第二幕 第十一話「雪解けの温もりは繭の中で」

 またも少年は一人目を覚ました。

 締め切られた窓では漏れた光しか入ってこないが、その薄くしらんだ光に朝の訪れを知る。

 小鳥のかわいらしいさえずりが冬の山にこだましている。

 嵐一過といった具合の空ははたまた嵐の前の静けさか、雲一つ浮かんでいない快晴だ。

 背を起こして横を見ると、少女が穏やかな寝息を立てている。

 音が出ないようにそっとふすまを開け、そのまま下駄を履いて外に出る。

 冷たい風が吹いて少年の肌に刺さる。一心不乱であったために気付かなかったのだろう、今になって冬の山の寒さに肩を震わし、身体を小さく丸める。

 ちょうどいいくらいの大きな石を見つけて腰掛けると、尻に感じる冷たさが背筋まで昇ってくる。

 さてこれからどうしようかと少年は思案する。

 少女にとって初めての外の世界。しかし実際のところは、少年自身もこの付近のことを知っている訳ではないのである。

 ——ヒナタを守れるようにしておかないと。

 風が吹いてさらに寒くなる。

 少年はかじかんだ手を太ももに擦らせるようにすると、白い息を吹きかける。いくらかは慰め程度に潤った手は、脇の間に挟まれる。

 後ろからツカツカと足音がする。

「それじゃあ身体が冷えちまうよ。ほら」

 背中越しに言われて半纏はんてんを受け取る。それを羽織はおるとこもっていたぬくもりが伝わってあたたかい。

 ずっと温めてくれていたのだろうか。

「ありがとう」

「いいもんだねえ、感謝されるってのも」

 おばさんは照れくさそうに笑う。

「あの子が心配かい」

 少年の小難しそうにしている顔を見て言う。「あたしはあんたの方がよっぽど心配だよ」というのは喉の奥に飲み込んだ。

 そこまで言うのはどこか違っている気がした。

 うなずく少年の頭にぽんと手を置く。

「そうだねえ、今日はここらの山の〝歩き方〟ってのを教えてあげるよ。そうだねえ、あの娘が起きたら行こうか」

 少年はハッと目を見開き、またすぐに細い目をする。

 その表情の変化を見られないようにと、半纏はんてんを肩から上にずいっと上げる。

「ヒナタは……肌が弱くて、あまり日に当たれないんだ」

 歯切れの悪い少年何かを察するも、それには目をつむって何も気付かないふりをする。

 歳を取ると必要以上にちまう、と。

「そうかい。それじゃああの娘にはお留守番を頼もうかねえ」

 支度したくするよ、とおばさんは家の中へ戻っていく。しもが降りた地面を踏んでザクザクと音を鳴らす。

 おばさんが歩いていくのを目で追うと、いつの間に起きていた少女が玄関先にいるのが見える。布団にくるまったまま、顔だけを出す形になっている。丸々とした輪郭に、なんとも愛くるしい印象を受ける。

