第二幕 第十二話「人と人を永遠に繋ぐもの」
少年たちがおばさんの家に来てから五日目の日。
この日も少年は日が昇ってはおばさんの手伝いをしていた。山菜を集めに行ったり、薪割りをしたり。
青松葉色の袴が、汗で染みて少し深い色に変わるくらいには、少年は身体を動かした。
おばさんから教わった山での生き方も、だいぶ板についてきたという具合だ。ただその小さな身体では扱いきれない部分も多く、半人前いうところだろう。
一方の少女も、疲れて帰ってきた少年に簡単な軽食などを振舞えるほどには、料理の腕が上がってきている。ただ一人で一からすべてを作ることはできず、おばさんの助けを必要とする部分は多い。
やはりこちらも半人前というところだろう。
指を切ることも少々。常人よりは傷の治りが早い少女でだが、水が沁みて痛いのは同じである。
けれどもそれは、日を追うごとに少なくなっていた。
「おお、なかなかいい出来じゃないか」
少女の作った味噌汁を味見して言う。
「えへへ、おばさんのおかげだよ」
味噌汁の茶碗の周りには、正月でも見ないほどの豪勢な料理が並んでいる。二人で一緒に作ったのだろうか。だとしても作りすぎである。ゆうに五人前はあるだろう。
「初めて一人で作れた味噌汁にしては上出来さ。うん、味噌の配分も、具材も良い」
少女の髪をわしゃわしゃと撫でる。
味見とはいうものの、その美味しさのあまりすべて平らげてしまおうというおばさんであったが、少女はそれを傍で見ながら何かを思案する顔をして、どこか心ここにあらずといった様子でもじもじとしている。
「どうしたんだい?」
ここは褒められて喜ぶところだろうと、見かねたおばさんが声をかける。
「ねえ、おばさん。この手紙って」
ずっと後ろに回していた手を前に出すと、手紙が一つ握られている。白かったのだろう紙もほのかに茶に染まっていて、随分と年季の入った見た目である。
押し入れの戸の隙間に挟まっていたのだという。
まだ中身は見ていないのだろう、しっかりと閉じられたままである。
しかしその手紙は古ぼけているものの不自然なまでに綺麗なため、ただの手紙でないことくらいは、開けずとも分かってしまう。
「ああこれかい……」
コト、と茶碗を置く。中に入った味噌汁がわずかにさざ波を立てる。
一見に
少女の持っている手紙もこの中の一枚だったのだろう。
「これはねえ、あたしが書いた手紙だよ」
少女の持つ手紙を目を細めて見る。
「誰に宛てて書いたの?」
「息子さ」
ああ、と言うように口を軽く開いて、おばさんはそろりと自身の寝室の方へ行く。
やがて向こうから戻ってくるのが見えるが、その手には少女の見つけた手紙のほかに、これまた一段と年季のある手紙がもう一枚握られている。
それは、と少女が聞くよりも早く。
「これは息子からの手紙さ」
大事に握られたその手紙は、所々に和紙で補修された跡が残っていて、
手紙の中を見ようと開ける。折れ目は深い。
「あの子が元服の時に送ってきてくれたんだよ。〝届いているかどうかも分かりませんが〟なんて書いてあってねえ。ただまあ、それっきりだねえ」
おばさんの目が潤み、声も少し震えている気がする。
表情は柔らかいのだが、力が入っていない様子である。より一層頬が下に垂れて、言葉が紡がれるのをわずかに阻んでいる。
「でも、それでいいんだよ。この一通の手紙が、あたしとあの子を繋いでるんだ」
「それって、どういうこと?」
そうだねえ、とおばさんは少女の持っている手紙を受け取り、崩さないようにそっと取り出す。中を開いて読んでみるとおばさんから笑みがこぼれる。
「ああ、こんなこともあったねえ。ほらこれ読んでごらんよ。手紙と言っては名ばかりで、日記みたいなものなんだけどねえ」
——あなたの五歳の誕生日。そう、あれは雨の日でした。あなたは泥にまみれて帰ってきたんですよ。何をしてきたのと聞いたら、泥にまみれてきたの、なんて開き直って言っちゃって。膝を擦りむいていたので、転んで汚れたのでしょうが、それを隠したかったのでしょう。みんなで大笑いしたのを覚えています。でもいいんですよ、男の子ですから。見栄を張ることも、時には大切です。それでも、今度はきれいな姿で帰ってきて、一緒に笑い合いましょうね。
手紙だからなのだろう妙に丁寧に
