第19話 医療班の二人

 病室へと向かう江浪と水越。二人の足取りはまるで違った。

 江浪はただ真っ直ぐ歩いているだけ。ただし、その姿に隙は無く、どこから何が飛んできても対処できるような余裕と気配、ほんの僅かな殺気を感じる程だった。

 対する水越は、そんなものを一切持ち合わせておらず、楽しそうにスキップをしながら江浪の周りをぐるぐると回るように跳ねていた。

 時折話しかけたりはするが、その度に江浪に適当に返事をされるだけで、会話は成り立っていない。

 ふと、連絡通路が分岐したところで江浪は立ち止まった。

「血痕は真っ直ぐ。うちの怪異が向かった病室方向だとして、左手には湿った足跡。こっちは……ああ、寮部屋か。静美、どっちがいい」

「うーん、真っ直ぐ行ったらうちの怪異……。ってことは、さっきみたいな怪我人に会えるかもしれないと。左に行けば、敵の怪異と対峙するかもしれない、つまりお前が怪我するかもしれない……。うあうあうあ、選べない……」

 彼女は奇妙な声を上げながら頭を抱え、その場に座り込んでしまう。あくまで自分の損得しか頭にない彼女にとって、大切なのは怪我人の有無とその内容だけだった。

「うあうあってお前、どんな声だよ……。わかった、左に行くぞ」

「なんで?」

「うちの怪異が既に戦闘してるなら、俺らは他をあたる方が効率的だ」

「はーい」

 二人は血痕を無視し、寮部屋へと続く方向、左へと進路を変え、湿った足跡のようなものを辿り始めた。

 江浪はこの時点から、相手の怪異についてある程度の推察を済ませていた。

 まず、足跡が廊下の真ん中から始まっている、つまり怪異はこの場に突然現れたという可能性があることが一点。そして、その足跡はその場で一度立ち止まって位置の確認でもしたのか、いろんな方向に足が向いていたことが一点。そして何より、湿り気が一切消えていない事が一点。

 これらから推測し、水が関わる怪異である事と、最初から目標が定まっていて、その方向に向かう事を決めていた、若しくは強いられていたと判断した。

「さて……。お前は俺の後ろにいろ。目標は俺が仕留める」

「はぁッ……楽しみ……!」

 正反対の性格、表情、感情を持った二人は、そのまま薄暗い廊下を進んでいく。

 江浪の眼光は、まさに狩人のそれだった。道標となる足跡の状態を一つ一つ確認しながら、順調に向かう。

 ふと、辺りに不快な臭いが漂っている事に気がついた。この場にそぐわないような磯の香りだった。ただ、血や肉の溶けたような腐敗臭が混ざっている。

 一歩進むごとにそれは増していく。臭いの元は怪異で間違いないだろう。

 そしてこの臭いが、江浪に怪異の正体を確信させた。相手は、海に投身自殺した人間が怪異化した存在。そこそこの崖から飛び降りたことで、海面近くまである岩に直撃、全身を損傷したまま海水に沈み死亡したのだろう。磯と血の臭いは、そんな背景を連想させる。

 体現性か怨恨性かは現時点で不明だが、怪異は名付けをされていない限り、死亡時の姿、若しくは多くの人間の想像に沿った姿をしている。恐らく水越のような、人と見紛う程の姿ではないだろう。

「――――」

「あー……。はいはい、報告にあったやつか」

 彼はこの怪異に覚えがあった。一月前、実働隊の一人を行方不明にし、一人が負傷した際に突然現れたという怪異の唯一の特徴と合致していたからだ。

ってよ、どれだけ恨みを募らせてんだよ」

「バッカだなぁ本当、人間殺してどうするつもりなんだろうね」

「さあな。とにかくこいつは危ない、俺がやる」

 突っ込みっぱなしだった手を出し、握り拳を作って胴体の前に構えた。そのまま道を進んで行くが、先程以上に隙が無くなっており、上半身も軸が振れない程に安定させたまま歩いていた。

