第1章【2】
冷たい雨が肌を突き刺す。
いったいどこから来たのだろう。いったいどこへ行くのだろう。いったい、どこに行けるのだろう。
――どうだっていい。僕には関係ないことだ。
ここでじっとしていよう。目を閉じていれば、それでいい。
――そういえば昔、知らない場所で泣いていることがあった。あれはなんだったのだろう。
何も知らない。何もわからない。
『――様はやっぱりおかしいみたい』
窓の隙間から気配がする。それは混沌にも似た悲哀。
――どうして……
『見える物が見えなくて、見えないものが見えているみたい』
目を背けていたはずなのに、重くて拒むことができない。
――どうして、僕は……
『聞こえないものが聞こえて、聞こえる物が聞こえないみたい』
――どうして僕は、おかしいの?
いくら耳を塞いでも、不躾な囁き声は手を擦り抜けて。介入する意思は真実を閉ざし、鐘は虚しく鳴り響く。
何もわからない。わかりたくもない。
そうして身動きが取れなくなる。もう少しも歩けない。
悠然とした
あの流星は最期の煌めき。棺に収まった
澄んだ月明かりに伸びた影が、冷え切った手を優しく握る。
――わからない。僕には、何もわからない。
――……
瞼の裏が白む。明るい光が告げる朝に気が付くと、何かが柔らかく前髪に触れた。薄く開いた視界に、誰かがベッドに腰を下ろしているのが見えた。
「おはよう。よく眠れたか?」
穏やかな声が優しく問いかける。曖昧に頷きながら、数回、瞬きをした。カーテンの隙間から漏れる朝陽に目が眩む。
「どんな夢を見た?」
「……わからない……」
寝覚めでぼやけた視界に人影が浮かぶ。温かい指がするりと目元を撫でた。
「……だれ……?」
「また僕の顔を忘れたのか?」
呆れを湛えた声が、溜め息とともに言う。その顔を確かめようと、少しだけ腕に力を込めた。目覚めたばかりの体が重い。
「僕はシドニー・グレンジャーだ。いつもそう言ってるだろ」
「……ああ……うん、そうだね」
深い逆光に目を細める。顔はよく見えないが、彼は確かにシドニー・グレンジャーだ。何度も確かめているのに、いつもわからなくなってしまう。寝惚けた頭に回転を求めるだけ無駄なのかもしれない。
「……ねえ、シドニー……」
「ん?」
「……どうして……、……ううん、なんでもない」
頭を枕に戻す。何かを考えたところで徒労に終わる。彼には、何もわからないのだから。
「僕は仕事に行く。体調が良くないなら、もう少し眠るといい」
「……うん……大丈夫」
彼が曖昧に頷くのを合図に、ベッドが小さく揺れる。陽を遮るものがなくなり、眩さに痛んだ目を閉じる。窓の音を最後に、意識は微睡の中に溶けていった。
――……
重い瞼を持ち上げても、この眼に映るのはただ無意味な世界だけ。
粗い砂嵐が視界を横切り、横暴な風が体に叩きつける。均衡を崩して瞬きすれば、無数の羽根が埃を立てた。
不快な雑音が走り、不協和音が響き渡り、不躾な叫びに鼓膜が破れてしまいそうだ。
あの煌めきは、償いの白昼夢。熱意の陰に押し出され、漏らした溜め息は肺を冒し、目が眩むような罵倒に掻き消される。
インクの染みは湖となり、濃霧は妖精の囁きに揺れた。くすくすと
こんな世界なら、もう眠りを妨げる必要はない。もう目覚める理由はない。
だからもう、誰も、僕を望まないで。
誰も、希望の名前を知らないのだから。
この星屑の世界で、呑まれるように眠れたら……――
――……
かくん、と頬が杖からずれるので覚醒する。冷え切った室内は眠くなってしょうがない。こんなにも居心地が良いのだから仕方がない。
「お目覚めですか」
赤色の向こうで執事が笑う。この
「ああ、最悪な気分だよ」
金縛りのままに足を伸ばせば、忌々しい蜘蛛が辺りを這う。苛立ちのままに舌を打つと、無慈悲な侍女が踏み潰して醜い声を上げた。
――ああ、塵になってしまった。まさしくお似合いの姿だ。
与えられるはずの幸福は遠く、贖罪の時を目前に、この鈍い頭は解放の瞬間を待っている。
「これであいつは逃げられません」
侍女が三日月の口で
「そうだろうか。逃げられないと言えば逃げられない。だが、逃げられると言えば逃げられる」
「そうね。けれど、あの子に任せておけば大丈夫」
憎悪と愛情の
あの子に任せておけば大丈夫。なんの取り柄もない確信にも似た懇願が、頭の中で鬱陶しく渦巻いて、灰色に切り取られた世界が、いまかいまかと嘲笑う。
