三回 民信無くんば立たず

第15話 院試

 院試いんしは学校試における最終関門である。


 これに合格すれば、晴れて入学を許可され、生員せいいんという身分を獲得できるのだ。生員は秀才しゅうさいとも呼ばれ、科挙の本試験たる郷試きょうしを受ける権利を与えられる。郷試に受かれば挙人きょじんと呼ばれ、次の会試かいしへ挑戦することになる。会試に受かりさえすれば進士である。残っているのは確認のための覆試ふくしと、半ば形式化している皇帝との面接試験、殿試でんしだけだった。


 いや、そこまで先のことを考えても仕方がない。

 雪蓮と梨玉にとっては、目の前の院試が重要なのだから。


「うわあ、やっぱり府城は大きいねえ! 人がたくさんいるよ」

「六つの県を束ねる府の中心部だからな。……それはそうと梨玉、府試の合格証書はちゃんと持ってきたよな?」

「もちろんだよ! 忘れるわけがないでしょ?」


 梨玉は胸を張って証書を取り出した。これがなければ院試の会場に入ることもできないのだ。


「……本物だな。まさか本当に府試を突破していたとは」

「失礼だよ小雪! 私だってちゃんと勉強頑張ってるんだかんねっ」


 梨玉は袖を打ち振って抗議する。そういう大仰な仕草は女性っぽい、というより子供っぽいが、今更指摘したところで直るはずもないので黙っておいた。


 白昼の府城は、ともすれば攫われてしまいそうなほどの喧噪だった。

 ひっきりなしに話す人々、行き交う馬車牛車、じゃれ合っていた子供が前から転び、大声をあげて泣き始めた。この往来は繁華街のためか、肉や果物のにおい、湯を売る店のかめが割れる音、辻芝居の楽器が打ち鳴らされる音――混沌が五感に訴えかけてくる。

 人込みに慣れていない雪蓮は、うえ、と小さな声を漏らした。


「どうしたの? お顔が青くなってるよ」

「問題ない。ただ、こういう賑やかさは苦手だ……」

京師みやこはもっとすごいんじゃない? 今からでも慣れておかないと」

「じゃあ行かなくていいや……」

「行かなきゃ殿試を受けられないでしょーっ!」


 院試が始まるのは三日後だ。

 それまでにコンディションを整えておかねばならない。


「おや、雪蓮殿じゃないか! それに梨玉殿も」


 にわかに名前を呼ばれてハッとした。

 人波を逆流するように駆け寄ってきたのは、県試でことあるごとに絡んできた童生、李青龍である。雪蓮は鬼に出会った気分で眉をひそめたが、当の本人は、数年来の級友にたまたま出くわしたがごとく笑うのだ。


「来ているとは思ったが、まさかこんな形で会うとはね。その派手な衣装を見た時、まさかと思ってびっくりしたぞ」

「青龍さんも院試を?」

「ああ。もちろん合格しにね」


 受けに、ではなく合格しにと来たものだ。よほどの自信があるのか身のほどを知らない馬鹿なのか、李青龍は例の飄々とした笑みを浮かべてこんなことを言った。


「二人とも、暇かい?」

「あ、これから小雪と宿で勉強しようかなって……」

「やめておけ、今更無理に詰め込んだところで結果は変わらないさ。それよりも大事なのは、試験に備えて英気を養っておくことだ」

「それはそうかもだけど」

「だったら」


 李青龍は、銭の入っていると思しき袋を掲げる。


「一緒に昼餉を食べないか? この邂逅は天運に違いない、私が奢って差し上げよう」



          □



「好きなだけ食べてくれ。こんなことを言うと顰蹙を買うかもしれないが、私の家は裕福だからね。気兼ねすることなくどんどん注文していいぞ」

「では一番高いやつを頼もうか」

「ちょっと小雪? 少しは遠慮っていうものを……」

「こいつはいいって言ったんだ。遠慮なんかする必要はない」

「雪蓮殿の言う通りだ。たとえば世の官吏は蓄財に忙しいようだが、そんなことでは己の職分を果たしているとは言えない。金は人を鈍らせる毒みたいなものさ」


 偉そうな講釈はどうでもよい。

 雪蓮はよさそうな料理をピックアップして注文しておいた。

 昼時なので客は多い。高級料理ではなく大衆向けといった様相だ。雑多な空気だが、厨房から香ってくる香ばしい匂いは、ほどよく空腹を刺激してくれる。


「それにしても梨玉殿、相変わらずきみは女装なんだな」

「へ? あ、うん! そうだよ! 女装なの!」

「前々から聞きたかったのだが、それは趣味なのかい? 私の周りにそういう恰好をしている男はいないから、どうにも気になってしまってね」

「えっと、これは死んだお姉ちゃんの形見なの」


 皿に乗った揚餅が運ばれてきた。雪蓮はそれを口に放り込みながら梨玉と李青龍のやり取りを傍観する。


「私の家族は洪水で流されちゃって。でもその洪水は、役人が手抜きをしたことが原因だったの。二度とそんなことが起こらないように、私が官吏になって紅玲国こうれいこくを変えてやりたいんだ」

