。やがて他の物も仕入れ始めてまた転売をして、時には盗みを働くこともありました。そうして暮らすこと二五年。それで今に至るということでございます」

 煮るなり焼くなり好きにしてくれとでも言うようなヤスの目はしかし、初めて自分の境遇を誰かに吐き出せたということからか、また涙で滲んでいる。

 嗚咽おえつまじりになりながらも続けるヤスは、額を地面に擦り付ける。

「おいら腐ってもなんでも売りのヤス。その名にたがわず、商品は形あるものに限らずでございます。この味噌汁一杯で、このを売らせていただきたく思います。こんなに美味しい味噌汁一杯とは、おいらにつく値段としては高すぎるとは思いますが、どうかお願いいたします」

 かすれた声で叫ぶヤスを前に、二人は目を見合わせる。

 なにせ自分たちよりも一回りも二回りも歳を食った男が、地に伏し、こうべを垂れ、己を買ってくれと懇願しているのだ。呆気あっけにとられるのも無理はない。

 しかし少女はそれに真摯に向き合おうとする。

「ヤスさん、顔を上げてください。買う?とかは分からないですけど」

 ヤスは顔を上げる。少女から送られる眼差しに、初めて受ける慈愛に何を感じたのか、口をあんぐり開けたまま止まってしまう。

「さっきも言ったけど、困ったときはお互い様。次はヤスさんが私たちを助けてくれればそれでいいよ。あっ!でももう悪いことはしちゃだめだよ?」

「……へい、もちろんです!」

 許された、などとはヤス自身も到底思ってはいない。虫がいい話とは分かっている。

 だが、初めて自分に向き合ってくれた、自分の話を受け止め、理解し、今度は力になってほしいと頼んでくれた。これで付いていかないがこの世のどこにいるだろうかと、ヤスの心は燃え上がる。

 であるならばと、このお二方が目指す江戸にいち早く、かつ無事に送り届けて差し上げるのが自分の役目なのだと。償うのはそれからでも遅くないだろうと、溢れんばかりのたけりに任せて立ち上がる。

「お嬢さん……いや、あねさんたちお二方!お二方の足を疲れさせるわけにはいきません。ささ、この荷車の上に乗ってくだせえ。おいらが江戸まで引いていきますので!」

 二人は言われるがままに荷車の上に座る。

 ヤスは力強く踏み出し、荷車を引こうとするのだが、その細身の身体ではピクリとも動かない。

 少年はは荷車からひょいと降りると、ヤスのもとへ行く。

「一緒に歩いていこっか」

「へい……」

 肩を落として「面目ねえ」と、とぼとぼ歩くヤスだったが、その足取りはいつの間にか軽くなっていた。

 ——ツキがねえなんてありゃ嘘さ!もっとでっかいのをおいらに寄こしてくれたんだ!お天道様だけじゃねえ、これからはこのお二方の前で胸張っていられるように、心を入れ替えて生きていくんだ!

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