第1章【3】

 朝食を終えると、シリルの私室にアイザックの主治医が訪れた。アイザック・ラト伯爵とローレンスが見守る中、シリルにはよくわからない検査が行われたあと、ふむ、と老医師は顔を上げる。

「魔力回路には依然として異常が見られますが、体調に影響がないのでしたら様子見でも構わないでしょう」

「そうか」アイザックが頷く。「シリル、体調面はどうだ」

「えっと……特に不調はないです」

 いまいち現状を理解しきれていないシリルが曖昧に頷くと、アイザックは少し安堵したように頷いた。シリルには何か体調に影響する不調があるようだが、シリル自身がよくわかっていない。それでも、特に体調に変化はないのは確かだ。

 アイレーが老医師の見送りに出て行くと、アイザックはソファに座るシリルの前に腰を屈め、優しく微笑む。

「体調が悪くなったらすぐに言うように。お前はフローリアの愛する子どもだ。何も我慢する必要はない」

 その温かい言葉に、ふと、何かの映像が頭の中をよぎる。

 ――あたしの世界で誰かに好かれることがあっても、あたしの力による抑制だと思わないでちょうだい。あなたは最初から愛される人なのよ。

 その溌剌はつらつとした少女の声は、あの白い影のもの。シリルは、人から愛されることを望んだ。それは最初から叶っていると教えてくれた。

 ――あたしの世界のことを、あなたはすでになんとな~く知ってるわ。

 どうして忘れていたのだろう。シリルは、あの白い影――この世界の神と約束を交わしたのだ。ぼんやりとした白い影と、あの白い空間のことが思い起こされる。

(そうだ、僕は……)

 自分が誰であるか。自分が成すべきことは何か。すべてを思い出した。あの少女の声の神が、こう言っていたことも。

 ――あなたの転生で世界に干渉して、それをもとにあたしが介入する取っ掛かりを掴むわ。もしかしたら、辛い目に遭うかもしれない。でも、あなたには絶対的な味方がいるわ。その子を探して。たぶん、探さなくても向こうが見つけてくれると思うけど。

「シリル?」

 アイザックに呼び掛けられるので、シリルはハッと意識を現在に戻した。アイザックは案ずる表情でシリルを覗き込んでいる。

「ぼうっとしているな。やはり体調がよくないのか?」

「いえ、大丈夫です。少し考え事をしてしまいました」

「そうか。今日は自由に過ごしてくれて構わない。ローレンスと庭の散歩でもして来るのはどうだ?」

「はい……」

 ローレンスはシリルに対する興味が薄いような表情のままだ。アイザック・ラト伯爵とは違い、まだシリルを受け入れているわけではないらしい。

 先ほど逃げ込んだ中庭は広く、隅々まで手の行き届いた庭園が美しい。名前の知らない色とりどりの花が目を楽しませてくれる光景で、伯爵家の権威を表現しているようだった。

 庭園を散策しながら、シリルはまた思考を巡らせた。

(この屋敷に来たのが昨日なら、僕は悪役令息の五歳の頃に転生したってことだな)

 ベータ版に過去の物語は含まれていなかったが、姉から設定資料を見せられていたためなんとなく覚えている。姉が「趣味全開だから親には見せられない」と言って最後まで隠し通した作品だ。シリルはベータ版をプレイしているところで人生を終えたため、その後がどうなったのかを知る術はもうない。

(前回の転生者が悪役令息レイン・ウォーカーになって、この世界を滅ぼした……ってことだよな。この世界に来ることを望んだのか、それともたまたまこの世界だったのか……)

 神は、詳しいことは世界に入らなければ説明できないと言っていた。それを説明してくれる「絶対的な味方」がどこかにいるらしい。早めに出会えるといいのだが、シリルになんの情報もない以上、発見されるのを待つしかないだろう。

 庭園の中央に、芝生の敷かれた広場があった。ここで昼寝をしたら気持ち良さそうだ、とシリルが考えていると、柔らかい芝生を走る音が聞こえてくる。小さな鳴き声に振り向けば、茶色い毛の犬が駆け寄って来ていた。その犬はどこか柴犬の雰囲気があり、少し垂れた目が優しくシリルを捉えている。

「飼い犬のジョンだ」と、ローレンス。「滅多に吠えないし、人懐っこい穏やかな性格をしている」

「撫でても大丈夫ですか?」

「ああ」

 シリルがそっと手を伸ばすと、ジョンは自分から撫でられに来るように頭を摺り寄せた。嬉しそうに尻尾を振り、すでにシリルを受け入れてくれたようだった。

 その柴犬の雰囲気が、実家にいたタローを思い起こさせる。姉が一番に可愛がっていた。おそらくモデルにしたのだろう。

 遺作となったこの「崩れゆく星屑の世界」は姉が最も気に入っていた作品で、ゲーム化することになったときはとても喜んでいた。しかし、姉は完成を待たずに亡くなってしまった。

