第9話

「あそこはもともと、すごく仲のいい家族だったんだ。……前の旦那が死ぬまでは」


 両親とクリスの三人で、絵に描いたような幸せな家族だったという。それが変わってしまったのは、二年前に父親が急死してから。母親の新しい夫だという男が出入りするようになってからだった。


「元旦那には俺もずいぶん世話になったから、多少は事情を知ってんだ。あそこの奥さん、気が小さいというか。もともと神経質で不安になりやすい気質はあったんだ。だから早々に新しい男を作ったんだろうな。突然小さい子どもと取り残されて、不安だったんだろう」


 だが、相手の男が悪かった。


「いい母親だったのに、すっかり変わっちまった。もしかしてアナスタシアも聞いたか? 奥さんの怒鳴り声。クリスが可哀相で見てられねえよ。家ではあんなんだけど、街に出るとちゃっかり猫を被るもんだから、呆れたもんだよ」

「そう、ですね。外での態度と家での態度は、ずいぶん違うように見えました」


 自作自演した時限錠事件の時は、子供を助けようと必死になる良い母親のようにみえたのに。帰宅した途端クリスを怒鳴りつけ、折檻までしていたのには心底驚いた。


「新しい旦那さんはどういう人なんでしょう?」

「それが、いまいちよく分からないんだよな。ギャガの人間じゃねえって話だ。クレンシアガの別の街から来たらしい、って噂を聞いたことがある。まだ若いのに働く姿を見ないから、何か悪いことでもしてるんじゃねえかって俺は思ってるがな」

「わっ、悪いこと!?」


 目を真ん丸にするアナスタシアを見て、ザカリーは面白そうに口角を上げた。毎日毎日道端で物乞いをしている彼にとって、人とのちゃんとした会話は久しぶりだった。感情豊かなアナスタシアの反応が新鮮で、もっと驚かせてやりたくなってくる。


「考えてもみろよ。見ての通りギャガはクレンシアガの掃き溜めだ。みんなヒイヒイ言いながら暮らしてるのに、あんなデカい家でろくに働かずに暮らせるなんてあり得ない。今の男が出かけるのはいつも夕方からだ。悪いことでもしてるか、金持ちの愛人のご機嫌伺いでもしてるとしか考えられねえだろ? ……おっと、アナスタシアにはまだ早い話だったか。すまんすまん」


 口では謝りながらも、その表情は悪びれることなくニヤついている。


「ザカリーさんの言う通り悪いことをしてるんだったら、憲兵は動かないんですか?」


 その質問に、うーんとザカリーは考え込む。


「俺の経験から言えば、今の男が後ろ暗いことをしている可能性は高いと思う。その場合、おそらく憲兵側はグルだと思うんだよな。この街を見てみろよ。憲兵が機能してたら、治安はもっとマシだろう」


 言われてみれば、とアナスタシアは納得する。街のあちこちで喧嘩や小競り合いを見かけるし、宿屋で働いていた時もトラブルはしょっちゅう起こっていた。手に負えなくなったダリヤが憲兵を呼んできても、彼等は本気で仲裁にはかからない。豪華な衣類を身に着けている方の味方をして、あとからこっそり金銭を受け取っている様子を目撃したことがある。


「付け加えるなら、今の憲兵長官ギルバートは金の亡者で有名だ。握らせる額によっては、悪事の片棒だって担ぐだろうよ。多くの憲兵は俺ら住民の味方じゃない。金の味方なんだ」

「憲兵が悪者の味方を……」


 それが真実なら、ギャガの街は文字通り無法地帯ではないか。

 とんでもない場所に自分は今いるのだと、アナスタシアはようやく実感が湧いてきた。


「アナスタシアは、あの家のことを調べてどうするつもりだ? 言っちゃ悪いが、この件に関して、おまえさんみたいな子供にできることなんて無いと思うぞ」


 ザカリーの問いかけに、アナスタシアは言葉を詰まらせた。


「……自分でもよくわかりません。でも、クリスをあの家に置いたままこの街を去ることはできない。それだけは確かなんです」


 彼は『たすけて』と伝えてくれた。真っ青な顔で。恐怖に震えながら。

 見捨てていくことなどできない。それ以上の理由などなかった。


「……ザカリーさん、ありがとうございました。いろいろ教えていただいて」

「いいってことよ。あとこれはおせっかいなおじさんからの忠告だ。人探しはいいが、聞く人間は選べ。さっきみたいな連中と絡むと、最悪の場合人生が終わるぞ」


 この『人生が終わる』の意味を、今のアナスタシアは理解することができた。取り囲まれてどこかへ連れて行かれたり、おぞましい思いをさせられたり。二度と人探しなどできないような状況に追い込まれてしまうだろう。


