第二幕 第十話「留まる者」

 少年が目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。少年が元々住み込んでいた寝床でもなければ、あの窓の無い小屋でもない。

 背中が柔らかいものに包まれてあたたかい。どうやら丁寧に敷かれた布団の上に寝かされていたようだ。

 だんだんとおぼろげな感覚もはっきりとしてくると、左の手からひと際熱を感じる。その正体を確かめようと顔を横に向けると、少女が手を握ったまま壁に肩を預けて眠っている。

 ただその少女に違和感を覚えるのだが、覚め切らない思考では思い至ることはできない。

「ぅぅん。あ、ミヅキ、おはよう」

 今しがた少女も起きたようで、目を擦りながら柔らかくはにかんで言う。

 少女は少しだけ強く少年の手を握る。

「おばさーん。起きたよ!」

 ふすまが乾いた音を立てて開くと、向こうからふくよかな輪郭をした、おばさんと呼ばれた女性が入ってくる。

 ハリの無い肌で頬はやや垂れ下がり、目元や口元にしわが目立つ。

「おお、起きたかい。よく眠ってたねえ」

 おばさんは少年の額や首元に手を当てる。

「うん、熱の方は大丈夫そうだねえ。起きられるかい?ゆっくりでいいからねえ。よし、もう少ししたらあたしのところにおいで」

 そう言ってまた襖の向こうに消えていく。消えていった方からは美味しそうな香りが漂ってくる。

「私おばさんのこと手伝ってくるね。ミヅキも動けるようになったらこっちに来てね。きっと元気になるよ」

 おばさんに続いて少女も襖の奥に消えていく。

 少女が立ち去った後には、松葉色の袴がきれいに畳んで置いてある。道中跳ねた泥で汚れていたはずだが、それは跡形もなく青々とした色に戻っている。

 そういえばさっきの少女の緋袴もきれいになっていたなと思い返す。

 きっとあのおばさんに助けられたのだろう。いまだぼやけたままの頭で思う。

 い草の香りに混ざった少女の髪の残り香が、少年を包むように広がる。

 冬の冷たい雨も風も、少女にとっては忌々しい太陽の光もここには届かない。




「ほら、あったかいうちに食べておくれ、そんなに大層なもんじゃないけどねえ」

 色の抜けた木のはこぜんの上に料理が乗っている。茶碗の中の玄米は炊きたてなのだろう、粒のそれぞれが立っていて少し湯気が立ちのぼっている。その隣には揚げ出しの大根だ。半分に切られて素揚げされ、うっすらと黄金色こがねいろになっている。染み出た汁と上に乗った大根おろしに挟まれてより一層食欲をそそる。味噌汁もネギが浮いていて香りが立っている。

 いつぶりの食事だろうという少年は犬のようにかぶりつく。喉に詰まらせることもお構いなしだ。

 一方でこれもやはり初めて見るものなのだろう少女は、箸でつついてから、少し取って口に運んでは頬をほころばせる。

「いやあ、それにしても見つけたときはびっくりしたよ」

 おばさんが箸を止めて言う。

「朝方に山の上の方で煙が立ち上っていたからねえ、山火事かとも初めは思ったけどもあの雨じゃあ火事にはならないからね。誰かの狼煙のろしだってすぐにわかったよ」

 少女は当時の事を思い返すかのように斜め上を見て、髪を指で摘まむように触れる。

 その仕草を見て、少年はようやく違和感の正体に気が付く。。

 ——髪だ。

 少女のあの腰の下までかかろうかという長くつやのある黒髪はどこへやら、今は肩に触れるか触れないかのところまで短くなってしまっている。

 ああ、十中八九その狼煙は少女の火の力だ。狼煙を上げるために大量の髪を切って燃やし、煙を上らせて助けを呼んだのだ。

 それで少女の髪は短くなっていたのである。

「その狼煙の出元に行ってみたら倒れてるあんたと、横で泣いているその子が居たのよ。あれは酷い状態だったよ。なんでか髪の毛が散らばっていて、あんたは高熱で、雨も降っててさあ」

「助けてくれて、ありがとうございます」

「いいんだよ、まあ、困ったときはお互い様さね。先の長い小さな子供が二人して山で死んじまうなんて、そんなのあっちゃあいけないからねえ」

 二人の食べる様子を皺の多い手で頬杖をつきながら見ている。その視線はどこか少年たちの裏に何かを重ねているようにも見える。

「どうだい、美味うまいかい」

「うん……美味しいです」

「そうかい、そりゃあよかった」

 おばさんの温かさが味にしみて美味い。



「「ごちそうさまでした」」

「はあい、お粗末様でした」

 さほど時間もかからずに平らげる二人の様子を見ておばさんは目を細め、その目尻には皺が重なっている。

 おばさんが箱膳を持っていこうとしたところで、「私にやらせて」と少女がそれを流しへ持っていく。

「助かるねえ」

「いいの。助けてもらったんだし、任せて!」

 戻ってきながらにこやかに言う。袖は肘の上くらいまでまくられている。

 もう一度戻ってきてまた向こうへ持っていく。箱膳をすべて運び終えると、向こうからかすかに水の音が聞こえてくる。

 薄く水を張ってそこにつけて洗う。跳ねる水すらもったいないというような、丁寧な手つきの少女である。

「冬の山に子供が二人」

 不意におばさんが呟く。独り言のようにも聞こえたが、確かに少年だけに聞こえるように言っていることが声色からわかる。

「何か、事情があるんだろう。いやあ、余計なことはしないよ。ただね……」

 水音の鳴る方をチラと見る。

「お互いに一人にならないこと。これだけは覚えといておくれ」

 、というよりはの方がその内実は近いのだろう。

「あのヒナタって娘はね、あんたのことがすっごく大事なんだろうねえ。あんたが寝てる間、少しも傍を離れなかったんだだよ。それに髪の毛をあんなに散らしてまであんたを守ろうとしてたんだ。あんたを大事に思うあまりってことだろうけどねえ——次こんなことがあったら、散らしちまうのは、髪だけじゃ済まないかもしれないよ」