おばさんは手紙とというよりは日記に近いと言っていたが、実際の所は備忘録のようなものに近いのかもしれない。
「今では、あの子の顔も声もはっきりとは思い出せない。ああだったかなあ、こうだったかなあって思うんだけど、もう長いからねえ。それに、知らずに忘れていることもたくさんあるのよ。だけど、この手紙を見れば思い出せる。この手紙だけは、あたしとあの子を永遠に親子でいさせてくれるのよ。」
手紙はそっと少女に返し、また我が子からの手紙を両手で愛おしそうに持つ。
「それにこの手紙を見るとね、あの子がちゃんとここに居たってことを確かめられるんだよ。あたしはあの子の母で、あの子はあたしの子。その
手紙と自身の子を重ねているのだろうか、そっと優しく抱きしめるような形になる。
瞳からほろりと垂れる泪が袖の上に落ちるのを見て、手紙にかからないようにしていたことだったのだと、少女は気が付く。
こういう時は一般にあまり深く入り込みすぎてはいけないのだろう。しかしこの少女はその経験の無さゆえか、依然として自分を抑える
「手紙、送ろうとは思わなかったの?」
こんなに書いたのなら送ればいいじゃないか、と単純な疑問だった。
「そうだねえ、ここを見てごらん」
自身の書いた手紙の宛名のところを見せる。
「これがあの子の名前。あの子ももう三〇になる頃だろうねえ。今じゃきっと他の名前を名乗っているだろうからねえ。私の知っているトモノリって名前で手紙を出しても、届くことはなかったのさ」
それに、と付け加えて「江戸に居るかどうかも分からないしねえ」と呟く。
少女は
顔もしっかりとは思い出せない。今どこでどのような暮らしをしているかもわからない。ましてや名前すらも分からない人のことを、こんなにも大切に思えるものなのか。長い年月の間会っていなくても、こんなにも想いを馳せることができるのか。
なんで、そこまで想い続けることができるのか。
と少女は不思議に始まり、気が付いた時には心の声が漏れていた。誰に聞こえるかも分からないほどの小さな声で。
「なんで……」
「そりゃあ、愛、だろうねえ」
きっとおばさんは「なんで送れないと知りながら手紙を書いているのか」という問いだと思っての答えなのだろう。
意図せず嚙み合わない会話となってしまったのだがしかし。
少女の不思議に思う心を晴らすには十分だった。
「愛……」
それは少女の知らない言葉ではあったが、その感情は知っていると、どこかすとんと落ちるような気がした。
愛など受けることはなかったのにと、親なんていないのにと、なぜ知っているなどと思えたのかと、返って虚脱してしまいそうな少女なのだが。
愛、と言ったおばさんの瞳だ。淀みなくただ一つだけを真っすぐに見つめる瞳だ。熱が伝わってこちらまで熱くなってしまうような瞳だ。
これを知っているはずだ、と記憶を漁る。
——あ、ミヅキの瞳だ。
それはあの少年の瞳であった。
少女が運命に錯乱し、少年が
私もその瞳をもっと知りたいと強く願って、おばさんの手をぎゅっと握る。
「私たち、いつか江戸に行こうと思っているんです。その時、もしトモノリさんを見つけたらこの手紙、渡します」
まだ愛の形を完全には知りえない、だが真っすぐな瞳だ。その視線がおばさんの瞳を貫いている。
「ああ、そりゃあいいねえ。きっとあの子に届けておくれ。それでもしあの子に会えたら、いつでも帰っておいでって、伝えておくれ」
「うん、きっと伝えるよ」
「ありがとうねえ」
握られていた少女の手をそっとほどいて抱きしめる。大きな温もりが伝わる。ほんのり線香の香りがする。
「ああ、そろそろ料理が冷めちまうよ。あの子を呼んできておくれ」
鼻をすすって、ガラガラと
「はあい」
少女は玄関先の、日に当たらないぎりぎりまで行って。
「ミヅキ!」
いつか変わってしまうかもしれないこの名前を、今はただ呼んでいたいと。
自分の名前も、たくさん呼んでほしいなというのは、願いすぎかなとも思って。
「ごはん、できたよ!」
少女の名を呼ぶ少年の声が、冬の山にこだましては風に吹かれて消えていく。
いつまでもこの時が続けばいいのに、という少女の背丈には大きすぎる願いを乗せて、冬毛で膨らんだ
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