第1章【4】

 中庭では、ジョンが腰を下ろして待っている。シリルに気付いたジョンが嬉しそうに尻尾を振るのが可愛らしい。しかし、腰を上げたジョンが突然、顔を強張らせてひとつ吠えた。それでも、ローレンスとアイレーがシリルの背後に視線を遣った頃には、先ほどと同じ穏やかな表情に戻っている。ジョンが楽しげに飛び付いて来るので、シリルはその愛くるしさに夢中になっていった。

 実家にいたタローは姉のしつけが完璧で、紫音が顔を舐められることを嫌がることはよく理解していた。とても聞き分けがよく、姉の言いつけを忠実に守っていた。だから思う存分に可愛がることができた。そのタローをモデルにしているためか、ジョンがシリルの顔を舐めるようなことはない。シリルに撫でられると、心地良さそうな表情をしていた。

「満足したか?」

 ひと頻りジョンを撫でたシリルにローレンスが問いかけるので、はしゃぎすぎた、とシリルは少々気恥ずかしい気分になった。一人暮らしを始めてからタローに会えていなかった寂しさを思い出し、つい羽目を外してしまった。

「きみが楽しそうでジョンも喜んでいるよ」

 ジョンも存分に撫でられたことで満足げな表情をしているように見える。初対面のシリルを受け入れるほどの人懐っこさに、シリルも心を癒されていた。

「きみ、読み書きは?」

 ローレンスの問いに、シリルは思考を巡らせる。修道院である程度の教育を受けていたため、この世界の文字は頭に入っているはずだ。

「ある程度は……」

「では書籍室に行ってみないか。きみは将来的に伯爵位を受け継ぐ。勉強が必要だ」

 その言葉を聞いた途端、シリルは気が重くなった。深く考えていなかったが、シリルはラト伯爵の実の子だが、昨日より以前まで「行方不明」だった。ローレンスは、後継ぎが行方を眩ませたことで分家から養子に取られたのだ。嫡男であるシリルが戻って来たことで、伯爵位はシリルが継ぐことになる。シリルは、もとから勉強が得意ではない。

(僕は世界を救うために転生して来たとしても、悪役令息であることに変わりはないんだよな……。やっぱり、破滅は防がなくちゃいけない……よね?)

 シリルは背後にいるミラに意識を集中した。心の中でミラに語り掛ける。

《 姉さん。僕が破滅しないために、どう対策したらいいかな 》

《 そのままの紫音でいたら破滅しないんじゃない? 》

 ミラとの心の会話が成功したことで、シリルは安堵を懐いていた。そんなことより、とミラの声に意識を戻す。

《 私はここに来る前からシリルに付き添ってたけど、いまのシリルのままなら悪役令息になるとは思えないわ 》

《 そうなんだ……。じゃあ、シリルが僕だってことには気付いてたの? 》

《 ええ。いまの私たちにとって、ここは現実よ。物語通りにいくとは限らないし、これからシリルがどうなっていくかは紫音次第よ 》

 自分の人生の責任は自分が持つ。それは当然のことであるが、破滅しないように、という点で重圧を感じた。自分の行く末は現在の自分にかかっている。選択肢を間違えられないのはゲームでも同じだが、運命、ともすれば命懸けになるかもしれないと考えると、思わず顔の強張ることだった。


 ローレンスに案内された書籍室は、この一室だけで長篠紫音が一人暮らししていた部屋を凌駕していた。どこを見ても本、本、本……という光景は、オタク心をくすぐられるものだった。長篠紫音は、勉強は苦手だったが本の虫と言えるほどの読書家だった。一人暮らしの部屋も積読があちこちで山を作っていたものだ。

「どんな勉強をしたらいいですか?」

 棚に並ぶ背表紙を眺めながらシリルが問いかけると、そうだな、とローレンスは自分の背より高い本棚を見上げた。

「ラト伯爵家の歴史、ラト伯爵領の歴史、国史、魔法学、経営学、マナー、ダンス……。おおよそ爵位のある貴族に必要な教養は身に付けなければならないな」

 ある程度は覚悟していたが、前世の学校と同じだけの勉強では明らかに足りない。学校の試験ですら散々だった上に、シリルにはあまり知識欲がない。大変な家に来てしまった、と思わざるを得なかった。

 それが表情に出ていたのか、ローレンスは小さく息をついて肩をすくめる。

義父ちちが家庭教師を雇うよう手配している。いちから学べばいい」

「家庭教師……」

 シリルは、その言葉だけで体が強張るのを感じた。忘れたい、忘れなければならない、何度もそう願っていたあの日の感情が、胸の奥で燻っている。ローレンスの心の中を見透かすような鋭い瞳が、その微妙な変化を見逃すはずがなかった。