「なるほど。つまりきみは、世を糺すために官吏になろうとしているのか」

「うん。科挙に合格しないと世界は変えられないからね」

「素晴らしい! これほどの義士がまだいたなんて! まさに梨玉殿のような人を社会の木鐸ぼくたくと仰がなければならないね」


 何故か李青龍は興奮していた。そういえば、この男の原動力は紅玲国への不満だったような気がする。私利私欲ではなく清廉な思いから官吏にならんとしている梨玉の志は、彼のお眼鏡にぴったり適ったらしい。


 それはそうと揚餅がおいしい。

 朝に何も食べていないから、いくらでもお腹に入る。


「院試は何が何でも合格する必要があるな。とはいえ余計な嫌疑をかけられぬよう工夫するのがよろしいぞ」

「工夫? ってどんな?」

「女と間違えられないための根回しだ。後で私が教示してあげよう」


 いったい何を吹き込むのやら。

 確認しておく必要はあるが、今は腹ごしらえが優先だ。


「して梨玉殿、試験の自信はどうだい?」

「自信ならあるよ! 今度こそ一等で合格しちゃうかも」

「なるほど。しかしだね――」


 薬味の効いた麵が届いた。湯気がほかほかと立ち上がっている。美味しそうだ。雪蓮は揚餅を平らげてからそれに取りかかった。

 李青龍が声を潜めて言った。


「妙な噂を聞いてしまったんだ。此度の院試は気をつけたほうがいい」

「どういうこと?」

「梨玉殿も知っていると思うが、県試の試験官は知県、府試の試験官は知府が執り行うことになっている。では、府城で行う院試も知府が試験官をやるのかと言えば、そうではないのだ」

「ええ? じゃあ誰? 天子様?」

「なわけあるかい。中央から派遣される総管学政、略して学政がくせいだ」


 今度は饅頭がやってきた。

 かぶりついてみると、餡があふれて口の中に甘みが広がる。

 至福。悦楽。恐悦至極。


「そして、此度我々の試験を監督する学政がなかなかに曲者でね。姓名をおう視遠しえんというのだが、噂によれば、院試に大胆な改革を加えようとしているらしいのだ」


 雪蓮は饅頭を咀嚼しながら李青龍を見た。飲まず食わずで熱弁しているらしいが、このご馳走を前にしてよく腹の虫が鳴かないものだ。どの料理も頬が落ちるくらいなのに。とりあえず新しい料理を注文することにした。

 梨玉が首を傾げる。


「改革……ってどんな感じ?」

「そこまでは分からないが、通常の院試では有り得ぬ問題になるらしい。もともと紅玲は歴代の王朝と比べて科挙制度を軽視にしている節があるから、一部の禁則事項に抵触しない限りは、試験官の裁量で自由に問題形式を変更することができる」

「何で青龍さんはそんなこと知ってるの」

「役所に忍び込んで盗み聞きしたからね。そういうのは得意なんだ」


 李青龍は悪びれた様子もなく笑った。

 対する梨玉は呆れ果てた様子である。


「青龍さんって、盗人みたいだねえ」

「斥候と言ってくれたまえ。……まあ、明日には学政による講義が行われるはずだ。そこで試験の全容は見えてくることだろう」


 院試が始まる前日、学政による経書の講義が行われるのが習わしだった。もともとは生員のみが対象の特別講義だったが、童生に対する叱咤の意も込めて数十年前から行われているらしい。


 雪蓮としては、講義の内容自体に興味はなかったが、学政・王視遠が何をもって大胆な改革に乗り出したのかは気になるところである。

 そこでふと、李青龍がこちらを見つめていることに気づく。


「雪蓮殿。特殊な試験であればあるほど、その人の真価が問われるのだ。今回はきみの隠された実力を拝見したいものだね」

「ふぉあ」

「何言ってるんだ」


 ごくりと饅頭を呑み込む。


「……僕はいつも精一杯やってるよ。隠された実力なんてない」

「そうは思えないね。どこか手を抜いている節がある」

「前の県試で少し会っただけなのに、僕の何が分かるというのだ。すみませーん、この饅頭を山盛りでください」

「分かるさ。私の人物眼を侮ってもらっちゃ困る――ってどれだけ食べるんだ!?」


 李青龍が珍しく頓狂な声をあげた。

 卓子の上に並んでいるのは、色とりどりの料理だ。饅頭、野菜炒め、麩菓子、蒸し栗、牛肉麺。通常考えれば三人でも食べきれないほどの量だが、雪蓮にとってはむしろ少ないくらいだった。


「小雪、これ全部食べるつもりなの……?」

「まだ来てない料理もある」

「ま、待ってくれ雪蓮殿。いくら私が裕福だからといっても限度がある。これ以上は良心に従い遠慮していただけると助かるのだが」

「好きなだけ食べろと言ったのはあんたじゃないか」

「それはそうだ。そうなんだが、重々承知しているのだが、まさか雪蓮殿がそれほどの大食漢だったとは思ってもみず……」


 ちょっとムッとしてしまった。

 野菜炒めの皿を平らげてから、雪蓮は無慈悲に告げた。


「蓄財は毒、じゃなかったのか?」

「…………」


 何故か梨玉が尊敬するような目で見てきた。

 今日はお腹いっぱい食べられて満足だ。

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