第14話 出立

 外を遊び歩いていた梨玉の弟も帰ってきたため、夕餉の席はたいそう賑やかなものとなった。その話題は主に雪蓮のことに関する。どこで出会ったのか、どんな話をしているのか、どうやって口説き落としたのか、落とされたのか――根掘り葉掘り聞かれる羽目となった。


 さらに雪蓮が府試に合格した童生だと判明するや、騒ぎは収まりがつかなくなってしまった。末は内閣大学士ないかくだいがくし(宰相)だ何だと囃し立てられるのはまだいいが、深々頭を下げて「梨玉のことをお頼み申し上げます」などと言われてしまったら閉口するしかない。その梨玉も優秀な童生であることを承知しているのだろうか。


 そして今、雪蓮と梨玉はようやく夕餉の席を脱していた。

 家屋の壁に凭れ、二人並んで空を眺めている。

 黄砂は去ったのか、下弦の月がよく照っていた。


「ごめんね。なんか変な話になっちゃって」

「別に構わないよ。勘違いされたところで痛くも痒くもない」

「え? 勘違いされたままがいいってこと……!?」

「そうじゃない! わざわざ訂正するのも面倒だって言いたいんだ」


 雪蓮は腕を組んでそっぽを向いた。


「……それはさておき、今日はありがとう。おかげで助かったよ」

「どういたしまして! 困った時は助け合わないとだからねっ」

「あんたの母君にも感謝しないとな。僕みたいなどこの馬の骨とも知れない者を泊めてくださるのだから」


 傍から見ても仲のいい家族だった。残された者たちで精一杯助け合って生活している。あの悲劇が起きる前は、もっと賑やかで楽しい家庭だったに違いない。

 梨玉はにこりと微笑んで言った。


「お母さんは優しい人なんだ。だから私は頑張らなきゃなの」

「科挙のことを、母君は知っているのか」

「もちろん! 応援してくれているよ、反則みたいなことをしているのにね」


 通常、女子が科挙登第を目指すなどと言い出せば、普通の家なら猛反対されて止められる。そして徹底的に女子としての再教育を施されるはずだ。そうなっていないのは、耿家の人間の器が大きいからに他ならなかった。

 梨玉は二、三歩前に出ると、くるりと振り返って笑うのだ。


「何度でも言うよ。私は科挙に合格するから」

「梨玉……」

「小雪も一緒に頑張ろうね。世界を変えるために」


 月光に彩られた梨玉の振る舞いは、さながら天女のようにも見える。

 あまりにも美しい。

 だが、その振る舞いは――


「どう見ても女の子だな」

「えっ……」

「これからも科挙を受けるつもりなら、せめて仕草だけは男らしくしたらどうなんだ。服を替えるつもりはないんだろうし」

「男らしくって……どうすればいいの?」

「堂々と構えるとか?」

「や、やってるつもりなんだけど!?」

「股を開いて座るのはどうだ」

「はしたないよ! だいたい小雪だってそんなことしてないでしょ」

「僕はちゃんと男装してるから問題ないんだよ」


 梨玉が、うぐぐ、と悔しそうに唸った。


「そういう小雪はどうなの?」

「ん?」

「男装は完璧かもしれないけれど、ずっとそんな恰好していたら、いざという時に女の子らしい仕草ができなくなっちゃうよ?」

「僕がそんなことする必要はないだろ」

「あるよ!」


 梨玉が勢いよく近づいてきた。


「小雪はとってもお顔が良いから、ずっと男装したままだともったいないよ? ここぞという時にはちゃんと相応の振る舞いをしないと!」

「いや、だから必要ないって」

「あーるーのーっ! こうなったら私が女の子としての所作を教えてあげる!」

「分かった分かった。考えておくから」

「絶対嘘でしょ。やる気が感じられないもん」


 梨玉は頬を膨らませて怒っていた。

 長らく男装のすべを磨いてきたため、今更女子らしく振る舞えと言われても無理な相談だった。しかし、そういう演技力が身を助ける可能性も否めない。雪蓮は密かに梨玉の立ち居振る舞いをうかがった。この少女は、雪蓮が見たどんな娘よりも少女らしい気質を持っている。少しは参考になるかもしれないが――


「――まあ、無理強いはしないけどね。小雪が嫌なら何も言わないよ」

「ああ。無理はしないことにする」

「うん。今はそれより試験が大事だもんね」


 梨玉は笑って踵を返した。

 すでに日は沈んでいる。そろそろ眠たくなってきた。



          □



 翌朝、日が昇って間もない頃に出立することになった。きらきらと光る陽光が英桑村の家屋を照らす中、雪蓮と梨玉は、荷物をまとめて戸口に立った。試験が始まるまであと六日。梨玉も雪蓮とともに府城に前入りすることになったのである。

 見送りに来てくれたのは、梨玉の母と弟だった。


「梨玉、頑張ってね。〝ちかららざるもの中道ちゅうどうにしてはいす〟だよ」

「うん! できるだけやってみるよ」


 力足らざる者云々は『論語』の一節である。力尽きてぶっ倒れるまでチャレンジしろ、と激励を送っているのだ。

 そこで雪蓮は、機を逃すまいと口を開いた。


「あの。梨玉を放っておいていいのですか」

「ん? どういう意味だ」

「女が科挙を受けるなんて普通じゃありませんから。仮に合格したとして、最後まで隠し続けられるとも思えません」

「小雪!? 今更そんなこと言う!?」


 しかし梨玉の母は、快活に笑って答えた。


「それはそうだ、正気の沙汰じゃないってことは分かっているさ。でもやってみなければ始まらん、もし梨玉が試験ですごい成績を残したら、女だからっていう理由で摘まみ出されることもなくなるだろうさ」

「それは楽観的すぎる気がしますね」

「雪蓮、お前さんは悲観的だね。結果がどうなるかは分からないじゃないか。それでは自分の力に最初から見切りをつけているようなもんだよ。〝いまなんじかぎれり〟だ」


 牽強付会の感もあったが、その言葉は雪蓮の胸をしたたか打った。

 雪蓮は軽く微笑むと、踵を返して言った。


「では行ってきます。お世話になりました」

「梨玉のことはよろしく頼んだ。できれば合格できるように補助してくれると助かるよ」

「いえ、科挙試験というものは個人戦で……」

「大丈夫! 私と小雪が力を合わせれば、向かうところ敵なしだから!」

「雪蓮に迷惑かけるんじゃないよ?」

「分かってるって! むしろ私が小雪の面倒見たげるよ」


 梨玉はどこまでも天真爛漫だった。すっかり毒気を抜かれてしまった雪蓮は、もう一度梨玉の母に頭を下げてから出発するのだった。


 女の身でありながら科挙に挑むのは至難を極める。

 しかし、やると決めたから力尽きるまで力を尽くさなければならない。

 梨玉は郷里のために、家族のために、天下のために。

 そして雪蓮は、天下のために、復讐のために。


「じゃあ行こっか! 目指せ院試合格!」

「馬はどうしようか……」

「馬乗れるの!? 乗せて乗せて!」

「いや、荷物が多くなったから置いていこう」


 日が完全に昇る。家々から煮炊きの煙が上がっているのが見える。

 雪蓮は梨玉に手を引かれ、府城に向けて出発するのだった。

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