第二幕 第十三話「因果は回る」

 その夜のことであった。張り詰めてていたものが切れる時は一瞬である。それは当の本人が一番よく理解していたことなのだが。

 ゴホッゴホッとき込む音が聞こえて少年は目を覚ます。

 月明かりが隙間から漏れて、小さな幕が降りている。まだ夜は深い。

 隣には少女が静かに目を閉じて眠っている。どうやらおばさんの寝ている方からその音が出ているようだ。

 せきに交じって、時々嗚咽おえつのようなものも聞こえる。

 慌てて少年は音のする方へ駆けていく。

 ふすまをザッと開くと、苦しそうに横たわっているおばさんの姿があった。

 顔は鼻の先まで赤く、寒さで身体を丸め、眠ろうと目を瞑っているのだろうが咳がそれを許してはくれないといった様子だ。

「おばさん!どうしたの」

 うつろな目で咳き込むおばさんの額に触れると、火の上の鉄板のように熱い。

 大変だと言って目の色を変え、裸足はだしのまま外の井戸の水で手ぬぐいを濡らし、垂れないように絞って持って行く。

 これまた足の裏は氷の上を歩くように冷たいが、そんなことを感じている場合ではない。

 おばさんを仰向けに寝かせると、額の上に濡れた手ぬぐいを乗せる。

 ひんやりとした感触に気を確かにしたのか、おばさんがぼんやりと目を開ける。

「ああ、すまないねえ」

 いつもよりも一段と低くしおれた声だ。

 少年は薬を探して棚を漁るのだが、すべては空であった。

「あんたの熱を冷ますために使ったのが最後さ。不甲斐ないねえ。あんなに自分の身を案じなさいなんて言ったのに、あたしが倒れちゃ訳がないわよねえ」

 少年の頬に震わせながらも手をあてる。

「ねえ、薬はどこに行けば手に入るの?」

 頬から手を離して、依然震える指先で指し示す方角は東。

「向こうの集落に行けば、きっと手に入る。がいるんだ。あたしからの使いだと言えばきっと大丈夫さ」

 いつの間にか起きていた少女は、話を聞いていたのか、部屋に入るなり少年の隣に膝をつく。

 少年は立ち上がると集落へ向かう用意を始める。

 それを少女はじっと見ていたのだが。

「一緒に行きたいんだろう?あたしはいいんだ、二人で行ってきな」

「ごめんなさい、おばさん。行ってくるね」

 そう言って少女も用意をする。

 またも自分以外を案じてるということか、おばさんは少女の意志を優先する。

 白の小袖に、闇の中でも鮮やかな緋袴。手には差し掛け傘と、竹でできた弁当がたずさえられている。昨日の作り置きの料理を入れたようだ。懐にはおばさんの手紙が入ったままだ。

 少年も同様、白の上衣に青松葉の袴。手燭と脇差を持って、頭にはかさを被っている。

 いずれも防寒として半纏はんてんを上に着ている。

 おばさんから預かったお金を少々懐ふところに、玄関の戸を開け放ち、外に出る。

 冷たい風を吹かせ、またふゆの山が二人を歓迎する。

 子供が二人、闇に紛れて見えなくなる。


 おばさんが目を覚ますと、東の空が明るくなっていた。

 にぎやかだった家の中も閑散としていて、少女たち二人が来る前に戻ってしまっている。

 なんだか子供が帰ってきたみたいだと思っていたのもつかの間、子供はやはり旅立っていくものなのだろうかと彼女は思う。

 今度はきっと「おかえり」が言えるように、少年たちが向かった先の、昇る朝日に祈りを込めて、あの日言えなかった言葉をこぼす。

ってらっしゃい」




 山に入るとすぐ道があった。

 少年たちが歩いてきた道とも呼べない獣道ではない。人が何度も往来してできた道だ。樹や草葉もその道を避ける様に生えていて歩きやすい。

 日が昇り始めると少女は差し掛け傘を開く。やはり花の香りがするそれは日の光を不自然なまでに完璧にさえぎって、少女の足元にぴたりと影を落とす。

 この傘にはある、と少女は再三思うが、自分たちをおびやかすものではないと、人の本能的な部分がひとりでに理解する。

 影が長く後ろに伸びている。

 手燭のも不要だと言って消して、静かな森を並んで歩きながら、少年は思案していた。

 これまでのこと。少女と出会ったこと、一緒に逃げ出したこと、倒れておばさんに助けられたこと。

 そして、これからのこと。

「ねえヒナタ、これからどうしたい?」

 唐突に少年が尋ねる。

「おばさんの薬を貰いに行くんでしょ」

「いや、その後さ」

 貰う、というのはいささか外を知らぬ少女らしい表現なのだが、考えてなかったなあといった様子の少女は少し立ち止まって考える。

 心に湧き上がってきたものがあったのだろう、それに笑みをこぼす。

「私はミヅキとずっと一緒にいられたら、それでいいかな」

 嚙みしめる様にその名を呼んで、髪を揺らしながら柔らかく笑う。「あっでも江戸には行ってみたいなあ」と思い出したように言う。加えられた言葉には今まで以上の何かが含まれているような気もするが、その直前の言葉の熱量には遠く及ばないのであろう。

