第二幕 第十五話「辻を往く」
すっかり日も落ちてあたりも暗くなったころ、依然として三人は歩き続けていた。
月が雲に隠れてしまって見通しの悪い中、少年の手燭の
「もう少し行ったところに
歩き疲れた足で夜道を行くのは怖い。視界も悪いために、どこかで足を引っ掻けてしまうかもしれない。
それに、「
憂さ晴らしに強盗、刀の試し斬りや腕試しとまで。理由は様々あれど、毎夜辻斬りによって、どこかの誰かが道端で突然命を落としている。これほど恐ろしいものは無い。
ましてヤスが引く重そうな荷車。これは辻斬りの格好の餌になってしまうだろう。
今日のところは旅籠屋に泊まって、また明日歩けばいい、ということだ。何度も江戸を行き来しているヤスが言うには、明日には江戸に着くことができるそうだ。
すると前の遠くの方に、一つの
最初は物売りかとも思ったが、どうやらそうではない。あっちへふらふら、こっちへふらふらと、まるで何かを探しているかのようである。
何か嫌な予感がしたヤスは立ち止まり、少女から提灯を渡すように言う。少年の手燭も消させ、二人を荷台のすぐ後ろに隠れさせる。
さらに灯が揺れながら来ると、やがてその灯の主は人であることが分かった。
かすかに照らし出されたその男の腰元を見たところ、刀は無い。どうやら「辻斬り」ではないようで、ヤスはホッと息をつくのだが。
白の上衣に白紋のある紫の袴。
辻斬りよりもずっと恐ろしいものに出くわしてしまった。
少女はその姿を見ると口を押さえて音の出ないようにかがみこむ。どうやらあの太陽の神を
少女は身体を震わし、顔には恐怖が滲み出ている。ヤスはそれを背中で感じ取ると、ツンとした表情になってその神主を迎える用意をする。
何事もなくすれ違うことができればよいのだが、どうやらこちらへ向かってきているようだ。
「その
神主の男は挨拶もなしに聞く。
——二人組の子供ッ⁉きっとお二方の事だ。
ヤスの予感は確信へと変わる。二人を守らなければ、とヤスに緊張が走る。
しかしここは穏便に、商人らしくいこう、と。
「おいらはなんでも売りのヤスだよ。情報も売り物さ。どうする、今ならお安くするよ」
「ふん、さしずめ金だけ払わせて関係のない、下世話な噂話などをするだけだ。そんないんちきに引っかかるわけないだろう。もうよい」
ヤスはチェッと舌打ちをするが、内心で胸を撫でおろす。
しかし神主が歩き出そうという所で、二人の子供の頭が目に映ってしまう。
「おい、ところでその荷車の後ろにいる子供はなんだ」
暗闇が幸いして袴の色は見られていないため、まだ逃げ出した少女だとは気づかれていない。
「なぜ言わなかった」
「へえ、こいつらも売り物でして。くれぐれも手出しはしないでくだせえ」
「なんでも売りとは言ったが、
ヤスはその剣幕に怯えて目を瞑ってしまうが、ぐっと歯を食いしばる。
ここで間を開けてはダメだ。さも当たり前かのようにしなければ。
「こいつらはもう江戸の得意様に買い手が決まっているのさ。だから縛ってないんだ」
「ほう、買い手とは誰だ。縛らずして逃げ出したら、その得意様もいい迷惑だろう」
「それは……、こいつらを、江戸の吉原に連れていくって言えば、あんたも男なら分かるだろう。傷つけちまったら返って値が下がる。それに、こいつらは親が分散しちまって帰る場所がねえんだ。どこにも逃げ出しやしないよ」
そうまくしたてるヤスの拍動は、痛みを覚えるほどに激しくなっていた。神主から浴びせられる鋭い視線も相まって、逃げ出してしまいそうなところを精一杯踏みとどまり、心ひとつで立っていた。
辻斬りよりも恐ろしい目つきに、ヤスはまるで心が斬られているようにすら感じる。「早く行ってくれ」、その一心だった。
「そうか、それは失礼。しかし
「はは、どうも」
神主が歩き出すと、ヤスは乾ききった喉を潤すように水を飲む。
しかしまたもや神主は戻ってくるようである。
「おい、お前。なんでも売りと言ったな。では、団子を一本いただきたい」
ヤスは口に含んだ水を噴き出してしまう。
「へ、へい。ただいま……」
荷車から団子を一串取り出す。
ヤスの話にもあった、一串三つで三文の団子である。
「——六文になります」
「うむ、少し高いな。まあよい」
懐に手を入れ、ちゃりんと音を鳴らして金を渡す。
「ええ、どうもまいどあり」
「ではな」
神主の姿が見えなくなると、ヤスは糸が切れたようにその場にへたり込んだ。震える手で水を飲む。
二人も恐る恐る立ち上がる。少女の足はまだ少し震えている。
「ヤスさん、本当に助かったよ」
少年が言う。
「ええ、何か嫌な予感がしまして、姐さんもあの様子だったので。お二方のためならば、これしきなんてことはないですよ」
数年は寿命が縮んでいそうな表情を浮かばせながら、ヤスは黄色い歯を見せて笑う。
「ヒナタ、大丈夫?」
「う、うん」
なぜ今まで忘れていたのだろう、と少女は思うとともに、ひとまず過ぎ去った危機に安堵の息を零す。
さて、改めて一行の三人は、ヤスの言う
江戸への期待と、一抹の不安を胸にして。
日が昇ってからまもなくして、三人は旅籠屋を
安い
ともあれ道の景色にもさほど変わりはない。
少女はいつも通りに差し掛け傘をさしている。やはり不思議なものである。日差しは前から来ているため、影は後ろに伸びていくはずなのだが、その傘が包み込んで守っているかのように、少女を影の中にすっぽりと収めている。
旅籠屋でいくらか
少年も荷車を後ろから押すようにして、江戸へのはやる気持ちを足に乗せる。
乾いた風が少女の髪を揺らす。揺れた髪の先端が、肩に触れるか触れないかのところで遊んでいるが、その様子は傘の陰に隠れて少年たちには見えない。
道端の草葉の上に乗った
江戸へ向かう一行を出迎えるように、東の空に太陽が浮かんでいる。
良く晴れた冬の朝。旅日和とはまさにこのことだ。
道なりに歩いていくと、しだいにすれ違う人の数も増えてきた。
子連れのふくよかな女や、腕を絡ませ合って歩くうら若い男女など、豊富な役ぞろえだ。着実に江戸に近づいている証だろう。活気にあふれた人々で道もにぎやかだ。
とはいえやはり景色自体はあまり変わりなく、道を挟むように田畑が並び、川が流れているといった、のどかな風景の連続であった。
ただ、ヤスは何かを見つけたのだろう、いち早くと二人を呼ぶ。
「お二方、見てくだせえ!」
ヤスは荷車を道の脇に止めると、前方に見える坂の上の方を指さした。
少年は被り笠を少し上げ、少女は日に当たらない程度に傘を傾ける。
すると遠くの方で建物が連なっている。目を凝らしてよく見ると、縦横無尽にどこまでも繋がっていて、その端は分からないほどだ。
「あれが、江戸です」
「端が見えない……!すごいよ、こんな場所があるなんて!」
山の中で孤独に暮らしていた少女はついに、人の成した町、江戸に辿り着く。
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