第21話 岸壁で

夫は夕方に迎えに来た。この時点では私はすっかり落ち着いていた。そう、また何か言われても聞き流そう。こう決めたら、気が楽になった。


次の日。抜けるような青空の中、夫の希望で万座毛に行くことになった。柵はしてあるものの、策を越えたらすぐ岸壁。ここからだったら夫の希望通り、飛び降りたら死ねるのではないだろうか。


でも一人で柵を超えるのを黙ってみていることも、二人で柵を越えて、私が突き落とすこともできるはずがない。目撃者が多すぎる。


そんなことを考えながら前を歩く夫の背中を見つめる。病院から帰るときも見た背中だけど、持っている感情は明らかに違う。


こんな嫌なことを言われるならいっそいなくなってくれたほうがいい、と思う反面、がんが進行しているという恐怖と戦う夫をどうにかしてサポートしたいと思う気持ちと両方が行ったり来たりする。


そんな中、夫が携帯で話しているのに気づいた。


ミチコ、明日帰ったらお土産持っていくから待っててね。


そんな話が風に乗って聞こえてきた。よりによって私の前で堂々と。そう。もう夫はミチコとのことを私に隠さなくてもよいと思っている。私は傷ついたりしないと思っている。


もう、夫の心は私から完全に離れてるんだ。そう思ったら、夫への殺意も、波が引くように引いて行った。そう。殺してあげる義理もない。犯罪者になるリスクを負う理由がない。そう思ったら、急に気持ちが楽になった。


私は私で、普通に、今まで通りにすればいいんだ。


私は電話で話している夫からあえて遠ざかるように逆方向に歩き、輝く海を見つめた。


このまま永遠に、夕凪を。


空港で聞いた島唄を思い出した。私の心もこのまま夕凪のように平穏にいられますように。誰に祈るのでもなく、自分に言い聞かせるように言った。


電話が終わったようだ。夫がそろそろ行こう、という。そうだね、と返事をして、ついて行った。


次の日、朝早く空港に着くと、来たときと同じ、たくさんの人たち。みんな、少し焼けて、たくさんのお土産袋を抱えて、飛行機を待っている。


夫も、ミチコへのお土産か、いくつかお菓子を買い込んでいたが、私は何も買わなかった。そう、夫がいうように、お土産を買っていくような友達なんて、いないんだ。


飛行機の離陸と同時に考えたこと。それは、これから先、夫がいなくなったら、私は完全に孤独になってしまうのだろうか、という漠然とした不安だった。私の心には、しばらく夕凪が訪れることはなさそうだ。

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