「街一番の不良と言われているが、義父ちちの教育係の息子だ。気に入らなければ別の家庭教師を雇えばいい」

 小さく頷くことしかできなかったシリルは、ひとつだけ引っ掛かる箇所があることに気付き、ミラに呼びかけた。

《 街一番の不良って……まさか、フランシス・エーヴェルト⁉ 》

《 そういえばそうだったわね 》

 戦慄わななくシリルとは対照的に、ミラはのんびりした口調だ。

 フランシス・エーヴェルトは、ローレンスの言っていた通り「ラト伯爵領において街一番の不良」と囁かれる問題児だ。そして、攻略対象「アウトロー教師」担当である。

《 素行の悪さを矯正するために雇われるのよね 》

《 王立魔道学院の講師じゃないの? 》

《 将来的にはね。悪役令息に悪いことを教えるのもフランシスなのよね 》

 何をのん気なことを、とシリルはミラを睨み付けたくなるのを堪えた。そんな家庭教師を雇ってしまえば、シリルは悪役令息へまっしぐらなのではないだろうか。

《 そんな人に教わっていいの? 》

《 素行の悪さ以外は秀才よ。悪いところを真似しなければいいのよ。それに、彼は大丈夫 》

 原作者である姉には、何かの確信があるらしい。ベータ版でのフランシスは「アウトロー教師」の呼び名が実にしっくり来る、軽薄とも言える性格をしていた。ゲームでは王立魔道学院の授業は描かれていなかったため、その実力が如何程いかほどのものなのかをシリルは知らない。

「そんなに心配するな」

 ローレンスが優しく肩に手をやるので、シリルは顔を上げる。そのとき、自分が随分と渋い表情をしていたことに気が付いた。

「僕も可能な限りサポートする。きみは平民として暮らしていたのだし、無理をする必要はない」

「はい……ありがとうございます」

 シリルはラト伯爵家の嫡男だが、産まれた直後に伯爵夫人が連れて姿を消したため、昨日まで修道院で平民として暮らしていた。一般貴族ならまだしも、突如として爵位のある家の嫡男となってしまった。その差を埋めるには、時間がかかることだろう。

 それにしても、とシリルはローレンスをつくづくと見つめた。

(さすが攻略対象……実に美少年だ)

 ローレンス・ラトはシリルの五歳年上で、現在は十歳だ。もうすでに「美形」が完成されている。ゲームでは「冷徹」とも言える印象であったが、現実では幾分、表情が柔らかいように見えた。

「僕はマナーレッスンがある。きみは自由に過ごしていて構わない」

「はい」

 シリルの肩をまたひとつ優しく叩き、ローレンスは書籍室をあとにする。ローレンスの実家オールヴァリ家はラト伯爵家の分家であり、貴族である。貴族の生まれであるローレンスがマナーレッスンを受けるということは、自分はどれほど過酷なレッスンを受けることになるのだろう。そう考えると、シリルは憂鬱な気分だった。

「お茶をご用意しましょうか?」

 アイレーが優しく問いかける。過酷なレッスンを思い浮かべて渋い表情をしていたシリルを気遣ってくれたらしい。

「じゃあ、お願い」

「かしこまりました」

 柔らかく微笑んで、アイレーは書籍室から出て行く。トラインは自分の仕事に取り掛かっており、現在、書籍室はシリルとミラのふたりきりだった。いまなら心の声を使う必要はない。

「僕はミラを召喚できるんだよね」

「ええ。心の中で私を呼べばいいわ」

「試してみたいんだけど……」

「いいわよ。私は部屋の外に出てみるわね」

 ミラが退室するのを見送ると、シリルは心の中でミラと意識を繋げることを試みた。頭の中で、カチ、とピースが嵌まるような感覚が浮かんだ直後、軽やかな鈴の音とともにミラがシリルのそばに着地する。召喚に成功したようだ。

「どう?」

「なんとなくわかったよ。どれくらい離れていても召喚できるの?」

「同じ世界ならどこでも召喚できるはずよ。いざというときは呼びなさい」

 原作者が近くにいるというだけで充分なチートと言えるが、その上、いつでもどこでも呼び出せるとなると、もう怖いものは何もない、とすらシリルには思えた。原作者はもちろんこの世界のことを知り尽くしている。悪役令息回避は難しいことではないとさえ感じさせた。

「フランシス・エーヴェルトは本当に大丈夫なの?」

「大丈夫よ。家に反抗して悪さをしてるだけで、根は良い人よ。もしあなたに害があるなら、私が伯爵に直談判して辞めさせるわ」

 ミラの表情には自信が湛えられている。原作者である彼女には確信があり、それに加えすでにラト伯爵の信頼を得ているということだ。長篠美緒の人間性が信用できるものであることは、弟であった長篠紫音が一番によく知っている。心強く確かな味方と言えるだろう。