 姉の穏やかな微笑みを思い出したとき、視界が滲んだ。止め処なく溢れる涙が頬を伝うと、そばにいたアイレーが慌てた様子で腰を屈める。

「シリル様、どうなさったのですか?」

 肩に手を添えるアイレーの反対側に、ローレンスも地面に膝をついた。

「どうした。寂しくなったのか?」

 修道院の友人のことは、薄情ながらあまり覚えていない。姉が恋しくなったのだ。無慈悲な機械音が響くあの白い光景は、いまでも忘れることができない。

 姉は病気で命を落としたのに、姉の作品であるこの世界は現実世界のひとつとして存在している。そして、自分はその世界の一部として生を受けた。なんて虚しいのだろう。姉はもういないのに。

 姉に会いたい。なぜ神にそれを望まなかったのだろう。それが可能になるとしたら、神の力だけだったはずなのに。

 ローレンスが差し出したハンカチを受け取ろうと手を伸ばした、そのとき――

《 紫音、こっちに来て 》

 懐かしい声が頭の中に鳴り響いた。もう一度でもいいから聞きたいと何度、願ったかわからない、あの優しい声。

 シリルは咄嗟に駆け出していた。驚くアイレーの声に引き留められることなく、屋敷の廊下に飛び込む。左耳に鈴の音が届いた。まるで案内しているような音に導かれ、廊下の端の端に到達する。薄暗い廊下の隅で、誰かが軽く手を振った。その人物に、シリルはハッと息を呑む。

「……姉さん……?」

 重厚な鎧を身に着けたその女性は、長篠紫音の姉――長篠美緒だった。騎士のような出で立ちだが、その優しい微笑みを忘れるはずがない。

「久しぶりね、紫音。実は、私もこの世界に転生したの」

「……ほんとに姉さんなの……?」

「ええ。長篠美緒よ」

 その途端、溢れ出る感情のままに姉に抱き着いていた。いまの身長では腰までしか届かないが、姉は優しくシリルの頭を撫でる。その手付きは、あの頃と何も変わっていなかった。

「いまはシリル付きの騎士として仕えてるわ。名前はミラ・ローシェンナよ」

 年甲斐もなく――いまは五歳だが――声を振り絞りながら泣いた。姉を心から愛していた。姉を看取ったあと、心にはぽっかりと大きな穴が空いていた。もう一度でもいいから会いたいと、何度、願ったことか。

「あんた、馬鹿ねえ。あんたまで死んでどうするのよ」

 呆れた声で言う姉――ミラ・ローシェンナは、シリルの肩をぽんぽんと優しく叩く。それにより、シリルはなんとか気分を持ち直した。ミラの差し出したハンカチで乱暴に顔を拭い、それにしても、と顔を上げる。

「どうして姉さんの外見のままなの?」

「こんなこともあろうかと、自分にそっくりなモブを入れておいたのよ」

「どんな備えなの」

 いまでは「あり得ないこと」と言えなくなったが、異世界転生などというものが現実に存在することはないと前世では思っていた。それが、いまこうして自分が別人として生まれ変わったこと、同じ外見のままの姉と異世界で再会したことで、事実は小説よりも奇なり、という言葉をしみじみと実感していた。

「僕はこの世界の悪役令息ってことでいいのかな。悪役令息の名前はレイン・ウォーカーじゃなかった?」

「ええ。いまこの世界では、原作での差異が生じているの」

 シリルはようやく理解した。この世界のことを説明してくれる「絶対的な味方」は姉――長篠美緒だったのだ。神と同じくらいにこの世界を知っているとすれば、それは原作者である美緒しかいないだろう。

「神には会ったでしょ?」

「うん。細かいことは教えてくれなかったけど」

「そういう契約になっているから仕方ないわね。順を追って話すわ。まず初めに、この世界の実現を望んだ人間がいたの」

 シリルは、この世界の実現を望んだ人間がいるとすれば姉ではないかと思っていたが、この口振りからすると、また別の人間が存在していたらしい。

「その人間が悪役令息レイン・ウォーカーに転生して、この世界を滅ぼそうとしたわ。私がこの世界に転生したのが滅ぶ寸前。神による強制的な転生だったけどね」

 ミラは軽く肩をすくめる。ミラもあの少女の声の神とすでに会っていることだろう。姉はこの世界の原作者で、創造主のようなものである。その点において、神と同等の立場と言えるだろう。