「怪異なら殺そっか。治しても楽しくないし」

「端からそのつもりだ。フォロー頼んだぞ」

「あはは……。はぁ、やっとだぁ……やっとお前を治療できる!」

 そして、廊下の突き当たりまでやってきた。ここから先は右にしか曲がれない。足跡の湿り気は最初の物と何ら変化はないが、この角を曲がった先からは足音が聞こえる。間違いなくすぐそこにいる。

 壁に背中を押し当てるようにして屈み、そっと角から顔を出すと、やはりそこには人ならざる存在が、薄暗い照明に照らされていた。

 人の形を保っているのだろうが、背後からはその全貌がわからない。というのも、床に触れそうなほどに長い髪が、背後からの姿を隠していたからだ。

 ただ、その長髪はかなり湿っていて、さらによく見れば、ところどころに白い粒子が付いているようで、黒一色とは言えなかった。

 そんな怪異は、先ほどから繰り返し「殺す、殺す」と呟いている。

「まだ気付かれてない……ならやるか」

 壁から身を出し、目の前の怪異に向かって行く。足音は立てないように慎重に、かつ素早い身のこなしだった。

 そして、彼の短い射程距離に怪異が入った途端、右手を怪異の顔の横を目掛け、勢いよく顔の前まで伸ばした。

「――?」

「おらよッ!」

 そのまま腕を曲げ、怪異の首を引っ掛ける。そのまま怪異の足を、自らの右足で引っ掛けるようにした後に、全体重をかけて怪異の後頭部を床へと叩きつける。

 瞬時に体勢を保とうと、怪異も足をずらそうとするが、すでに彼の足が邪魔をしている為、最早倒れる以外にない。

 一連の出来事はものの数秒、受け身なんて取られる暇は無く、勢いをつけて怪異は床に叩きつけられた。

「――オ前、ナんだ」

「うわ、お前思った以上にエグいな」

 彼の目に映ったのは、肉の半分が溶けたか食われたかで消滅している女性の姿だった。顔の半分ほどの範囲は真っ白な骨が露出し、残った皮膚も真っ白。ただし、皮膚の方は水気を吸ったように膨れ上がっている。体の四肢もそのような状況となっているが、特に目を引くのが、胴体の穿たれたような大きな穴で、横たわっている床がはっきり見えるほどに大きい。

「水死体、土左衛門か。予想通りだな」

 一旦後退、距離を取る。窓からは月明かりが差し込み、怪異の姿をより鮮明に照らした。

 後頭部を叩きつけられたにも関わらず、何事もなかったかのように立ち上がる。まるで効果がなかったようで、気にする素振りもない。

「……オ前も、殺す」

「やってみろ、死に損ない」

 そうして改めて構え直し、怪異との距離を測りながら立ち回る。しかし相手の動きが鈍いとか、遅いとか、そういう次元じゃなく、動こうとしない。

 その様子にもどかしさを覚えた頃、ふと怪異の足元の湿り気が増している事に気がついた。

 ただそこだけが濡れたとか、そういうことではなく、立っている位置から円形に濡れたような跡が広がっていた。

 さらに怪異をよく観察すると、手指から水滴のような物が滴っている事に気がついた。最初からそうだったのかはわからないが、嫌な予感がしてならない江浪は、攻めから守りを固める構えに変えた。

「お前も、死ね」

 その瞬間、脱力しきって垂れていた腕を、まるで鞭のように振り上げた。あまりの速さに空気を割く音が辺りに響く。

 そして、江浪の腕から鮮血が飛び散り、壁、天井にまでその飛沫が及んだ

「殺す、殺す……生きてる人間、幸せな人間、充実した人間、殺す……」

 彼の腕は、骨が見えるほどの切り傷ができてしまい、血はとめどなく溢れていた。

「水圧カッターかなんかかよ、ふざけてんなマジで」

 当然飛んできたのはただの水滴、それを振りかざし、ぶつけただけではならない。相手の異能力ということだろう。

「だけど残念、こちとら痛みが無えんだわ」

 腕の切創、そこから滴る血を物ともせず目の前の怪異に突っ込んでいった。その表情は鋭いままだった。

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