「ご忠告に感謝します。わたしって世間のことをよく知らなくて。家も田舎でしたし……。それでよくダリヤさんを怒らせてしまいました」

「ダリヤのところで働いてたのか。あいつ、すぐ怒るから大変だっただろう。悪い奴じゃねえが、この街で生きていくためにはあれぐらい豪胆じゃないとやっていけないんだ。まあ、あんまり気にしないことだ。アナスタシアはいい奴だって、俺はわかってるぞ」


 ザカリーは、励ますようにアナスタシアの肩をぽんと叩いた。

 久しく励ましなど受けてこなかったアナスタシアは、妙にこそばゆい気持ちになった。胸のあたりがむずむずして、浮き立つような感覚。自然と頬が緩み、肩の力が抜けていく。

 アナスタシアはますます彼のことが好きになった。


「……励ましてもらったお礼をしないといけないですね」


 笑顔でポシェットを探ると、ザカリーは慌てた声を出す。


「おいおい。さすがの俺も、励ましたくらいで金をとろうとは思わねえよ。そこまで落ちぶれてないからやめてくれ」

「ふふっ。お金じゃないですよ。さっきザカリーさんのネックレスが見えたんです。あれ、鍵が壊れて開かなくなっていませんか?」


 アナスタシアが訊ねると、ザカリーは目を見張った。


「えっ? どうして知ってるんだ?」


 ザカリーが懐にお金をしまうとき、痩せた胸元に見えた銀色のもの。ぼろぼろの身なりの中でそれだけが不釣り合いに輝いていたので、自然と目に留まった。

 ザカリーは胸元から銀色の鎖を引っ張り出す。ペンダントロケットがついたネックレスだ。ごつごつした指でそろりと撫で、懐かしそうに目を細める。


「……俺にも昔は家族があったんだ。いろいろあってこんなザマになっちまったけど、もう俺は家族を裏切らない。時間は掛かったとしても、綺麗な金を稼いでまた会いに行きたいんだ」

「その中には、家族の絵姿が?」

「ああ。でも、うっかりロケットの鍵を失くしちまって。間抜けだよなあ。大事なものをしまったのに、開けられなくなっちまったら本末転倒だ」


 ザカリーの表情は、その昔、家の鍛冶屋に駆け込んできたお客さんのものによく似ていた。

 不思議と大金が入った金庫が開かなくなったお客さんより、家族の絵姿やプレゼント、亡くなった人の遺物を取り出せなくなったお客さんの方が悲しい顔をしていた。どうか必ず開けてほしいと、父に縋り付くように頼み込んでいた。

 その姿を見て、まだ幼いアナスタシアはこう思った。錠前の向こう側にあるのは、ただのではないのだと。かけがえのない思い出や記憶が染み込んだ、唯一無二の存在なのだと。それを取り出すことは、すなわち人の心を救うこと。一度は絶望していた心に再び灯りをともし、再び前を向いて日々を送ることができるようにすることなのだ。


 優秀な鍛冶屋鍵屋だった父の背中を見て、そして感謝で何度も頭を下げるお客さんの嬉しそうな顔を見て。憧れを形にしたくて、アナスタシアは父から技術の手ほどきを受けたのだった。

 懐かしい思い出を噛みしめながら、アナスタシアはポシェットから取り出した細長い道具を両手に持つ。


「大丈夫です! この錠前なら一分もかからずいけるはずです。すぐにご家族の顔が見られますからね!」


 呆気にとられるザカリーの横で、アナスタシアはあっという間に開錠をやってのけた。防犯を目的とした錠前ではないため、構造が単純だったのだ。

 カチッという小気味の良い音と共に、ロケットの蓋が浮く。信じられないといった表情でザカリーはそのまま蓋を持ち上げた。


「……ほんとうに開いた。なんてこった……」


 現れた小さな絵姿はきれいなままだった。赤ん坊を抱いた若い女性と、彼女の腰に手を回す男性が描かれている。赤ん坊は泣いているが、夫婦は幸せそうな笑顔を浮かべて寄り添っている。

 ――いつぶりかの家族との対面。ザカリーの乾いた頬に透明なものが一筋つたう。ロケットを持つ手もぶるぶると震え、ずっと我慢していたものがせきを切って溢れ出していく。


「ありがとう、アナスタシア。……ありがとう」

「どういたしまして。家族のところに戻れる日が、早く来るといいですね」


 今度はアナスタシアが、ザカリーの肩に手を置いた。

 そのことに気がついたザカリーがおかしそうに泣き笑い、アナスタシアも自然と温かい気持ちになる。

 二人は飽きるまで笑い合い、そして、そのあとも時間を忘れて話に花を咲かせたのだった。


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