第20話 水死怪異の目的
江浪は異能力である五感操作により、自らの痛覚を制御していた。痛覚を完全に切ると致命傷を受けた際に知覚が遅れ、手遅れになってしまう。それを防ぐ為、違和感を覚える程度の痛み以上は感じないように制御していた。
その為、彼の腕はいくら振り回そうが、傷が広がろうが、爪で皮膚を引っ掻いた程度の違和感しか存在しない。
目の前の怪異は、さっきとは違う動きで水を飛ばしてくる。水平に振ったり、振り上げたり、袈裟掛けの様に振り下ろしたりと、かなり乱雑な動きだった。それでも異能力との噛み合いが恐ろしく、飛んでくる水滴は全て凶器と化している為、避けなければ肉体が抉られてしまう。
「死ね、死ねよ」
「あー、クソ、近づけねえなこれ」
痛みがないと言ったものの、怪我自体はしている。さっきの腕に加え、足や胴、顔にまでその切創は及んだ。
全身が少しずつ冷え、思考力が落ちているのがわかる。恐らく血を流しすぎた。足元を確認すると、踏めば音がする程の量の血溜まりがそこにはあった。
「やべえな……。静美、頼む」
「まっかせてー!」
意気揚々と江浪の元に駆け寄る水越。彼の背後に手を添えて目を瞑ると、彼の傷が瞬く間に塞がり、青白くなっていた彼の顔も元通りになっていく。
「あは、はぁ……。やっぱお前の治療、最高……」
「そりゃどうも。んじゃ、続きといこうか」
水越は生気を吸い取らないような、融通が効く怪異ではない。それでも江浪が正気を保ち、かつ普段通りでいられる理由、それは彼の怪異への耐性が強い事に他ならない。
怪異から受ける悪影響のみを遮断し、恩恵だけを得られる体質。それに加えて生来的な喧嘩への高い感性。水越との相性がいいことは明白だった。
「なんだ、お前。怪我が……」
「ああそうさ、痛みを感じない上、怪我を治す女もいる。詰んでんだよお前は」
「死ねよ……死ねよ本当」
再び手を振り、四方八方に水飛沫を飛ばす。先ほどよりも更に広範囲、乱雑に振り回したことで、壁や天井に切り傷が入り、窓ガラスは割れたり、綺麗に切れたりと、周りへも被害を出した。
勿論その飛沫は江浪にも届いており、再び大量の切創と出血をした。
その瞬間に再び水越が手を添え、その全ての負傷を瞬く間に完治させていく。
治癒の速度もかなり早く、その早さというのは、新しい負傷をする前には全身が完治するほどだった。
「大人しく成仏しとけ」
「ほざけ、私は必ずヤツを殺す。神に等しい力の存在、私を救わなかった碌でもない神……。そのなり損ない、端くれを殺す、そのためにここに来た」
「それは、誰のことだ」
ふと、怪異からの攻撃が止む。脱力しきっている腕はぶらりぶらりと肩から揺れ、頭も地面を見つめるように俯き、胴体ごと前後に揺れている。
「蜜坂……。あいつさえ、あいつさえ殺せたら……!」
突然感情的に声を張って、地面を強く踏み締めた怪異に、江浪は一歩下がった。
「蜜坂って、あの食いしん坊か。あれが神のなり損ない、端くれだって?ただの天然女だろ」
「六通使いの怪異……。あいつを殺して力を奪い、私の願いを成就させる……。その為に鞍掛に従った。どけ、私はあいつを殺す。今度こそ殺す。今度は逃がさない。今度は、今度こそは!」
その執念は見た目にも影響を与えた。水の滴る髪が舞い上がるように広がり、やがて毛先の全てが江浪に向けられる。そして徐々に冷え固まったのか、毛先が霜でもついたかのようにほんのり白くなっていく。
「通せ、私はあいつを殺す……」
「殺すなんて言われて、はいどうぞとは言えねえよバカ」
「お前、痛みもなく怪我も治されるんだろう……。それはきっと、気の毒になる……」
「何のことだ」
「今にわかる」
静止していた毛髪が江浪目掛けて真っ直ぐに伸びる。その様は矢を射ったようだった。
痛覚を抑えた上で怪我の即時回復が約束されている彼だが、この髪の攻撃は都合が悪かった。
