第16話

「……おねえちゃん」


 アナスタシアの上着の裾をそっと掴んだのはクリスだった。


「どうしたの? 危ないわ。早くわたしの後ろに下がって!」


 クリスはアナスタシアの冷えた手を握った。こんな状況だというのに、彼女を見上げる青い瞳は凪いだ海のように静かだった。


「ここで死んじゃうかもしれないなら、僕、最後にお礼を言いたくて。助けてくれてありがとう、おねえちゃん」

「…………」

 

 唐突な言葉と真っ直ぐな視線に、アナスタシアは瞠目して言葉を返すことができない。


「あのね、おねえちゃんの言う通り、新しいお父さんは悪い人だったんだ。僕はそいつから母さんを守ろうとした。だって、僕はほんとうの父さんから『俺に万が一のことがあったら、母さんのことを頼むぞ』って言われてたからね。……でも、お母さんはそう思ってなかった。僕はむしろ邪魔者で、要らない子供だったんだ」


 淡々とクリスは続ける。


「僕の声なんて誰も聞いてくれなかった。昔からいてくれた使用人さんたちもみんな辞めさせられちゃったから。でも、おねえちゃんだけは違った。最後の最後まで僕を見捨てないで、爆弾から助けてくれた。僕の言葉にちゃんと耳を傾けてくれたんだよ」


 そして、晴れやかな顔で言い切った。


「ここで死んだって、僕は悲しくなんかない。爆弾をつけられたときは怖かったけれど、今はちっとも怖くなんかないんだ。あの地下室に戻るより、ここで悪者と戦いたい。だって、父さんならそうしたと思うもん!」

「…………!」


 アナスタシアは、目の前の霧が晴れ上がったようだった。

 

(――わたしはいったい何を迷っていたのかしら。覚悟は自然につくものじゃなくて、決めるものなのに)


 負けるかもしれない、ではなくて、絶対に勝たなければいけない。この状況から抜け出して、を見つけるまでわたしは死ねない。こんなところで薄汚い人間に殺されてたまるものですか!

 ぐっと足裏に力を込めて、確かに地面を踏み締める。両足の震えはおさまっていた。


「感動的なお話しはそこまでにしてくれないか? こう見えても我々は忙しいのだよ。……残念。時間切れだ」


 部下たちに合図を送ろうとギルバートが左手を持ち上げかけたが、次のアナスタシアの言葉を聞いて、ぴたりと動きを止めた。


「長官。あなたの金庫の鍵には、五芒星のマークがついていませんか?」

「……」


 ギルバートは蛇のような目で、探るようにアナスタシアをねめつける。

 夜闇の中で、アナスタシアの紫色の瞳がきらりと光った。


「さらに、その金庫の中には一〇〇〇万マイルもの大金が入っていますよね? もっと言うとお金は赤い色の布に包まれていて、さらに、長官が小さなころからずっと大切にしているというボロボロの熊のぬいぐるみも一緒に入っています」

「……!!」


 詳細な情報が追加されたことで、明らかにギルバートの顔色が変わった。周りを取り囲む憲兵たちもひゅっと息を呑む。


「……どこでそれを知った?」


 ギルバートは剣の切っ先をアナスタシアの喉元に突きつけたまま、焦れた声で訊ねる。


「聞いたんじゃありません。見たんですよ、金庫の中を。そういえば、なにやら怪しい帳簿も入っていましたねぇ」


 アナスタシアは小気味よく答えた。


「そんな馬鹿な! 鍵は確かにここにある!」


 黒い憲兵服の胸元を探り、ギルバートは金色の鍵を取り出した。その持ち手には確かに五芒星が刻まれている。


「それは偽物の鍵です。すり替えられていることに気がつきませんでしたか?」

「なっ!? そんなことができるわけがない! 肌身離さず持っているのだから」

「さあ。どうでしょうか。信じないというのなら、別にそれでもかまいません」


 アナスタシアの言葉に、ギルバートは血が滲むほど唇を噛みしめた。


「……本物の鍵はどこにある」

「わたしたちを逃がしてくれたらお返しします。無事にギャガを脱出できたら鍵を返却してもらえるよう、別の人に頼んでありますので。もしわたしたちが殺されたり、行方が分からなくなったら、鍵は永遠にあなたの手元には戻りません。お金も帳簿も二度と日の目を見ないでしょう」


 ギルバートの歯ぎしりが静かな森に響き渡る。


「……貴様は何者だ?」

「名乗るほどの者でないことだけは、確かです」

「クソっ。小娘が。貴様、一人じゃないな? 裏に誰がいる? こんな小娘にできるわけがない。不愉快だ、何もかも」


 ギルバートは吐き捨てるように言い、恐ろしい顔でアナスタシアを睨みつける。

 アナスタシアは彼から決して目を逸らさなかった。やれることはやった。あとは相手の出方を待てばいい。


 白い首に突き付けられていた剣は、やがてゆっくりと下ろされた。


「……約束を反故にしたら、必ず殺す」

「ありがとうございます」


 彼の合図で憲兵たちは左右にさっと退いた。終始震えながら成り行きを見守っていた子供たちに、アナスタシアは明るい声を上げる。


「さあ行きましょう! もう大丈夫よ!」

「やったね、おねえちゃん! ほんとうにすごいや!」


 相好を崩したクリスが喜びの声を上げ、泣き出してしまった一番幼い女の子を抱きかかえる。再びアナスタシアたちは走り出した。


 けれども彼女の背中には、いつまでも刺すような恨めしい視線が送られていたのだった。


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