――……
ふっ、と目を覚ますと、質素ながらも煌びやかなシャンデリアが、カーテンの隙間から漏れる陽を反射して輝いていた。眩しさに目を細めつつ体を起こせば、天蓋の付いたベッドで寝ていたらしい。
(ここは……病室……にしては豪華な部屋だ。僕は死ななかったのかな)
室内に置かれた鏡台やクロゼット、タンスは素朴な木材で作られた物だが、前世で使っていた粗末な品とは質が違うことがよくわかる。壁紙やカーテンは美しく、一般家庭ではないことが一目瞭然だった。
(でも……視界が変だ。どうしてこんな……)
コンコンコン、と遠慮がちなノックに顔を上げる。静かにドアを開けて室内を覗き込んだのは、淑やかなメイド服の若い女性だった。女性はシリルを見て、ハッとする。
「シリル様、お目覚めになられたのですね!」
首を傾げる彼をよそに、メイド服の女性はばたばたと部屋を出て行く。ややあって戻って来たメイド服の女性は、盛装の男性を連れていた。少し強面の男性は、ベッドのそばに寄って安堵の表情を浮かべる。
「シリル、目が覚めてよかった」
そのとき、彼の脳内にザッと砂嵐が流れた。この男性には見覚えがあるような気がする。何か忘れてはならないことを忘れているような、そんな気がした。
「お前は三日前、この屋敷に来たんだ。それからずっと眠り続けていたんだよ」
そうか、と彼は考える。自分は死んで、異世界に転生して来たらしい。そう考えると、積年の夢が叶ったような気分だった。惜しむらくは、この男性には見覚えがあるような気がするが、自分のことらしい名前と、メイド服の女性に心当たりがないことだ。
「お前は、魔力回路に異常が見られる。眠り続けていたのは、それが原因だろう」
そんな設定も聞き覚えがない。おそらく、まったく知らない世界に来たのだろう、と彼は考えた。しかし、この男性に見覚えがあるというところで不思議な感覚になっていた。
「ローレンスも心配しているよ。とにかく朝食にしよう。あとで私の主治医を呼んでおく」
男性は柔らかく微笑んで、彼の頭を撫でる。その表情から、彼が三日間も眠っていたことを案じ、心から安堵していることがよくわかった。
男性が部屋を出て行くと、入れ替わりに別の男性が部屋に入って来る。いかにも執事然とした眼鏡の男性だ。
「シリル様。お目覚めになられて安心いたしました。ご気分はいかがでしょうか」
曖昧に頷きながらベッドから降りると、ふたりの顔は見上げる位置にあり、小さな足のつく床が近い。自分が成熟の遠い子どもであることがよくわかった。
「えっと……あなたたちは……」
自分の口から発せられた声は幼い少年のもの。激しい違和感に、一瞬だけ脳が混乱しそうになった。
「私は執事のトラインと申します」男性が言う。「この者は、シリル様付き侍女のアイレーです」
「よろしくお願いいたします」
執事トラインは胸に手を当てて、侍女アイレーはスカートをつまんで辞儀をする。その風采は西洋の雰囲気を感じさせた。
彼がこの部屋とふたりの人物について考えを巡らせているあいだに、アイレーが慣れた手付きで彼を着替えさせる。幼い少年であると考えれば当然の世話だが、一般庶民である前世の感覚が消えない彼には、なんとも気恥ずかしいことだった。
鏡台の前に座ると、自分の顔がようやく見えた。さらさらと揺れる髪を肩の上で整えた、儚げな顔立ちの少年である。どこか不安そうな表情をしているのは、知らない世界で目覚めたばかりであるためだろう。
アイレーは丁寧に髪を整えた。柔らかいブラシが髪を撫でるたび、彼はどこか懐かしいような気分になっていた。
「ダイニングへご案内いたします」
トラインが先に部屋を出て歩き出す。部屋の外は壁紙の綺麗な広い廊下で、絨毯も上質な物であると感じさせた。貴族の家の子どもに転生したことの確信を持たせるには充分な状況だった。
廊下には複数人の使用人らしき姿があり、それぞれ彼を認めると丁寧に辞儀をする。高貴な身分であることは彼にもよくわかった。
「まだぼんやりされているようですね」アイレーが優しく言う。「どうか無理をなさらないでくださいね」
「うん。ありがとう」
「何かご不便がございましたら、すぐお申し付けください」と、トライン。「シリル様が不自由な思いをされることを旦那様はお望みではありません」
