第1章【6】

「――……シリル様。……シリル様」

 肩を揺さぶられて目を覚ますと、トラインがひざまずいて覗き込んでいた。暖かいリビングの一角。ひとり掛けソファに頬杖をついて、いつの間にか居眠りしていたようだ。

「お客様がお見えです」

 トラインが示した先を見ると、ぼんやりとした視界の端に、男性と少女の足元が映る。確かに客のようだと頷いた。

「……僕の書斎にお通ししてください。いつも通り……あの子に任せて……」

「かしこまりました」

 辞儀をして客のもとへ向かうトラインを見送り、頬を杖に戻す。そうして、視界が灰色に変わっていくのを静かに待った。

 コンコンコン、と軽快なノックに顔を上げる。トラインが客を案内して来たようだ。どうぞ、と声をかけソファから立ち上がると、背の高い男性とポニーテールの少女がシリルの書斎に入って来た。微笑んで出迎えた彼に、少女がきょとんと目を丸くする。

「どうぞ、お掛けください」

 向かいのソファにふたりを促す。男性は見上げなければならないほど長身だが、少女は自分より少し高い程度で目を合わせるのは容易だ。ふたりは不思議そうな、はたまた怪訝な表情でソファに腰を下ろす。彼も元の場所に戻り、足を揺らしながら問いかけた。

「まずは、お名前を教えていただけますか?」

 ふたりは視線を交えたあと、先に口を開いたのは男性だった。

「……ロスだ」

「あたしはメリフ」

「……ロス……メリフ」

 確かめるように呟く。正常に届いているといいのだが。

 トラインが紅茶を持って来てふたりの前に置くので一旦、話すのをやめる。トラインは辞儀をして、ソファの後ろに静かに控えた。

「……表向きは何でも屋、ということでよろしいですか?」

「ああ、そうだ」

「承知しました」

 貼り付けた微笑みで応える。いつでも、どんなときでも微笑みを絶やさないのが貴族の務めである。大人であろうが子どもであろうが、それは変わらない。

「で、お前は?」

 ロスの問いに、こちらの情報を把握した上でこの屋敷に来たのではないかと逡巡してしまったが、それもそうか、と考え直す。

「シリル・ラト代理のニコル・フォン・ターナーです」

「代理?」

 ロスが訝しげな声で言う。ニコルはひとつ頷いた。

「シリル・ラトは、先ほどリビングで居眠りしていた者です」

 トラインは初めに、リビングのソファで居眠りをするシリルのもとにふたりを案内した。書斎にとのシリルの指示を受けたトラインに連れられ、そこでシリルの代わりにニコルが出迎えれば、ふたりにとっては不可解なことだろう。

「詳細はお話しできませんが、シリルは意識が混濁してはっきりしないときがあります。そういったときに出て来るのが僕です」

「シリルの精神体ということ?」

 不思議そうに問いかけるメリフに、うーん、とニコルは首を捻る。

「物理的な存在ではないので、そう言えるのかもしれませんね。なので、話す以外のことはできません。映像と音声はシリルに届きますので、次にシリルと会ったときはそのままお話しできるはずです」

「ふうん……」メリフは首を傾げる。「シリルって幼く見えるけど、何歳なの?」

「それは依頼には関係ないですよね」

 爽やかに微笑んで見せたニコルに、メリフは少しムッとしたように見えたが、それ以上は追及して来なかった。そもそも、依頼主のことはあらかじめある程度は調べているはずである。

「……依頼は」

 ロスに促され、ニコルは左手を宙に向ける。人差し指と中指のあいだに現れた一葉の写真を、すっと机の上に出して見せた。

「単刀直入に言います。彼の調査を」

「調査?」と、メリフ。「この人が何者か調べればいいってこと?」

「はい。僕たちは彼が何者かわからないんです。そのための調査をお願いします」

 メリフが写真を手に取り、つくづくと眺める。写真の人物に、ふたりは心当たりがないようだ。もう少し情報を提供する必要があるだろう。

「彼の名はシドニー・グレンジャー。グレンジャー男爵家の者です」

「何者かわかってるんじゃない」

 呆れたように言うメリフに、ニコルは肩をすくめて見せた。

「それしかわからないということです」

 ロスとメリフが顔を見合わせた。ニコルは微笑みを崩さず、絶やさず、ふたりが頷くのを待っている。

「シリル・ラトとの関係性は」

「それも調査してください。僕たちには、彼が何者かわからないんです」

 わからないばかりで申し訳ない、とニコルは考えてみたが、実際にそうなのだから仕方がない。わからないことは、どれだけ考えてもわからないのだ。

「あたしたちが依頼を受けるには条件があるわ」

 メリフが語気を強める。ニコルは首を傾げて先を促した。

「まず、あなたたちがあたしたちを裏切らないっていう信用が必要よ。シリルがあたしたちを信用すること。シリルがあたしたちを売らないと確信すること。シリルに疑いの目がかからないようにするのと同時に、あたしたちにも立場ってものがあるわ。そのためには、少しでも多くの情報が必要よ」

 早口で捲し立てられ、耳が置いていかれそうになるのを必死で堪える。音声が届くまで、多少なりともラグがある。返答を待っているあいだに矢継ぎ早に言葉を投げかけられると、少々混乱が生じてしまうのだ。