「神は自分の作った世界が滅ぼされるのを防ぐために、私を転生させたの」

「じゃあ、姉さんが病気で亡くなったのは、神のせいなの?」

「まさか。さすがにあの神でもそんな非人道的なことはしないわ」

 怒りに駆られそうになったシリルに、ミラは明るく笑う。それを確かめる方法はないが、彼女がそう言うなら間違いはないのだろう、と思い直した。

「私はこの世界を作ったひとり。この世界を救えると期待したのね。でも……私だけじゃ力不足だった。それだけレイン・ウォーカーの力が強すぎたの」

「そのチート能力は神が授けたものだったんだよね」

「ええ。その力で世界を滅ぼそうとしているなんて思いもしなかったでしょうね。神と私の力で再生に向かわせたのはよかったけど、それ以上に進ませることができなかったの。再生への歯車を回す鍵はあなたの転生。私たちは、それに賭けるしかなかったわ」

 シリルは、自分が死を選んだのは神に導かれたのではないか、と考えてみたが、おそらくそれは姉が許さなかっただろう。彼は自らの意思で死を選んだ。それが偶然にこの世界の滅亡の危機と重なっただけで、それはこの世界にとって残された唯一の好機だったのだろう。それで愛する姉と再会できたのだから、転生を叶えた神に感謝するべきだ、とシリルは考えていた。

「それで、僕はどうすればいいの?」

「具体的にどうということはないわね。シリルの中に、世界を再生する核が埋め込まれているの。あなたの転生をきっかけに、神がこの世界に介入しているはずよ。あとは神の仕事ね」

「そう……。じゃあ僕たちは普通に生きていればいいのかな」

「そうね。あなたは、シリル・ラトとしての人生を謳歌することが役目、かしらね」

 長篠紫音は死んだ。そして、シリル・ラトが生まれた。さらに姉との再会を果たした。これほどまでに良いことは、これ以上にはもうないだろう。

「この世界は、レイン・ウォーカーによってあらゆるものが歪んでしまったわ。それが私たちにどう影響するかわからない。でも、あなたは大丈夫よ。原作者である私がそばにいるんだから」

「姉さん以上に頼りになる人は、この世界には他にいないだろうね」

「ええ。それと、私とシリルは回路同調シンクロしているわ。意識すれば互いに声が聞こえるし、あなたは私を召喚することができるわ」

「そんな便利な設定、あったっけ?」

「いわゆるチート能力ね。だから、安心してシリル・ラトとして生きるといいわ」

 そんなことができるのは、おそらく原作者の特権なのだろう、とシリルは考える。原作者というチートが存在しているのは、シリルにとってとてもありがたい恩恵だ。

「でも、僕は悪役令息なんだよね」

「設定としてはそうね。でも、紫音なら悪役令息にはならないんじゃない? まあ、抑制力はあるかもしれないけど」

 ミラが、気休めでごめん、と薄く笑うので、シリルは苦笑いを浮かべた。

「とにかく、第二の人生を楽しみなさい」

「……うん」

 すべてに失望し、絶望していたあの夕焼けが脳裏から消える日がくることはないだろう。それでも、また愛する姉に会えた。これからの人生がどうなろうと、それだけで充分のようにも思えた。

「あ、そうだ」シリルは顔を上げる。「あと――」

「シリル様!」

 息を切らせながらアイレーが駆け寄って来る。その後ろにはローレンスの姿があった。どうやら屋敷のあちこちを探し回っていたらしい。

「急にどうしたんだ」

「えっと……お腹が痛くて……」

 ミラを見上げると、すでに騎士モードに切り替わっているようで、澄ました顔をしている。この世界にはもう充分に馴染んでいる様子だ。

「この人が様子を見に来てくれたんです」

「もう平気なのですか?」

「うん。もう大丈夫」

「きみが急にいなくなったから、ジョンが寂しそうだ」ローレンスが声の調子を和らげて言う。「もう平気なら戻ってやろう」

「はい」

 ローレンスに促されて中庭に向かうシリルの後ろを、アイレーとともにミラも続く。何も知らない、右も左もわからない環境に置かれていた心細さが、姉の存在に気付いたことで薄らいでいた。

 シリルはさらに思考を巡らせる。この世界の主人公の名前はノア・オリヴェル。シリルと同い年で、平民だが光の魔法を持っている。シリルが昨日より以前に暮らしていた町ですでに出会っているはずだが、どんな間柄だったかよく覚えていない。ゲームの舞台は王立魔道学院。十六歳だったと記憶している。

(幼少期に転生して、悪役令息になるのを回避できる可能性があってよかった。断罪される直前とかだったら、どうにもできなかったかもしれないな)

 ミラの存在があれば断罪をどうにか回避できたかもしれないが、悪役令息の芽はあらかじめ摘んでおくべきだ。ミラの言う通りに第二の人生を楽しむために、悪役令息になるわけにはいかないのだ。




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