 おばさんの口調がだんだんと速くなっていく。

「ミヅキって言ったかい。あんたも大概だよ。三日三晩何も食わなかったそうだね。あの娘のためなんだろうけど、それで自分が先に倒れちゃ本末転倒じゃないか」

 などと言う彼女自身も二人のことを思うあまりか、したくもない説教をしてしまっている。

 何か言いたそうに口をパクパクと動かしていたが、はあ、と一つ零すとそれも止まる。

「悪いねえ、こんなつもりじゃなかったんだけど。あたしも歳だねえ」

 しわがれた声だ。それは満たされることのない飢えを孕んでいるようだ。

「ありがとうおばさん、肝に銘じておくよ」

 おばさんの瞳がほんの少し潤んだ気もするが、少年は見なかったことにする。

「僕たち、このあたりの集落を目指してきたんですけど、何か知りませんか」

「ああ、あそこならもう一つ山を越した先にあるよ」

 袖で鼻をすすりながら答える。

「おばさんは、ここに一人で住んでるんですか?」

「ああ、そうだねえ……。昔は夫と息子と住んでたんだけどねえ。ちょうどあの子がいまのあんたと同じくらいの時だったかねえ。夫が江戸に出張だって言って、息子にも見せたやりたいなんて言って、それで連れて行ったきり帰ってこないのよ」

 窓の外を見る彼女は遠い目をしている。

「あの男のことはいいんだ。江戸で女でもひっかけたんだろうからねえ」

 記憶の中の息子と、目の前の少年を重ねる様に見つめる。

「でも、もしあの子が帰ってくるってなった時、帰る家が無くなってたら困るだろう?だからあたしはここに住んでいるのさ。これまでも、これからもずっとねえ」

 壁に手をやって柔らかい手つきでさする。

 水を打ったような静けさの中、風に揺られて擦れ合う木の葉の音だけがかすかに聞こえている。

 ふと、柱の向こうからカサと小さい音がする。思えばいつの間にやら流しの水音は止んでいた。

「なんだ、あんたも聞いてたのかい」

「ごめんなさい。隠れて聞いちゃって」

 柱の横からひょいと顔を出す少女。

「いやいや、いいんだよ。あたしこそしんみりさせちゃって悪いねえ」

 小さな歩幅で歩いてくると、ずいと寄って少年の隣に座る。

 するとどこか焦れったさに耐えられないといった様子で少女が口を開く。

「おばさんは、他のところに行ったことはないの」

「そうだねえ、このあたりの山の景色以外は見たことがないねえ」

「他の景色を見たいって、思ったことはないの」

 続けざまに聞く少女に対し、おばさんはまた追慕するように瞳を閉じる。

 彼女はもう、まぶたを閉じることでしか我が子の姿を見ることができないのだろう。

「あたしも若いときは、それこそあの子が生まれる前はそう思ったこともあるかもしれないねえ。けど、あの子が帰ってきたらたくさんの土産話が聞けるだろう。あたしはそれが楽しみなのよ」

 少し開いた窓から見える青い空に、山吹色に染まった雲が浮いている。窓の枠が額縁の役割を果たして、移りゆく一枚絵となっている。


 やがて日も沈み、木々の隙間からは星月の光が漏れている。

「あんた、すぐにでも行っちまおうって気だねえ」

 背を向ける少年に声をかける。

 松葉色の袴を穿き、手には手燭を持っている。

 まだそれに灯はついていない。今から少女の元へ行こうというところだったのだろう。

「遠くへ行かないといけないんです」

 振り返って答えると、少年の先を急ぐ顔が夜の闇に浮かび上がる。

「それなら尚更だ。疲れが残ってたら歩ける道も歩けなくなるよ。少しの間ここで休んでいきな。三日、いや四日くらいかねえ。きっと元気いっぱいに回復できるよ」

 その声色は、少年たちを思うやさしさと幾分かの寂しさが混ざり合っている。

「それとも、またあの子を一人にする気かい」

 その言葉が少年の胸にするすると滑り込んでいく。「自分が先に倒れちゃ本末転倒じゃないか」さっきのおばさんの言葉が胸の内で逆巻く。

 生き延びることが一番の目的だろうと、言われている気がした。

「すみません、お世話になります」

「いいんだよ、ほら今日はもう寝な」

 成長した息子が帰ってきたときのためにとっておいたのだろう、大きい布団を一つ空いた部屋に敷く。ちょうど子供が二人並んで寝られるくらいの大きさだ。

「ほら、あんたも」

 外で星を見ていた少女を呼ぶ。

「今日はおやすみ。また明日ね」

 二人を布団に寝かせて襖を閉めると、ほどなくして寝息が重なって聞こえてくる。


 ずるいな、と心の中で思う。を言われてしまったら少年はそうせざるを得なくなる。

「あたしも歳だねえ」

 先の短い分少しでも一緒に居たいって、と重ねちまってる。これはあたしのわがままさ、と。

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