第5話 滝塚市太白プラント事件―地上編①
【時刻:数日前 視点:???】
数多くのデスクが並ぶ、真っ暗な部屋の片隅。オフィスチェアにもたれかかる彼女の手には日記帳がある。デスクライトの灯りを頼りにして、切れ長の目が文字を追う。
以下はその内容だ。
三か月くらい前の筆跡。
最近、疲れが取れにくくなったような気がする。よく眠れないのかしら。そういえば、変な夢を見たような気がする。内容は思い出せないけど……
二か月くらい前の筆跡。
最近、静原さんと目が合うことが多くなったような気がする。元々他人とのコミュニケーションをとりたがらない子だったけど、最近は他の研究員の方とも積極的に会話するようになったし、これはいい傾向なのでしょう。
……私の前だと若干怯えているような印象を受けるのは気のせいということにしましょう。そんなに怖いかしら、私。
彼女はため息をつく。
怖いのは日記の主ではない。その背後にいるアレだ。
彼女は気を取り直して頁をめくる。
一か月くらい前の筆跡。
原さんと野崎さんが会話しているのを見た。内容は聞き取れなかったけど、深刻な話だったのかしら。表情が二人とも堅かった。でも、心当たりがないのよね。
光合成の効率を上げる研究についても実用化の目途が立っている。その他の研究について、進行度はまちまちとはいえ、今のところは問題ないはず。
……考えていても仕方ないか。私は私でやることをやらないと。
そういえば、また変な夢を見ることが増えた気がする。誰もいない実験室で、何か不思議なことをしている夢。あれって、私がやっていることなのかしら。いや、流石にそれは……。
事実だよ、と彼女は呟く。そうじゃなかったら良かったのに、と独り言ちる。
三日くらい前の筆跡。
夢に見た光景が目の前に広がっていた。そんな馬鹿な。私じゃない、あんなことをしたのは私じゃない。できない、あんなことできないよ絶対……。
真新しい筆跡。
今日も研究をしなくちゃ。これは私のためであり、あの方のためでもあるのだから。
彼女は頁をめくり続ける。しばらく白紙が続く。
そして日記の最後まで到着した時、彼女は日記を取り落とした。開かれた頁には、日記の主とは異なる筆跡が刻まれていた。
――当該生物について、支配下に置いた。白痴の王を招来する準備も整った。後は、どれだけの人間を生贄に捧げることができるか。
面白い。
この人間も中々に手強かった。それ以外は面白くもなんともないが。決行は明日。奴隷どもを魔術で呼び寄せ、その隙に生贄を募る。そうすればあとは白痴の王が来るのを待つばかり。
「最悪だ」
もっと早くこれを見つけられれば良かったのに。
彼女の呟きは、研究室の闇に吸い込まれて消えた。
♦
【時刻:午後二時 視点:水戸瀬敏孝】
ここは、過去に新興住宅街のモデルタウンとして発展してきた地方都市、滝塚市。
その西側に聳え立つ、白い壁にガラス張りの近未来的な建物の名前は、理化学研究所滝塚市プラント。
滝塚市太白区に存在し、日本における最先端の研究を行っている施設である。
そして水戸瀬敏孝は理化学研究所滝塚市プラント、通称太白プラントの廊下を歩いていた。
いつものスーツ姿ではなく、ネイビーのニットにグレーのスラックス。
隣には結婚六年目の妻、
いわゆる家族サービスである。
時間が無さ過ぎて、研究所の見学ツアーを選ぶところが残念ではあるが。
「それにしても、スマートフォンの持ち込みまで禁止とは。厳重なセキュリティだな」
「それだけ機密性の高い研究をしているんでしょ」
「パパ―! だっこー!」
「はいはい。よいしょっと」
水戸瀬は日葵を抱っこする。そのまま三人は階段を下り、一階へとたどり着いた。
太白プラントは二階までが吹き抜けになっている。研究員が行き交うエントランスホールを、水戸瀬たちはゆっくりと並んで歩く。
「本当は県外に行く予定だったんだけどな。今日しか休みが取れなくてすまん」
「いいよ。こんどうめあわせをしてもらうから」
