第1章【5】
日が暮れた頃、アイザック・ラト伯爵が帰宅したとトラインが呼びに来るまで、シリルは書籍室に籠っていた。ラト伯爵家は紡績関連の事業を経営しており、シリルが将来的に継ぐためには経営学の知識が必要になる。一般庶民であった自分に経営者が務まるのか、シリルはそれを考えるとまた憂鬱な気分になった。
ダイニングでは、すでにアイザックとローレンスがテーブルに着いていた。シリルは朝食のときと同じようにアイザックの
「シリル、今日は何をして過ごしていた?」
赤ワインの注がれたグラスを揺らしながら、アイザックが優しく問いかけた。男前は仕草まで男前だ、などと考えつつ、シリルは薄く微笑む。
「魔法学の本を読んでみましたが、よくわかりませんでした」
「そうか。いまはそれでいい。これからゆっくり学んでいけばいいんだ」
「はい」
しかし、とシリルは心の中で呟く。魔法を学ぶことができるなど、全オタクの最大の夢だ。シリルにどれほどの魔法の能力があるかはまだわからないが、神は「無双できるくらいの魔力を授ける」と言っていた。もし満足に魔法を使うことができるなら楽しみである。魔法学に関しては知識欲を持てるかもしれない。シリルは、自分は転生してもオタクなのだと実感していた。
和やかに食事が進む中、シリルは奇妙な感覚に襲われていた。料理を口に運ぶたび、咥内に異様な刺激が加わるのだ。料理が不味いわけではない。むしろ美味しいと感じているのだが、咥内に経験したことのない感覚が広がる。
「料理が口に合わないか」
ローレンスの問いかけで、シリルはすべて顔に出ていたことを悟った。前世でも、姉に「紫音は隠し事ができないわね」と笑われていたのをよく憶えている。
「修道院の食事に比べると大味なのだろうな」
「ふむ……」アイザックは顎に手をやる。「明日からはシリルに合わせた食事を用意させよう」
「そこまでしていただく必要はありません。きっといずれ慣れます」
慌てて言ったシリルに、アイザックは優しい微笑みを浮かべる。
「それくらい、どうということもない。この屋敷の料理人たちは腕利きばかりだぞ」
「でも……」
「お前はフローリアの忘れ形見だ。フローリアの最期を看取れなかった罪滅ぼしくらいはさせてくれ」
「……罪滅ぼしなんて……」
シリルは言葉に詰まる。姉を失った瞬間の感情が重なり、どうしようもなく胸が締め付けられた。シリルは「最期を看取れなかったこと」が罪だとは思っていない。だが、罪だと思ってしまう気持ちも、痛いほどに理解できる。あの日の大きな後悔が、シリルに口を噤ませた。
それと同時に、ローレンスのことが気掛かりだった。ローレンスは、嫡男であるシリルが行方不明だったことで分家から養子に取られた。シリルが伯爵家に引き取られたことにより、ローレンスが爵位を継ぐことはなくなる。ローレンスがラト伯爵家に居る理由がなくなるのだ。
ローレンスは感情が表に出ない。シリルのことをどう思っているのかも、実家に戻るつもりなのかどうかも、その表情から読み取ることはできなかった。
(……あれ……? ローレンスって、ゲームではオールヴァリを名乗ってなかったっけ……)
ゲームの舞台は、魔法学校である王立魔道学院。設定資料では「ローレンス・ラト」となっていたが、シナリオ上では「ローレンス・オールヴァリ」と名乗っていた。そう記憶しているが、プレイしたのがベータ版であったため、製品版は開発段階にあった。どういった理由でローレンスが実家のオールヴァリを名乗ることになったのかは、テストプレイヤーであったシリルにはわからない。それでも、シリルが伯爵家に戻って来た以上、ローレンスが実家に戻ることに問題はないはずだ。
(僕が慣れるまでこの屋敷に留まってくれるのかな。僕は爵位を継いでもやっていける自信はないしな……)
できればローレンスが爵位を継いでほしいと考えているが、シリルはまだ貴族社会の仕組みをよく知らない。嫡男がいる以上、他の者が爵位を継ぐことは難しいのかもしれない。そう考えると、シリルがこの屋敷に引き取られたことはシリルにとって厳しいことだったのではないか、と疑問が浮かぶ。その末に、シリル・ラトは悪役令息になってしまうのではないだろうか。そんなことを考えながら、口の中の違和感を抱えつつ食事を進めていった。
* * *
