第9話 嫌疑

 こう梨玉りぎょくの原風景は、水浸しになった郷里の惨状だ。


 龍に呑まれるがごとく多くの人が消えた。耿家の人間もその憂き目に遭い、運よく難を逃れることができたのは、母と弟、梨玉の三人だけだった。働き盛りを失った耿家は窮乏し、木の根を食うような生活が続くことになった。


 天は何の罪もない梨玉の家族を殺した。

 ぶつけどころのない口惜しさが胸の内に広がっていった。

 だが、物心がついた時に梨玉は知ることになる。あの水害は天の御業ではなく、朝廷の楊士同という役人が手抜き工事をしたことが原因だったのだ。


 それから梨玉のはらは決まってしまった。

 母のこと、家のことは弟に任せ、ひたすら勉強に打ち込むことにした。

 負けたくなかった。世界を変えてやりたかった。自分のように困苦に喘ぐ人たちを救いたかった。俗悪な官吏たちに平手打ちを浴びせるのが自分の使命だと思った。進士になれば、日月すらも動かせると信じていた。


 梨玉の身体の内に燃えているもの。

 それは家族への愛情と、天下に対する揺るぎない復讐心である。



          □



 老童生が捕縛されて後、梨玉はつきっきりで雪蓮せつれんの世話をした。


「大した怪我じゃないからあっちに行ってろ」

「命の恩人を放り出せないよ! 着替えさせたげるね」

「いいよ! 変なとこ触るな!」


 梨玉は雪蓮が押しに弱いことを承知しており、猪突猛進といった勢いで四六時中へばりついてきた。人見知りの雪蓮としては胃に穴が空くような思いだが、それはそれとして、この天衣無縫な少女に構われるのが満更でもない気がしてきたから始末に負えない。過度に接触されれば性別を見破られる可能性があるため、何としてでも引き剝がさなければならないのだが。


「――おや? これはお邪魔をしてしまったか」

「げっ」


 声が聞こえたかと思ったら、いつの間にか、開け放たれた戸のところに青龍せいりゅうが立っていた。何を考えているのか分からない視線が、組んづ解れつしている雪蓮と梨玉に向けられる。


「二人は仲が良いんだな。羨ましいくらいだよ」

「そうだよ! 私と小雪はとっても仲良しなの」

「しかし男同士とは。それもまた一つの形ということか……」


 盛大な勘違いをされているらしい。

 雪蓮は梨玉の頭を押さえつけ、李青龍をキッと睨んだ。


「何しに来たんだよ。用がないならあっちに行け」

「見舞いさ。厨房から色々と食料を盗んで――いただいて来たから、好きなだけ食べて体力をつけるといい」


 李青龍は袋に入った果物や蒸し野菜、乾豆腐を並べていった。きらきらと目を輝かせる梨玉を尻目に、雪蓮は、はあ、と深い溜息を吐く。


「こんなのいらないって。だいたい何で僕に構うんだ」

「私は感服したんだよ。義を果たすために自らを犠牲にする耿梨玉、耿梨玉を守るために立ち上がった雷雪蓮――これほどの人物が他にいると思うか? 確信したね、きみたち二人はきっと科挙に合格する。そして天下をよい方向に導いていくのだ」

「うわあ! 小雪、青龍さんって見る目があるよ!」

「僕は節穴だと思うが……」

「とにかくだ、これからの試験でも一緒になることがあるかもしれない、ともに科挙登第を目指して頑張ろうじゃないか。――ああ、安心してくれていい。私は二人の仲に割って入るつもりはない、むしろ応援しているから存分に組んづ解れつしてくれ」


 雪蓮は、もう一度深々と溜息を吐いた。

 変な者に目をつけられてしまったようである。

 その変な者は、急に目を細めてこんなことを言い出した。


「しかし雪蓮殿、きみはまだ力を隠しているんじゃないかい」

「は? 何言ってんだ」

「そういう雰囲気がするんだ。底知れない何かを感じる。きみくらいの人物ならば、これまでの試験で一等になることも難しくなかったはずだ」

「いいや、僕は全力を出した」

「そういうことにしておこう。いつかきみの全力が見たいものだね。――ではまた」


 李青龍はそれだけ言って去っていった。

 梨玉がぽかんとして尋ねる。


「力を隠しているって、どういうこと?」

「あいつの妄言だよ。気にするな」


 雪蓮は素っ気なく言って寝台に倒れ込んだ。

 今は事件の行く末を見守ることのほうが重要だった。



          □



 事件がどうなったかと言えば、今のところ県庁で取り調べ中らしい。

 犯人が見つかったことで、それまで容疑者として県庁に幽閉されていた不合格者たちは野放しとなった。もちろん県庁側は口止め料を彼らの懐に忍ばせたという話だ。


 かくして、県試は何事もなかったかのように五回目の試験、終場しゅうじょうを迎える。


 だがその直前、雪蓮と梨玉は知県から呼び出しを受けることになった。

 薄々予想はしていた。雪蓮と梨玉は下手人逮捕の功労者でもあるのだから。


「耿梨玉に雷雪蓮。その働きぶりは見事だった」


 知県は豚のような体躯を震わせて言った。

 ちなみに、梨玉が一等になって賊を引き受けるという作戦内容は、知県の耳にも入っている。通常は試験を冒涜する違反行為だが、今の彼にとっては些事のようだった。


「おかげで県試を健全に全うすることができる。そなたらは世の童生の鑑だな。何か褒賞でも出したいところだ」

「もったいなく存じます」

「が、犯人が妙なことをほざいておってな」


 空気が変わった。ねばねばした視線が絡みついてくる。


「犯人、これはこう福祥ふくしょうという名だそうだが、こやつが人を殺す端緒となったのは自分の意志ではないらしい。得体の知れぬ女にそうしろと依頼されたのだそうだ」

「どういうことですか?」

「そもそも黄福祥は頭場で暴れた老人その人だ。県庁の外の牢屋に捕らえてあったはずなのに、檻が破壊され、いつの間にか姿を消していた。これはその女が手引きをしたに違いない」

「知県さま、ちゃんと見張ってなかったんですか……!?」

「見張りの目を盗んで逃げたのだ」


 もちろん県庁とて脱獄者を捜索していたはずだが、殺人事件の対応に追われて手を抜いていたに違いない。完全に知県の落ち度である。もし黄福祥を怪しんで早急に捕縛しておけば、事件はそれで終息したのだから。


「とにかく、黄福祥を逃がしたその女が黒幕ということだ」

「誰ですか? その女の人って……」

「そいつは県庁の内部でも目撃されている。そして今――私の目の前に立っている」


 梨玉は何が何だか分かっていないようだ。

 しかし雪蓮には読めてしまった。


「耿梨玉。県庁に刺客を放ったな」

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