「この世界では私があなたを守るから安心していいわ。そのために騎士になったんだもの」

 貴族の令嬢ではなく騎士であるところが実に姉らしい、とシリルは思った。原作にミラ・ローシェンナという名前の登場人物はおらず、伯爵家の騎士はすべてモブだ。その中に自分そっくりの人物を紛れ込ませ、あまつさえ狙い通りその人物に転生を果たすなど、姉でなければ生まれなかった発想なのかもしれない。シリルとしても、異世界転生という願望が叶ったばかりか、原作者がそばにいるという数奇な運命には感謝するばかりだ。

「ミラは修道院時代からシリルのそばにいたんだよね」

「ええ、そうね」

「どうして主人公ノアのところに行かなかったの?」

「あなたが転生したのがシリル・ラトだったからよ。あなたがノア・オリヴェルだったらそっちに行ったわ」

「そう……。この世界を滅ぼしたレイン・ウォーカーは、この世界の実現を望んだんだよね」

「そうね」

「滅ぼすために実現を望んだ……ってことなのかな」

「その可能性はあるわ。そうだとしたら許せない」

 ミラの拳が震える。ミラは原作者であり、この世界の創造主である。世界の実現までは許せるとしても、滅ぼすため、となると言語道断だろう。

 すべてに目を通したわけではないが、長篠美緒の作品は十数ほどある。「崩れゆく星屑の世界」は長篠美緒の最後の作品で、商業誌化した中で唯一のBL作品だ。本来はBL作家志望だったが、そうでない作品のほうが売れていたためBL作品を書くのはほとんど趣味のようなものだった。

「この作品はゲーム化したこともあって、心の支えにしているところがあったのよね」

「姉さんの最後の作品だもんね」

「ええ。ゲームの完成をこの目で見届けたかったわ」

 ミラは無念の意を表するように肩をすくめる。長篠美緒の病室にはゲームの制作者やシナリオの共同制作者など、多くの人が毎日のように訪れていた。美緒は辛い闘病の中、完成が楽しみ、といつも明るく笑っていた。完成を待たずに生を終えた無念は、察するに余りある。

「僕もベータ版までしか知らないけど、けっこう高評価だったよ」

「あら、嬉しいわ。シナリオは完成していたけど、あなたの人生を見守るのはプレイヤーのような気分よ」

「他人事だなあ。僕は役割としては悪役令息だから、破滅するかもしれないのに」

「そんなの私が許さないわよ。何があっても、今度こそあなたを守るわ」

 ミラの優しい微笑みは、あの頃と何も変わっていない。心を穏やかにしてくれ、安心する。いまは心強さも感じている。未来がどうなるかわからないこの世界でも、姉がいれば大丈夫、と確信を持っていた。

「断罪イベントは王立魔道学院の二年生だったよね」

「ええ。十六歳ね。あと十一年もあれば悪役令息も回避できるんじゃない?」

 ミラは相変わらず他人事であるが、シリルが困窮すれば真っ先に助けてくれるのだろう。プレイヤー気分だからと言って「自分だけでどうにかしろ」などと突き放すことはしない。それが長篠美緒なのだ。

「あなたには幸せになってほしいわ。今度こそ、自分を生きられるようにね」

「……うん、そうだね」

 曖昧に頷いたシリルにミラが首を傾げたとき、コンコンコン、と軽快に鳴ったノックでワゴンを押したアイレーが書籍室に戻って来た。

「お茶が入りましたよ~」

「ありがとう。せっかくだし、飲みながら何か読んでみようかな」

「きっとお気に召す本がありますよ」

 書籍室に並ぶ何列もの本棚には、端から端までぎっしり本が詰め込まれている。この一室だけでいったい何冊になるのかは計り知れず、すべてを読破しようと思ったら何年かかるかわからない。さらに“異世界”の知識が詰まっているとなると、本の虫としては嬉しい悲鳴だ。

「ちなみにですが」アイレーが言う。「このお屋敷には書籍室が三箇所あります」

「えっ……」

「旦那様の書斎にもたくさん本がありますよ」

 アイレーには、シリルが大量の本に囲まれて喜んでいることはお見通しのようだった。シリルには知識欲はないが、本があれば読みたくなる。結果としてそれが勉強に繋がるなら理想的で、シリルの脳がどれほど吸収できるかは未知数である。少し楽しみではあるが、勉強が苦手という意識は変わらない。異世界という点でどう変わるかは、これからこの本たちと向き合うことによって判明していくことだろう。


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