夕食が散開となると、シリルはミラとともにリビングに移動した。長篠紫音の記憶によれば、貴族社会には「騎士は主と同じ席に着いてはならない」というしきたりがある。ミラがシリルの向かいの一人掛けソファに着けるのは、修道院時代からの友人であることと、シリルがこの屋敷に来たばかりであることが考慮されたらしい。アイレーはふたりに紅茶を出し、湯浴みの支度に向かって行った。
「あなたは修道院ですでにノア・オリヴェルと会ってるけど、覚えてる?」
乙女ゲームで言えば「ヒロイン」に当たるこの世界の主人公ノア・オリヴェルは、設定資料で何度も見たため外見は覚えている。「美少女よりも美少女」と言われていた通り、線の細い儚げな美少年だ。ここが長篠美緒の「趣味全開」の部分である。それを知ったとき、他の作品では随分と我慢していたらしい、と思った記憶がある。
「うーん……あんまり。今朝より前のことは、ぼんやりとしか覚えてない」
「設定としては覚えてるのよね」
「うん。人懐っこくて明るい美少年だよね」
「ええ……そうね」
ミラの声に何か複雑な感情が込められる。シリルが首を傾げると、なんでもないわ、と肩をすくめた。原作者であるミラには、シリルの気付かない何かが気に掛かっているのかもしれない。
「悪役令息は全員から満遍なく嫌われるんだよね」
「設定上はね。これからどういう関係になっていくかはあなた次第よ」
シリルの一挙手一投足によっては、まずローレンスとの関係性が変わるだろう。悪役令息になることを回避することが最重要事項だが、せっかくこの異世界で出会えたのだし、親しくなれればいいと思っている。他の登場人物についても同じだ。積極的に嫌われたいと思う人間など、どこの世界を探してもいないはず。シリルも、嫌われることはできるだけ回避したいと考えている。
「できればみんなと仲良くなれたらいいんだけど……」
「生まれながらに悪役令息なんてことはないはずだし」と、ミラ。「シリルには原作者の私がついているんだから大丈夫よ」
「そうだね。これ以上のチートはないだろうね」
原作者としてだけでなく、シリルにとってミラがこの世界に存在したことが心の支えとなっていた。異世界転生に憧れてはいたが、実際に別人として知らない世界に生まれ落ちたことは、当然ながら不安の伴うことだ。そんな中、若くして亡くした姉がそばにいるという事実が、シリルの心に大きな安堵をもたらしていた。
「シリル様」アイレーが呼ぶ。「湯浴みの支度ができました」
「うん。じゃあ、ミラ。また明日」
「ええ。おやすみなさい」
そのとき、シリルの胸がちくりと痛んだ。それは、姉と交わした最後の言葉。あの瞬間、あの大きな後悔が、まるで波のように脳内に押し寄せる。これは最後などではない。そう自分に言い聞かせても、どうしようもない悲哀が頭の中を占めていた。
* * *
ふと見上げた空を、曖昧な流星が真っ赤な炎を纏って滑り堕ちていく。その軌跡に塵が舞い、灰色の雫となって降り注ぐ。
――ああ、なんて綺麗な世界なんだろう。
鮮明な色彩が繊細に織り成しぼやけて
許されない願いが渇望となって散っていく。
パッと弾けた
揺り椅子に身を委ね、風と遊ぶ嘲笑を子守唄に目を閉じる。
撃ち落とされた鳥の羽が、二度と目覚めぬようにと祈っている。
――……
「本当に殺し屋など雇ってもよろしいのですか?」
そんな声に顔を上げると、赤の向こうで執事が微笑んでいる。案ずるような声とは不釣り合いな表情に、思わず笑みが零れた。
「はい。もうそれしか方法はありません」
壊れて崩れた星が、天井で嘲笑っている。騒音に苛立ち指を鳴らせば、
「いったい何を依頼されるのですか?」
「それは決まってるでしょ?」
侍女がにやりと笑った。確信を持った面持ちに、つられて思わず笑顔になる。
「もちろん、あの憎たらしいシドニー・グレンジャーの暗殺だよ」
冷静な護衛が真っ赤な口で大きく笑う。誘発されて巻き起こった穏やかな歓笑が、空間に干渉してシャンデリアを揺らした。
真っ赤に染まった視界が滲む。果たして、崩壊は止められないのだろうか。
一縷の望み。それは、腐り切った正義。
勝ち誇る毒に冒されて、脳内の血液が泉を作るような夢。
手を伸ばせば届きそうな世界は急速に遠退き、幻惑の微睡の中に消え去った。
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