「わかったかしら?」

 溜め息交じりに言うメリフに、ニコルはまた微笑んで見せた。

「なるほど。それは失礼しました」

 メリフはまたひとつ息をつき、姿勢を直す。

「あなたって、なに考えてるかよくわかんないわね」

「何も考えていません」

「それは嘘」

 あながち嘘ではないのだが、と返答を待ってぼんやりしているニコルに、痺れを切らせた様子でロスがひとつ息をついた。

「シリル・ラトの情報を」

「はい。シリルは領地外の町の修道院で暮らしていたところ、ラト伯爵家に引き取られました。シリルの母様、フローリア・ラト伯爵夫人は、病気で先が永くないことを知っていました。フローリア夫人が亡くなれば、ラト伯爵は後妻を娶り、子どもが生まれればシリルと爵位の継承権を争う可能性が出て来ます。フローリア夫人は、その後継者争いにシリルを巻き込まないため、産まれたばかりのシリルを連れて領地を出ました。フローリア夫人は亡くなり、シリルを見つけたラト伯爵がこの屋敷に連れ戻しました」

 ロスとメリフは相槌を打つことなくニコルの話を聞いている。もし他の者がこういった表情をしていれば、ニコルであれば「聞いていますか?」と問いかけているところだ。このふたりが聞き漏らすはずはないというある種の信用のもと、ニコルは話を続ける。

「ラト伯爵を含め、ラト家の者は、シリルが引き取られるより以前にどう過ごしていたか知り得ません」

「……けれど、シドニー・グレンジャーはシリルを知っていた」

 真剣な声色で言うメリフに、ニコルは微笑んで見せた。理解力が高く、洞察力が鋭い。想像力も豊かなようだ。シリルも見習ってほしい、とニコルはそんなことを考えていた。

「依頼はそれだけです。この屋敷の者には気付かれないようにしていただけましたね?」

「ええ。あたしたちのことを知ってるのは、その執事と赤茶色の髪の侍女だけよ」

「ありがとうございます。特に、ミラ・ローシェンナには知られないようにしてください」

 ニコルが声の調子を落とすと、ロスとメリフは硬い表情で頷く。この名前には、すでに心当たりがあることだろう。

「彼女は僕の存在を知りません。知られてはならないのです」

「その点は任せておいて。何でも屋は伊達じゃないのよ」

 ニコルはこのふたりの実力に関して未知数だが、その声には自信が湛えられている。期待を持つのは無駄ではないのだろう。

「ただ、あなたとシリルの信用は必要よ。裏切らないという確証ね」

「問題ありません。僕の目と耳を通して、シリルは現状を把握しているはずです」

 こちらにはあまり期待できないが、そういうことにしておかなければならない。あとでトラインが説明してくれるはずだ。そうしなければ、おそらくシリルに完全に通じることはないだろう。

「あなたの笑った顔って胡散臭いわね」

「それほどでも」

「褒めてないのよねえ」

 改めて微笑むニコルに、メリフはひとつ息をつく。それから、よし、と意気込んで立ち上がった。

「さっそく行こうか、お兄ちゃん!」

「ああ」

 やれやれ、といった様子でロスも腰を上げる。

「おふたりは兄妹きょうだいなんですね」

 ニコルが感心して言うと、うふ、とメリフが意味深に笑った。ロスに視線をやると、うんざりした様子で溜め息を落とす。ニコルにはよくわからないが、一筋縄ではいかないふたりのようだ。






   *  *  *






 夢は綺麗事の空間。世界中から集めた輝きが、失望されまいと瞬いて、抗いきれずに消えてゆく。そんな夜も、嫌いではない。

 所在なく立ち竦むと、宵のカーテンの向こう側で星空が煌めいている。ぽたぽたと落ちた黒い雫が肩に纏わり付く。それは重く、とても重く、体の自由を奪って嘲笑った。

 星屑が堕ちる。三日月がクッキーのように崩れ、雨となって降り注ぎ、眼下の暗い水溜まりで弾けた。

 なんて美しい光景だろう。この世界で生きることができたなら、それ以上に良いことなんてない。

 叶うはずのない切望が、足元を掬った。

「……そうだね」

 誰にでもなく呟く。それは風に掻き消され、きっとどの耳にも届くことはないだろう。

「きっと、きみが正しい」






 ――……






 ――ああ、また遠退いた。これで何度目だ。

 憎悪に埋もれた愉悦が、贅沢な願望を懐いて枯渇する。

 こびり付いた硝煙と、見え隠れする焦燥が、屑につまずいてひざまずく。

 深淵のふちわらう警告音が、まるで張り裂けんばかりに泣いている。

 不快な雑音に眉をひそめ、苛立ちとともに水面みなもを蹴れば、忌々しく赤い雫が飛び跳ねた。

 このままでは息が止まってしまう。いまはまだ、その時ではない。

 一度限りの過ちが、二度目の隠れた燈火ともしびに、五度の頷きをもたらした。

 嗚咽は醜く朗らかに、伸ばした手を落とされて堕落する。

 ――ああ、そうさ。

 ――いつだってきみが正しい。






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