第五話 水鏡
「うわあああ!」
叫び声をあげながら体が跳ねた。いや、飛んだのか? 一回転したようにも思えたけど、それにしては普通にベッドに座っている。
息が切れ、動悸が酷い。全身からは汗が吹き出している。一体何があった……?
視界のボヤけが取れてくると、ようやくいつも通りの寝室であることに気が付く。どうやら夢に
「やっぱりおかしくなってんな俺……」
思わず口に出してしまった。本当にどうかしてる。俺も、今のこの状況も……
ともあれ、まずはシャワーでも浴びよう。
昨日は疲れ果てて何もしないままに寝てしまったせいで、体中がベタついて気持ちが悪い。
階段を降りて居間に入り、座卓の上に置いてある時計に目をやった。時刻は早朝の六時を過ぎた頃のようだ。
昨日帰ってきたのが確か夜の十時くらいだったから、八時間ほど眠っていたことになる。
疲れていたとはいえ、普段から考えれば少し寝すぎなくらいだ。それで変な夢を見てしまったのかもしれない。
一人で納得した俺は、そのまま居間を通り過ぎて脱衣所へ入ると、服を脱ぎ捨てて洗い場でシャワーを頭から被った。
その時、何処で聞いたのかは忘れてしまったけど、「風呂は人生の洗濯だ」という言葉を思い出した。
「そういや、最近湯船に浸かってないな……」
洗い場で体を洗いながら、水の張られていない湯船に目をやってそうぼやいた。
うちにはかなり広い露天風呂がついてるんだけど、その広さのせいで湯船にお湯を張るのにもなかなか時間がかかる。その上掃除だって一苦労だ。
昔はよく家族みんなで入っていたけど、両親が亡くなって、俺と彩音しか居なくなってしまってからは殆ど風呂を沸かしていなかった。
たまには湯船に浸かってゆっくりしたいけど、今はそんなことしてる場合じゃない。
さっさと体を洗って泡を流した俺は、垢すりタオルをギュッと絞って水分を抜くと脱衣所へ戻った。
浴場の戸を閉めた時、なんとなく目がチラチラすることに気付く。恐らく天井に取り付けてある
中身の魔石を交換すればすぐ元通りになるだろうけど、確か買い置きはなかったはずだ。次に買い物に出た時は忘れずに買っとかないと……。
頭の中でメモ書きをしながらバスタオルで体を拭き上げると、用意していた着替えに袖を通して洗面台の前に立った。
ウチの洗面台には大きな窓がついていて、今みたいに歯磨きなんかをしながら外の景色を眺められるようになっている。
丁度朝日が差し込んでくる頃合いで、前日の雨で濡れたモミジバフウの葉がキラキラと光っていて綺麗だった。
窓の横に吊るしてあるカレンダーに目をやると、今日――八の月の一日目――に赤い丸がついていて、その下に(登校日)と書かれている。
「やっべ忘れてた……」
俺と彩音が通う学校は、丁度一学期が終わって長期の連休に入っていた。
大体九の月の一日目までが休みになるんだけど、一ヶ月ちょっともある連休のうち、生徒の様子を見るために一日だけ登校日が設けられている。
様子を見る、というのはおおよそ建前で、本命は宿題を提出させることだったりするんだけど……。
宿題に関しては、連休が始まった時点で全て終わらせてある。ただ、彩音のことをどうやって説明しようかを全く考えていなかった。
この際、正直に伝えてしまおうかとも思ったけれど、あんな事件、普通に話しても信じてもらえるとは到底思えない。
そこまで考えたあたりで、さっき見た夢の内容がふと頭の中を
ちょっと言いにくい話だが、俺は学校でイジメを受けている。理由はまあなんとなく分かってもらえると思うけど、他人と違うっていうのは大概に悪目立ちが過ぎる。
こうなることを予見していたのか、両親は俺が小さい頃から刀の扱い方を教えてくれた。いわゆるところの(剣道)ってやつだ。
しかし、子供は体の発達とともに(
人間はこのプラーナを通して魔術を行使する。
原理とかそこらへんはあんまり詳しくないけど、空気中に浮かぶなんたらって粒子を呼吸によって吸い込んでなんたら、みたいな感じだったはずだ。
小学生まではまだ良かったんだ。体が未発達な分、いじめっ子相手にも剣術でどうにでも対抗できた。
でもプラーナを使えるようになった奴らにはさすがにもう手も足も出ない。
それに、子供っていうのはあまりにも過ぎた力を手に入れてしまうと、それを試したくて仕方がなくなる生き物だ。その標的は自ずと俺に向けられた。
考えただけで腹が立つ。ただ、別にいじめっ子に対して腹を立ててるわけじゃない。
そりゃ殴られれば痛いし、ムカッと来ることだって多いけれど、一番苛立たしいのは、こんなに理不尽な目にあってしまうほど弱い自分自身だ。
……そういえば俺、夢の中で自分の顔を思い出せずに居たっけか。
丁度隣に大きな鏡が有る。試しにどれだけ情けない顔をしているか拝んでやるとしよう。
歯磨きを終え、口を濯ぎ終わると、俺は鏡の前に立って自分の顔を覗き込み――絶句した。
「イ……イヒ……イヒヒヒヒ……」
鏡の中から、昨日俺達を襲った絶望がこちらを覗き返していた。そして次の瞬間には左の頬に鈍い痛みが走る。
恐る恐るそちらへ目をやると、俺の顔をかすめた刃物のような闇の手が、背後の壁にしっかりと突き刺さっていた。
「ビックリ? ビックリ? イヒヒ」
言葉……なのか? 音というよりは頭に直接響くような、不気味な声でそう聞こえた。
「キミ……オヤノコジャ……ナインダヨネ? イヒヒヒヒ……ヒトリ? サミシ? イジメ……イヤ? イヒ……イヒヒヒヒ!」
身の毛がよだつとはまさにこの事だろう。なんでこいつは俺の出生のことまで知ってんだ……?