「どこか行くの?」

「ちょっとばかりこの子に、あたしを手伝ってもらおうと思ってねえ。なあに、昼下がりくらいには帰ってくるさ。お留守番、任せたよ」

「はあい」

 あくびが混ざったような返事である。

 少女は少年の瞳を見つめると、あどけなく微笑ほほえむ。

「行ってらっしゃい、ミヅキ」

「うん、行ってきます」



 一人で残ることとなった少女だが、もう心細いなどと思うことはない。あの少年が必ず帰ってくることを知っているからだ。

 それならば。

「帰ってきたときに温まれるように昨日のお味噌汁、作っておこうっと」

 一緒に手伝いながら見たおばさんの手つきを思い出し、記憶と自分の手を重ねて真似まねる。

 おばさんは石で火をつけていたが、何度試してもこれができない。

 仕方がないので自分の髪の先を少し切ってそれで火をつける。

 すっかり短くなってしまったなあと、肩にかからないくらいの髪に触れて思う。少し寂しい気もするが、邪魔が無くなったと思えば、それはそれで良い気分になるのであった。

 なにせ少年を救うためであったのだ。少女としても本望ほんもうである。

 湯を沸かして出汁だし袋を入れる。

 つたない手つきで大根を細かく切ろうとするが、大小様々な物が出来上がる。中には歯ごたえの物凄いものもある。

 それを見て包丁を使うのは諦めたのか、豆腐は手で小さく握りつぶす。ネギは昨日切った余りがあったのでそれを使うことにする。

 すべて入れ終わったら、次は味噌だ。

 昨日はという即席用の、味噌を丸めたものをおばさんは使っていたのだが、どこにあるかが分からない。

 幸い、味噌なるものは見つかったのでそれを使うことにする。

 だいたい指の輪っかくらいの大きさだったかなあと言って湯に溶かしていく。

 しだいに湯に色がついて、美味しそうな香りも立ち込んできた。

 ここだと思ったところで火を小さくする。自分の火であるためにできる芸当である。いつからできる様になっていたのかは、少女自身にも分からない。なぜ呼吸ができるのかと聞かれているのと同じようなものなのだろう。少女とこの火の力はそれほどまでに、切っても切り離せないものなのである。

 湯気が当たって、冬の空気で乾いていた肌を潤していく。

 胸いっぱいに香りを吸い込むと、昨日食べた味噌汁の味が、舌の上に再現されるかのようである。

 少しすくって味見をする。

「しょっぱい……」

 どうやら味噌の配分を間違えていたようだ。

 手際の悪さに、ここまでで大分時間を使ってしまった。早くしなければ少年たちが帰ってきてしまう。

 慌ててやり直そうとするが、一度作ってしまった味噌汁はどうしようかと、さあ困った少女は頭を抱えてしまう。

 玄関の戸の先にできる影は短くなっている。日もずっと高くなっているようだ。



 山の澄んだ空気が胸を満たしていく。

 すっかり葉の落ちきった木々が立ち並び、日の光はさえぎられることなく地上に降り注がれている。

 落ち葉はまだ少し湿っている。

「ほら、滑らないように気を付けな」

 先を行くおばさんが、少年の手を掴んで引き上げる。

「乾いた枝を探しておくれ。それをまきにするんだよ」

 ほら、と手に持った枝を見せる。一尺くらいの長さのそれを背負った竹のかごに入れる。

 少年の足に何かが当たる。ちょうどてのひらに収まるくらいの大きさのそれを拾ってみると、空からに乾いている。

 枝ではないようだが、念の為と言っておばさんを呼んで見せる。

「これはどう?」

「おや松ぼくりかい。ああそれも使えるよ」

 自然の着火剤と名高いそれを、少年が同じように背負しょに放って入れると、中から乾いた音がする。

「山菜なんかも、あるといいねえ」

「どんなものがいいの?」

 そうだねえと言ってかがませていた腰を起こす。

「七草って知ってるかい。おかゆにして食べるんだよ。まだ時期としては少し早いけどねえ」

「ううん」

 遠くを眺めるように目を細め、少年の肩に手を軽く置く。

「〝せり、なずな、御形ごぎょう、はこべら、仏座ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草〟なんて言ってね、あたしがあんたぐらいの時には歌って覚えたもんだよ」