 少年はその姿を見て返す言葉が一瞬、見つからなくなってしまう。

 ——これだ、この表情だ。この笑顔のためならば僕はなんだってできる気がするんだ。

 必死に言葉をかき集めて「うん、僕も一緒にいたい」

 なんて、ぎこちない返答をして。

 隣の少女は何も気にしていないのだろう、鼻歌などをかなでているが、少年は自分の吐き出した言葉を頭の中で反芻はんすうしてしまう。

 取りつくろう必要なんて無いのに。

 身体の芯が燃えるように熱くなり、走り出してしまいそうになっている。それを何とか抑えて、少女と歩幅を合わせて進んでいく。


 やがて影も短くなってきたころ、目の前に集落が見えてきた。

 二人が当初に目指していた集落だ。少年が聞いていた話と同じく小さな集落だ。

 道も勾配こうばいが緩やかになるにつれ、どんどんと広くなっていった。もともと子供二人がちょうど横に並べるほどだった幅も、集落に近づくにつれて三人、四人と広がり、鼻先に集落が来ると、荷車の車輪の跡もあった。

 小さな山の集落ということもあってか、外に出ている人は少ないが、井戸で水をんでいる人を見かけた。

「すみません、少しいいですか」

「ああ、なんだい。見ない顔だねえ。それに子供が二人でどうしたんだい」

 水の入った桶を地面に置いて、白いひげのおじいさんが答える。

「この集落に、がいるって聞いたんですけど」

「薬売り……?ああ、ヤスさんのことかい。それならね、向こうの方に居るよ」

 指先の向く方は集落のさらに東側だ。

「それにしてもなんで薬が必要かね。お前さんら見るからに健康そうだけどもね」

「あの、一人で暮らしてるおばさんから頼まれまして」

 一人暮らしのおばさんというのを聞いて思い当たる節があったようだ。先ほどまでの気のいい表情から一変する。

 影が落ちたような、そんな顔になる。

「ああ、あの人は不憫だね。男に出て行かれちゃってさ」

 ううんと唸るように腕を組んで、うなだれてしまう。元々曲がっていた腰もさらに曲がり、すっかり薄くなった髪が露呈する。

「ああ、引き留めて悪かった。のヤスさんなら、向こうの小屋に居るはずだ」

「ありがとうございます」

 二人はぺこりとお辞儀をして、村の東、ひいては反対側を目指してぼちぼち歩く。

 すると小屋と言うには怪しい、戸もなければ窓もない。一枚の壁と小さな屋根しかないような場所に一人の男がたたずんでいた。

 腰の巾着をちゃらちゃらと鳴らして遊んでいるようにも見えるその男が、ヤスなのだろうか。調子のよさそうな口笛を吹いている。

「すみません、あなたがヤスさんですか?」

「あい来た、おいらこそがのヤスだよ。犬の小便から将軍様の家宝まで、なあんでも売ってるよ。って覚えておくれ。おいらに用かい」

 痩せ細ってはいるが背丈はすらりと高い。二人よりも頭の一つや二つ、いや三つは上だろう。被り笠を脇に挟んでいる。顔も上下に長く、こけて頬骨が少し出ている。口元にはまばらにひげが見え、継ぎ接ぎの半纏はんてんを羽織って、腰に巾着を垂らしている。

「あの、薬を売ってほしいんですけど。一人暮らしのおばさんの使いで」

 一瞬、眉間にしわを寄せるが、思い出したのだろう、すぐに顔をころっと変える。

「ああ、あの人ね。あい分かった。ちょっと待ってな」

 ヤスは向こうに荷車があるからと言って駆けて行った。

 待っている間、二人はその屋根の下に座って休むことにした。「案外あっさり済んだわね」と少女が言う。相槌あいづちを打ちながら、このままなら日没くらいには戻れるかもしれない、と少年は期待をつのらせる。

 すると、およそ薬なんて持っていようものならば落としてしまいそうな速さで、ヤスが向こうから戻ってくるのが見える。

 息を切らして咳き込み、水を飲んで落ち着かせるといった、何とも慌ただしい様子である。

「あのお、申し上げにくいんですけども」

 調子の良さそうな雰囲気から一変して、ヤスは腰を低くする。

「薬、切らしてしまっていまして。仕入れに行かないといけないんですけども……」

 歯切れ悪くヤスが言うと、二人はそれは困ったと額に手を当ててしまう。

 いかんともしがたい状況だが、いかんともしなければならない状況でもあるからにして、打開せねばと少年はヤスに問う。

「それで、どこまで仕入れに行くんですか」

「それが、〝江戸〟でして」

 どのくらいの時間がかかるか確かめようとした少年だったが、思いもよらない場所の名前が出て来た。

「江戸!」

 困り顔の少女がぱあっと目を輝かせて反応する。危うく差し掛け傘を落としそうになるが、それを何とか持ちこたえる。

 間髪入れずに少女はヤスに畳みかける。

「ねえヤスさん、私たちも江戸について行ってもいい?私たち、江戸に行ってみたいの」

「それは構いませんが……」

 自分の在庫不足が原因なため、ヤスは何も言い返すことができない。

「僕からもおねがいします!」

 ヤスは少し間を開けて。

「わかりましたよ。それでは、先に準備してますんで」

 嬉しそうに跳ねまわる二人を尻目に、ヤスは荷車の方へ向かい、出発の準備をする。

 チッと舌打ちし、はあ、とため息を零す。

 江戸に仕入れに行かなければいけないのは本当だが、江戸へ行くと言ってそのままとんずらする予定だったのだ。

 しかし仕入れを誤った手前、断るわけにもいかなかった。いくら子供とはいえ、客は客。変な扱いをすれば信用そのものに関わってしまう。

 面倒なことになった。「子供二人のおもりなんて、ツキがねえ」と一人呟く。これも仕入れの悪い自分への天罰かと言い聞かせながら、トホホと肩を落とす。

 昼下がりも過ぎた、三つの時分。

 ヤスは荷車を引いて、二人はそのすぐ隣につく。

 三人は、江戸へ向けて出発した。

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