なんなら彩音にだってまだ話せてないんだぞ。なのになんでコイツがそれを……。
「アヤネ……? ハナシ……シテナイ?」
「は、はぁ⁉️」
やばい。こいつは本当にやばい。
今わかった。この闇は俺の心が読めるんだ。そしてそれは別に対峙してる時だけじゃない。
恐らく、俺の夢の中を覗いていたんだろう。だから両親のことまで……。
闇は鏡面する世界からノロリと身を乗り出すと、もう一方の手を液体のように捏ね上げ、刃物に作り変えて俺の顔面へ向ける。
「い、一体何なんだよ! お前は!」
俺が声をあげた矢先、闇の首元を刀の切先が勢いよく貫いた。
持ち手側を見ると、脱衣所へ駆け込んできたイロハさんが、その手に握る刀でしっかりと首を捉えている。
「
彼女がそう唱えると、刀の刃を纏うようにして赤い閃光が走る。
するとその刹那、閃光と共に上へ振り上げられた刃に合わせ、目で視認できる(斬撃)が闇の首元へ走った。
黒塗りの首はコロコロと脱衣所の奥へ転がっていき、頭を失った体は鏡の縁にもたれかかるようにぐったりと動きを止める。
「イヒ……ニカイメ……イヒヒヒヒ」
部屋の奥から顔だけで笑う闇は、そう言って体と同時にどこかへ消えてしまった。
「だ、大丈夫ですか⁉️」
昨日、裏山で出会った時とは別人のように慌てふためきながら駆け寄ってくるイロハさんに、「頬をちょっと斬られたくらいなので、大丈夫です」と応えると、彼女は顔を青くした。
手を俺の顔に添えて注意深く傷口を確認したイロハさんは、指で頬の傷をなぞるようにして傷口を治してくれた。
「ちょっと目を見せて下さい。動かないで」
そう言って、彼女の大きく見開かれた青い瞳が俺の顔のすぐそばまで迫ってくる。
ゆっくりと時間をかけて目の奥を入念に確認したイロハさんは、何かに気がついたように目を丸くしながら俺の顔に手をかざし、呪文のようなものを唱え始める。
「――我、魂の罪を
呪文とともに何かの魔法陣が目の前に形成され、同時に俺の体から黒くねっとりした何かがにじみ出ると、大気中へとモロモロと消えていった。
「恐らく、自白を促すような術式をかけられていたようです。何か心当たりはありませんか?」
ギョッとした。昨日から執拗に自分の素性について考えてしまっていたのもそれが原因だったのだろう。
確かに頭がすっきりしたようなきがするし、考えが混濁することもなくなっていた。
「さっきイロハさんが来る前に、ヤツに話しかけられたんです。次々に心の中を言い当てられて……」
俺の証言に、あまり芳しくないような反応を見せたイロハさんは、少し考え込んてから、「蘭さん、一度ここへ立ってもらえますか?」と、俺に鏡の前へ立つように促した。
さっきの今だ。あまり気乗りはしなかったが、言われるがままに鏡の前に立つ。
最初はまた闇が出てこないかとビクビクしていたが、鏡に写ったソレは闇よりもっと悍ましく、そして、俺はもう逃げも隠れもできないのだと思い知らされる事となった。
そこに写し出されていた物、それは、さっき俺を襲った闇のように黒く塗りつぶされた、シルエットだけの俺の姿だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます