第8話 襲撃

「首席、こう梨玉りぎょく……」


 四場の試験も強行され、その結果が発表されるや否や、童生どうせいの誰かが呻きにも似た声を漏らした。

 梨玉は終始緊張した面持ちだった。一等になった喜びを噛みしめる道理はなく、これから対峙することになる危難に対して不安を募らせているようだ。県庁側はすぐさま梨玉に護衛をつけた。知県にとっての焦眉しょうびきゅうは、何が何でもこれ以上の犠牲を出さぬこと、犯人を水面下で処理して不祥事を隠すことの二つだった。


 その日、梨玉はずーっと雪蓮せつれんのそばにいた。

 もちろん二人きりではない。雪蓮の部屋の周囲には県庁の係員が待機しているし、童生たちも遠巻きに注意をしている気配があった。


「すごいことになっちゃったねえ」


 梨玉は呑気なふうを装っていた。


「そんなに科挙が嫌なのかな? 人を殺しちゃうなんて信じられないよ」

「科挙には不思議な魔力があるからな。宮女や宦官にでもならない限り、市井しせいの民が栄達するには進士しんしになるしかないんだ。そういう社会構造が気に食わない連中がいたっておかしくはない」

「でも私は正攻法が一番だと思うな」


 梨玉は雪蓮の黒髪を手でもてあそんでいた。

 そういう過度な接触は控えてほしいと切に願う。


「誰かを犠牲にして何かを得ても虚しいだけだから。死んだお父さんがよく言ってたの、誰にでも胸を張れるような生き方をしなさいって」


 やはり梨玉の考えはちょっと理想に偏っている。

 雪蓮は思わず口を挟んでいた。


「理想だけでは立ち行かぬこともあるんじゃないか。力で戦うことが最良の手段になることだってある」

「そうかもね。でも私はこの国をただすために戦いたい。仁とか徳によって世界を変えていきたいんだ」

「最近では珍しいくらい清廉だな」

「そうかな?」

「そうやって自分の信念を曲げずに頑張れる人はすごい」

「う……」


 けな賞賛には無防備のようで、途端に赤面して俯いてしまった。日頃の意趣いしゅがえしが成功したのを喜ぶべきなのに、梨玉のその仕草が意外なほど愛らしかったので正視に堪えなかった。雪蓮も雪蓮で視線を中空に彷徨さまよわせる羽目になる。


「まあ、あれだ。あんたは頑張ってるな」

「ずっと不安だったんだ」


 梨玉は照れくさそうに笑って言った。


「一人でここまで来て。本当にやっていけるのか怖くて。でも小雪こゆきにそう言ってもらえたら、勇気が湧いてくるね」

「……何で僕にそこまで入れ込むんだ?」


 雪蓮はちょっと躊躇ってから聞いた。

 梨玉は首を傾げている。


「最初に助けてくれたでしょ?」

「それにしては度が過ぎている」

「それだけじゃないよ。だって小雪は……」


 ここで「惚れたから」とでも言われたら返答に窮する。雪蓮は戦々恐々としながら梨玉の言葉を待っていたが、それを遮るように乱暴なノックの音が室内に響いた。


 誰何すいかするよりも早く扉が開いた。

 ずかずかと部屋に足を踏み入れたのは、官服に身を包んだ男である。

 梨玉の護衛として外を見張っていた者に違いない。


「あの、お役人さま、どうかしましたか?」


 梨玉が立ち上がりかけた瞬間のことだった。

 雪蓮は男の右手が奇妙に動いたのを見咎めた。あっという間の出来事だった。腰に佩いた剣の柄に指をかけ、一気にそれを振り抜いて見せたのである。


 梨玉は木石のように硬直していた。

 今まさに、明らかな死が降りかからんとしている。

 雪蓮にとって梨玉は赤の他人。見捨てるのが利であることは分かっていた。


 だが――〝義を見て爲さざるは勇無きなり〟。


 梨玉の朗らかな笑みが脳裏を過ぎった時、雪蓮は先のことなどかなぐり捨てて飛び上がっていた。


「危ない!」

「えっ」


 梨玉の腕を引いて背後に押しやった。

 左腕に鋭い激痛が走る。

 男の描いた剣筋が、肉を裂いたのだ。


 壁や床に血が飛び、梨玉の悲鳴が反響した。それでも雪蓮は怯まなかった。久方ぶりに味わった斬撃の痛みを噛み殺し、蛇が喰らいつくような勢いで男の顎を蹴り上げる。


 その時、雪蓮はついに気づいた。

 苦悶に歪む男の顔、それは頭場で騒いだ老童生のものに他ならない。


「邪魔をするなあ!」


 老人が邪悪な叫びとともに突貫する。

 雪蓮はその腕をつかむと、背負い投げで壁に叩きつけてしまった。


 どん、という骨が砕けるほどの音がする。

 それきり、老人は亀のようにひっくり返ったまま動かない。

 もごもごと動く口唇こうしんから漏れるのは、呪詛にも似た呟きだけだった。


「儂は紅玲こうれいのために……天下をやすんずるために努めてきた。こんなところでくたばるわけにはいかんのだ。明徳めいとくを明らかにするまでは……」


 大方の想像通りだったようだ。

 この男は、科挙制度の峻嶮さに打ちのめされた哀れな老人であり、齢六十の坂を超えてもみみしたがうことがなく、前途ある童生を殺して回るという凶行に及んだ。


「大丈夫か! おい、あやつが下手人だ! 捕らえろ!」


 大勢の男たちが部屋に踏み込んできた。

 怒りすら覚えるほど鈍間な、それは正規の役人たちである。

 老人が連行されていくのを尻目に、雪蓮はその場にゆっくりとしゃがみ込んだ。傷は命に関わるほどではないが、じくじくとした痛みが途方もなく不快だった。


「小雪! 大丈夫!?」


 梨玉が雪蓮の肩をつかんだ。その瞳には涙すら浮かんでいる。


「はやく手当しないと! じっとしてて!」

「大丈夫だ。放っておけば治る」

「治るわけないでしょ!」


 梨玉は衣服を引き千切って止血を始めた。

 姉の大事な形見だというのに。


「どうして守ってくれたの。そんな怪我までして……」

「怪我をするつもりはなかった。あいつが思ったより速かったから」

「だから、どうして守ってくれたの!」


 雪蓮は少し考えてから答えた。


「……あんたが僕にないものを持っているからだよ」

「え?」

「いや間違えた。身体が勝手に動いていたんだ」

「もうっ……!」


 梨玉は怒ったような顔で抱き着いてくる。

 耳元でそっと囁かれた。


「でも小雪は命の恩人だね。ありがとう」


 本当に身体が勝手に動いたのだ。

 試験に合格することだけを考えていたのに。他の受験生など蹴落とすべきライバルでしかないと信じていたのに。あの時、あの瞬間だけは、梨玉の命が喪われることに強い忌避を覚えた。


 周囲では役人や童生たちが大声をあげて行き交っている。

 県庁を騒がせた殺人事件は幕引きとなるだろう。

 雪蓮は梨玉の温もりを感じながら目を閉じた。

 

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