「そういう言葉、どこで覚えるんだ?」
「プリ〇ュア!」
「そっかー」
女児アニメの影響は馬鹿にならない。日葵はそのまま現行のプ〇キュアについて大はしゃぎで語り始める。
その時だった。
唐突に窓という窓、入り口という入り口にシャッターが下りる。同時に警報が鳴り響き、各所に設置されたスピーカーから機械音声が流れだした。
「緊急事態、緊急事態。全出入口を閉鎖いたします。職員は各研究室等、安全な場所に避難してください。警備員の方は、状況の確認と民間人の避難誘導をお願いいたします。繰り返します。緊急事態、緊急事態……」
何があったのかわからず呆然とする者、閉じたシャッターをかきむしる者、誘導に従って二階に避難しようとする者など、様々な者がいる中、地下へ向かう階段の方から、悲鳴と破壊音が聞こえた。
「怪物! 怪物だ!」
誰かが叫びながら二階への階段へ駆けていく。
恐怖が伝播した。
群衆が我先にとその後を追う。邪魔者を突き飛ばし、己が助かることだけを考えて階段に向かう。
そして、警備員が地下への階段へ向かうと同時に、水戸瀬たちの近くに何かが落ちてきた。
「見るな!」
「ひっ……!」
体をくの字に折り曲げられた人間だ。だらしなく開いた口から垂れ下がった舌と、衣服に滲んでいく赤黒いシミが彼の現在を物語っている。
水戸瀬は泣き叫ぶ日葵を抱きかかえ、莉緒の手を引いて二階への階段を目指す。
人々の狂気は加速し、我先にと二階へ上がろうとする人々は互いを傷つけあってでも逃げ出そうとする。さらに響く破壊音。この場は地獄と化した。
「ねえあなた! どうなってるの!」
「わからん! とにかく上へ逃げるんだ!」
水戸瀬たちは恐怖に追い立てられながら走る。手近な階段ではなく、あえて遠くへ。それが功を奏したのか、そちらにはほとんど人がいなかった。
「早く! こっちです!」
階段の手前にいた、若い男性が叫ぶ。ネームプレートを首から下げていることから、どうやら太白プラントの研究員のようだ。水戸瀬たちは顔を見合わせると速度を上げた。
その時である。必死に走る一人の男が、後ろから莉緒にぶつかった。衝撃で彼女はよろめき、男もまた、バランスを崩して転倒した。
「きゃっ!」
「大丈夫か!」
水戸瀬は右手で日葵を抱え、左手で妻を助け起こす。その瞬間、後ろから触手が迫ってきた。莉緒は立ち上がろうとするが、左足に力を入れようとして崩れ落ちる。
「痛っ……!」
「足を怪我したのか!」
「ごめんなさい。あなたと日葵だけでも……!」
「馬鹿なこと言うな。任せろ」
水戸瀬は日葵を莉緒に預け、自らの腰に手を伸ばす。そして、普段ならあるはずの何かを掴み損ねる。
「あ。今日非番だったわ。仕方ねぇな……」
水戸瀬が頭をかいている間に、床スレスレから触手が迫る。水戸瀬は横に転がるようにしてそれを回避した。獲物を捕らえようと、しなる鞭の如く触手が追撃してくる。水戸瀬はそれを蹴りで払った。
すると触手は鎌首をもたげる。その隙に莉緒は日葵を抱えて歩き出す。
横目でそれを確認し、水戸瀬は右手を前に出して触手に手招きする。
「来いよ。遊んでやる」
二度、三度と触手が水戸瀬に迫る。彼はそれに絡み付かれないよう細心の注意を払いながらいなしていく。
すると、この獲物は手強いと判断したのか、触手は急に向きを変え、先程莉緒にぶつかった男の方に向かった。触手は、恐怖でもつれる足に瞬時に絡み付く。そしてそのまま物凄い力で引っ張った。
「助けてくれ! 死にたくないいいいいいいいいいいっ!」
水戸瀬は男に手を伸ばそうとするが、全く間に合わない。男の声がフェードアウトする。
「……すまない」
水戸瀬は何かを振り切るようにして走り出す。そして、足を引きずっていた莉緒に追いつくと、二人を抱き上げた。そのまま階段へと向かう。背中から聞こえてくる悲鳴に急かされる様に、彼は最上階を目指した。
――続く
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