 我が子を見るような、慈愛に満ちた瞳で少年を見る。

「お、ちょうどいいねえ。ほらこれがなずなだよ」

 少年の鼻の先までもっていって見せる。残った土の匂いがツンと鼻に付く。

 冬の間は地面に平たく張り付いて春先に白い花を咲かせるのだと、実の形が三味線のバチに似ていることから、三味線草とも呼ばれるのだとおばさんは言う。

 なずなの若菜も「帰ったらおひたしにしよう」と背負しょに入れる。

 二人は七草の歌の鼻歌まじりに集めていく。

 背中の籠がだんだんと重くなっていく内に少年は、冬の山だというのに身体が芯から温まっているのを感じる。

 厚着をしているために服の中に熱がこもって蒸されているようである。服の隙間から漏れ出る空気が生暖かく、額に汗で玉ができる。

「暑くなってきただろう。でもそれを一番気を付けなくちゃいけないんだよ」

「それってどういうこと?」

 あごつたって垂れる汗を手で拭う。

 寒い冬の山で温かくなることは良いことではないのか、と少年は疑問に思う。

「夜は一段と冷えるからねえ。その熱が返って悪さしちまうんだよ」

 言われて初めて気付く。少年はその寒さを嫌という程に知っていた。

 日中は足が動かなくなるまで歩き、そのせいで身体は温まり、汗も出る。それが夜になるとさらに冷え込んで、手足の先端の感覚が無くなるような中、冷たい風が鋭く肌に突き刺さるあの空気感。

 隣に少女がいなければとっくに野垂れていたのだろうと思う。

 と、言うよりも少女の火が無ければとうに絶え果てていただろうと思う。かろうじて保ってはいたものの、しかし結局は倒れてしまった。

 おばさんの見透かすようなその瞳に、気持ち一つでは大切なものを失ってしまうよ、と言われている気もした。

 少し引き締まった少年の顔を見てか、そろそろ帰ろうか、とおばさんが言う。

 〝歩き方〟というのは背中で教えるものなのだろうか。少年にはおばさんの曲がった背中がとても大きく見える。

 籠に詰まった重さをしっかりと感じて、来た道を戻る。

 地に落ちる影は短く、太陽は南の空高くで悠々と照っている。



「ただいまー」

 背負い籠をどさっと玄関先に降ろす。裾には泥が跳ねてできた汚れが見える。

 一歩中に入ればあたたかい空気で包まれ、、外とは隔絶された空間であることが身に染みて分かる。

「あ、おかえりぃ……」

 少女は奥の台所から顔だけを出している。

「あら、なんだかいい匂いがするねえ」

 少女のいる方から漂う香りに釣られるようにおばさんが寄っていく。

「おや、味噌汁かい!助かるねえ」

「うん、でもちょっと失敗しちゃって」

 どれどれ、と掬って味見をする。

「お味噌、入れすぎちゃったんだねえ」

 うなだれる少女を慰めるように頭に手をぽんとする。味云々うんぬんよりも、作ってくれたことそれ自体が嬉しいと言わんばかりに。

 隣で湯気を立てている米が見える。ふっくらと粒が立ち、みずみずしく艶が光っている。

 炊き立てだ。「なんだ、米はしっかり炊けているじゃないか」とまた頭を撫でる。そんなに自分を卑下ひげするんじゃないよ、と。

 それはそれとして。

「ねこまんまにして食べようか」

 優しく笑っておばさんが言う。

 少し大きめの茶碗に米を盛って、その上から味噌汁をかける。

 ネギ、豆腐、薄切りの大根。味噌汁の具が米の上に乗る。米も味噌汁を吸って膨らみ、少し色が付いているように見える。

 上目遣いの少女は何かを言いたそうにしているが、口をもごもごと動かしているだけだ。

「塩気が効いてきっと美味しいよ」

 食べてみなと言わんばかりに少女の顔の前に差し出す。

 一口食べると、味噌の風味が米に合わさって美味しい。米に乗った具も食感として機能している。

 失敗した味噌汁さえ美味しく変えられるなんて、となかば感動すると同時に、一人でも美味しく作れたらな、と思う。

「料理、教えてくれる?」

「ああ、いいともさ。まあ、明日からにしようかねえ」

 香りに釣られたか、少年も台所に入ってこようとする。

「あ、ミヅキはまだダメ!」

「ええ、なんでさー」

「なんでも!」

 しょんぼりと肩を落として背を向ける少年に、少女は申し訳なさが生まれるが。

 ——せっかくなら美味しい料理、食べてほしいからさ。もうちょっと待っててよ。

「こりゃあ、あたしも頑張って教えないとねえ」

 少女の顔に、淡いしゅの色が浮かぶ。

 湯気のせいにでもしておこうか。

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