伸びてきた髪を何とか捌こうとするが、四肢に深い溝が彫られてしまう。それだけなら水越の治癒で何とかなったかもしれない。問題は、一部の髪は肉を貫き、そのまま体に巻き付いて動きを制限された事だった。
「なんだよこれ……。くそ、性格悪いなマジで」
「退かないお前が悪い」
そうして巻きついた髪は怪異から切り離される。しかしそれ自体に意思でもあるかのように、その末端部分も含めて全てが彼の体に巻き付いた。腕と足をガッチリと固められ、尚且つ冷気のようなもので冷え固まっていく。
姿勢を保てなくなった江浪はその場で受け身も取れないまま床にうつ伏せのまま倒れてしまった。
痛覚がないとはいえ、損傷は存在する。この状況がかなり不利であることは彼自身もよく理解していた。
「これはマズイな……。静美、どこまで治療できる」
「傷はともかく、流石にこの髪をなんとかしない限りは、穴は塞げないね」
怪異は、江浪を始末するのに時間がかかると判断したのか、その場を後にするように、再びゆっくりと歩み始めた。
江浪は追うことを諦め、深いため息をついた。その側にいた水越は、彼の様子をまずは見た目でしっかり診察し、一通り見終えた段階で、スッとしゃがんだ。
「見た感じ、とりあえず髪が止血の役割をしてくれてるみたい。だから暫くそのまま寝といたら?あいつの狙いは香奈ちゃんだろうから、とりあえず伝えに行ってくるよ。病室だったよね」
「その筈だ、頼む」
◆◆◆
その頃、破壊された病室の壁の外。
花壇の真上に落とされていた香奈は、服に土や草、花などが潰れて付着していた。一時的に距離を離す為、壁を前にして下がり、花壇の影になる場所にいた。
それを見下すようにして立ち尽くしていたのは八風だった。
「ま、舞さん……。落ち着いてください、私です、蜜坂です!」
「ふふ、大丈夫だよ、わかってる。死ぬのは怖いよね、辛いよね、虐められるのも嫌だよね、悲しいよね……。ふふ、ふふふ……、私が全部終わらせてあげる」
ゆらゆらと迫ってくる八風の手には、月明かりを反射させる何かが握られていた。よく見ると、それは診察室にあったであろう鋏だった。
「一体何があったんですか、おかしいって次元じゃないですよ!」
「私?私はいつも通りだよ。うん。ふふふ、私はみんなが大好きで、大嫌いで、助けるために殺すんだよ、絶対に許さない、人は殺さずに殺す、ふへへ、ははは……」
「いつも通りって……。あなたは誰よりも優しくて、暖かくて、それで――」
「あははは!そう、そうだよ、その通り」
そう言いながら、彼女は手に持っていた鋏を分解し、二つ同時に投げつけた。
香奈の頬を掠った鋏はそのまま地面に突き刺さり、頬は軽く切れてしまい、頬に二本、赤い線を描いていた。
このような、あまりの豹変についていけない香奈だったが、少しだけわかったことがあった。
彼女の発言は無茶苦茶で、支離滅裂といったところだが、ところどころ、本音のような言葉が漏れていることがわかった。その言葉を発する時のみ、表情がほんの少し和らいでいたからだ。
その言葉というのが『みんなが大好き』『助けるために』という、いつもの彼女を思わせる台詞だった。
確信はないが、何か外的要因に晒されたことで、この豹変が引き起こされたと考えたほうが腑に落ちる為、そう結論付けることにした。
だとすれば、晒された外的要因というのは一体なんだろうか、という当然の疑問が浮かぶ。この血塗れの胸と口周りは、決して無関係ではないだろう。この外傷が主な要因だろうが、これ以上は推測が難しい。
それでも、彼女がもつ因果を操る力を考えれば、今自分が生きていること自体が不自然な状況。向こうがその気になれば既に絶命しているだろう。そうなっていないという事は、既のところで自我が保たれていて、ほんの少しの自制心が働いている証拠じゃないだろうか。
香奈は、この予想に賭けることにした。
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