第六話 ミディアムロースト
容姿が持っていかれてしまったとはいえ、どうやら俺が鏡を見たときにだけそう見えてしまうというだけのようで、他人から見れば、いつもと変わらないように見えているらしい。
ただ、他人からも色や形の認識がすり替わっていて……とか、イロハさんは少し難しい話をしていたけれど、とにかく、直ぐにどうこうなってしまうわけではないようだ。
それよりも心配なのは彩音だ。
顔の皮一枚切られただけで容姿を失ってしまうのなら、腹を切り裂かれた彩音は一体どれだけ影響が及んでいるか検討もつかない。
もしかして……意識が戻らないのって、つまりそういうことなのか?
……いや、今は深追いしないでおこう。
分かりもしない事を永遠と頭でぐるぐる回して、精神をすり減らすのは相手の思うつぼだ。とにかくお医者さんの連絡を待ちながら、今できることを一個ずつこなそう。
――なんか俺、嫌に落ち着いてんな。
昨日までは何かにつけてキョロキョロしたり、卑屈だったり精神不安定だったりしたけど、結局あれはさっきイロハさんに解いてもらった術式のせいだったのだろう。
その証拠に、今俺はキッチンに立って呑気に珈琲を淹れようとしている。
ウチは豆から挽く本格派だ。昔父親が買い揃えた機材を使って、今では俺が毎朝ミル挽きの珈琲を楽しんでいる。
「イロハさん、ミルクと砂糖はどうされますか?」
居間にあるキッチンから、カウンター越しに縁側に腰掛けている赤髪の後ろ姿まで声を投げかける。
「甘いのが好きなので、ミルクも砂糖も多めでお願いします」
やはりイロハさんの声は良く通る。
俺なんて結構声を張り上げないとなのに、彼女の声はそこまで声量が無くてもハッキリと聞き取れてしまった。
そんなやり取りをしているうちに、火にかけていたポットからシューッという甲高い音が鳴り始める。
すぐに火を切ると、棚からドリッパーと紙フィルターを取り出して抽出の準備を始めた。
小さい頃、やり方を教えてもらった時に、「お湯が湧いてから準備してたら冷めちゃわない?」と、父さんに疑問を投げかけたことがある。
そんな俺に、「沸騰してすぐは逆に熱すぎるから、こうやってわざと冷ますのさ」と、父さんは得意げに答えてくれた。
ただ、豆の種類や状態によって、抽出するときに最適な温度は千差万別だとも言っていたから、一概に全ての豆に当てはまるやり方ではないらしい。
珈琲は酸味、甘み、苦みのバランスを上手く管理しつつ、ミルクや砂糖なんかでアレンジを加えながら至高の一杯に仕上げるっていう娯楽だ。
豆によってはそのままブラックで飲んだほうが美味しいものもあるし、変わり種だとスパイスやハーブなんかを入れて飲んだりする物もある。
こうやって毎日のように飲んでいると、なんとなく父さんがのめり込んでしまった気持ちが分かる気がする。珈琲は本当に奥が深い。
紙フィルターを折って広げて円形を作ると、ドリッパーにセットして先程挽いた豆を入れ、丁度良い温度になったポットのお湯を、できるだけ豆の粉に直接当てるようにして円を描きながらモコモコと育てていく。
ある程度育ったら、お湯を含んだ豆を大体三十秒くらいこのまま放置してじっくりと蒸らす。
ふと視線をあげると、縁側に居たはずのイロハさんが、カウンター越しに座って目の前のドリッパーをじっと眺めていた。
ドタバタ続きであんまりそこまで見ていなかったけど、イロハさんは少し変わった服装をしている。
上半身は和服っぽい見た目だけど、下半身はショートパンツだったりブーツを履いていたりと、至ってラフなスタイルだ。
未来ではこういうのが流行ってるのかな……?