「わかりました」
旦那様と言うからには、父親と思われるあの男性は高い身分なのだろう。この屋敷に来たのが三日前ということは、彼を養子に取った義理の父なのかもしれない。彼の知識によれば、貴族の家では養子を取るのはよくあることだ。
(この世界のことは知らないし、それはそれでありがたいな)
しかし、トラインに促されてダイニングに足を踏み入れた瞬間、彼は思わず体を強張らせた。テーブルには、先ほどの男前という言葉がよく似合う男性と、端正な顔立ちの青年が着席している。ふたりが口を開く前に、彼はダイニングを飛び出していた。トラインとアイレーが驚いて声を上げるのも構わず、脱兎の如く廊下に駆け出す。
都合の良いことに、すぐ近くに中庭があった。庭園の中に蹲り、彼は頭を抱える。
(あれは……アイザック・ラト伯爵と、ローレンス・ラト伯爵令息……)
あの男性に見覚えがあることにようやく合点がいった。最後の一歩を踏み出す前日、彼の手元にはある資料があった。あのふたりの詳細が記された資料が。
(まさか、この世界は……)
「シリル様!」
アイレーが息を切らせて駆け寄って来る。心配そうな表情をしているが、彼を安心させるように優しく微笑んだ。
「旦那様もローレンス様もお優しい方ですから、ご心配なさらずとも大丈夫ですよ」
「……うん……」
彼の頭の中はそれどころではなかったが、彼が曖昧ながら頷いたことで、アイレーは彼をダイニングに戻るよう促す。彼としても、疑惑を確信に変える必要がある。それは、ダイニングに行くよりほかに方法はなかった。
おどおどしながらダイニングに戻った彼に、アイザック・ラト伯爵は穏やかに微笑む。
「おはよう、シリル。気分はどうだ?」
「はい……特に問題なく……」
優しい表情のラト伯爵とは対照的に、ローレンス・ラト伯爵令息は無表情を貫いている。彼に対する興味が薄いように感じられた。
ラト伯爵の
(間違いない……。アイザック・ラト伯爵と、ローレンス・ラト伯爵令息……。ここは『星屑』の世界だ……!)
闘病を続けていた姉の遺作となった作品「崩れゆく星屑の世界」が、姉の死後、タイトルを「暁を呼ぶ子ども~星屑のせかいで~」と改めゲーム化した。彼はベータ版をプレイしデバッグに協力していたが、それがBLゲームであったことで「原作者の弟」としてなんとなく気恥ずかしく思っていたことをよく覚えている。
状況から考えるに、彼は産まれた直後に伯爵夫人とともに姿を消したラト伯爵家の長男だ。ラト伯爵がようやく見つけて連れ戻す頃には、すでに伯爵夫人は亡くなっている。この屋敷に引き取られたのが三日前のことなのだろう。
(よりによって、この世界に……。いや、問題はそこじゃない……)
記憶との差異はともかく、目の前にいる端正な顔立ちの青年ローレンス・ラトは、攻略対象「クール担当」で間違いない。問題は、現状を可能な限り客観的に分析し導き出した答えが、現在の彼――シリル・ラトは、この世界の「悪役令息」であるということ。姉の遺作のBLゲームの世界の悪役令息に転生してしまったのだ。
(でも……名前が違う。悪役令息の名前はレイン・ウォーカーだったはず……)
彼がプレイしたのはベータ版で、製品版はまだ開発段階であったが、悪役令息という印象的な登場人物の名前が変わることはそうそうないはずだ。
そのとき、頭の中に何か映像のようなものが流れた。
――あなたを異世界転生させてあげる。その代わり、あたしの世界を救ってほしいの。
――もうひとりの転生者が、あたしの世界を滅ぼしたの。破滅を招く悪役令息として。
(……この世界を滅ぼした、悪役令息……)
「テーブルマナーがわからないのか?」
ローレンスの問いかけに、シリルはハッと意識を現在に戻す。考えに耽るあまり、食事に手をつけていなかった。
「テーブルマナーは追々覚えるとして」と、ラト伯爵。「しばらくは気にせず食事を取るといい」
「はい……ありがとうございます」
テーブルにはナイフとフォークが用意されている。前世で何度も使ったことがある物であるため、正式な使い方ができているかはともかく、品がなく見えることはないだろう。その点において、シリル・ラトが前世の記憶を有していることは僥倖であった。
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