「へぇー、こんなに膨らむんだ……」
物珍しそうに眺める彼女がドリッパーから視線を此方へ向けると、何かを思い出しているのか、少し遠くを見つめるような目になる。
「あの、改めてなんですけど。助けてくださってありがとうございました。さっきだって、イロハさんが来てくれなかったら……」
「――多分、殺さなかったと想います。奴らは」
碧眼を細め、表情を硬くして彼女は言う。
「で、でも、今にも俺の顔を……」
「釣られたんです。私が助けに入るってわかってて、奴らはあなたを囮に使った」
イロハさんは腰に差してあった刀を取り出して更に続けた。
「あの黒いのは、同じ攻撃を三回受けると、それに対して概念的に抗体を得ます。それが斬撃であっても、打撃であっても、言葉、音とかでも関係なく、です」
それを聞いて、俺は脱衣所でイロハさんに刎ねられた首が最後に言い残した言葉を思い出した。
――イヒ……ニカイメ……イヒヒヒヒ
「私は色んな時間軸を旅しながら奴らと戦ってきました。でも、最後までとっておいた刀での攻撃を、ここに来て既に二回、使わされてしまっています。次にもし同じ事があれば……」
彼女の言葉の含みにあわせ、俺はゆっくりと息を飲む。
「私達は、もう勝てないかもしれません」
ドリッパーに水滴が落ちる音がやけにうるさく感じた。時計の秒針の音も、風に揺れる葉音もいつもより騒がしく部屋に響く。
気が紛れるようにと、俺はとりあえず残ったお湯で温めておいたカップに珈琲を入れ、角砂糖二個と、カップミルクを注いでイロハさんへ差し出した。
「俺、見られてるんですよね……? アイツらに」
問いかけに、彼女は珈琲を一度啜ってからゆっくりと頷いて続けた。
「私は奴のことを(オブザーバー)と呼んでいます。そして、私は奴らの今回みたいなやり口も良く知っている」
「やり口……?」
イロハさんはもう一度珈琲を口に含み、今一度味を確かめるように更にカップを唇へ運ぶ。
俺もそれに習って珈琲を飲んだ。
……あれ、意外と今日は上手く行った気がする。温度も完璧だし、余分な雑味も出ていない。
会話の緊張感も相まって、余計に鎮静作用が体に染みるのかもしれない。
俺がカップの半分を空ける前に、気付けばイロハさんは全部飲み干してしまっていた。
「おかわり、いかがですか?」
「……へっ? あ、ごめんなさい美味しくって……。いただきます」
彼女は顔を赤くしながらカップを此方へ差し出した。
ポットに少量の水をいれて手早く沸騰させると、さっきと同じようにカップを温め直し、角砂糖をまた二つ転がしてミルクに手をかける。
「あの、今度は、ミルク無しで飲んでみたい……です!」
突然の申し出にちょっとだけビックリした。イロハさんは真面目なときと普段通りの時でかなりキャラにギャップがあるらしい。
俺は言われた通りにミルクを入れずにイロハさんへカップを手渡した。
「ミルク無しなら、熱いうちに飲みきっちゃってください。冷めると不味くなっちゃうので」
彼女は俺の言う通り、手に持ったカップを早々と口元へと運ぶと、珈琲を飲む度にイロハさんの表情がやんわりと緩んでいった。
すると、珈琲を味わう彼女の目から、一粒の光が肌をつたってテーブルへポタッと落ちる。
「い、イロハさん……? どうかされましたか?」
「――⁉️ ご、ごめんなさい。何でもないんです……」
その時察した。でも、おそらくそれは触っちゃいけないタブーみたいなもので、だから俺もイロハさんには聞かないし、多分イロハさんも俺には教えてくれないだろう。
俺がそれ以上何も言わずに居ると、今度は彼女のほうから硬い表情で話し始める。
「蘭さん、突然なんですけど、私のお願いを聞いてもらってもいいですか?」
「お願い……?」
彼女は珈琲を飲み干してその場から立ち上がると、空いたカップを見つめながら口を開く。
「私は、この珈琲の味を失いたくありません。甘くて、香ばしくて、鼻に抜ける余韻とか、喉に広がる華やかな温もりとか……」
彼女の言葉に誘われるように、縁側のほうから柔らかい風が居間を通り抜けてキッチンまで届く。
その流れに連れられて、早朝の静寂を優しく照らす朝日が部屋の中へ差し込んだ。
「だから、私と一緒に戦っていただけませんか?」
「えっ、いや、でも。俺はもう、刀すらまともに握れなくて」
「――もちろん知ってます」
俺が口ごもるのを、何処までも通る声は鋭く遮った。
「ご両親のことも、お体のことも。決して簡単なことじゃないってわかってます。でも……」
イロハさんは俺に向かって手を差し伸べながら表情を和らげて更に続けた。
「私を信じてくださるのなら、必ずあなたを助けてみせます」
俺は勢いにまかせて手を伸ばそうとしたが、あと数センチというところで止まってしまう。
たかが数センチ、伸ばしてしまえばすぐだってことは俺にも分かってるんだけど、俺にとってこの数センチは途方もない距離だった。
「少しだけでいいので、時間を貰ってもいいですか?」
「えぇ、もちろんです」
結局、俺は彼女の手を握ることは出来なかったけど、イロハさんは満面の笑みでそう答えてくれた。
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