第七話 クロワッサン
コンコンタクシー。俺がコイツに乗り始めてからどれくらいが経ったろうか……。
五年か? いやいやそんな短いわけないだろ。じゃあ十年? いやあもっともっと……。
んーダメだ、思い出せん。最近こういうの増えたんだよな。こう……思い出したいことがパッと出てこないっつうか、なんつうか……。
年を取るとどうもいかん。体力も落ちるし、それこそ物覚えなんて年々悪くなる一方さ。
だが、案外悪いことばっかりって訳でも無いんだぜ。
例えば、今みたいにこうやって、コンビニエンスストアの駐車場に車を止め、缶コーヒーを飲んでサンドイッチを頬張りながらゆったりとラジオを楽しむ。みたいなひと時の良さは、おじさんになってみないと分かんないもんだ。
……突然だが、(おじさん)ってなあ何時からがおじさんなんだろうか。
気付いた時にゃあおじさんしてた気がしてならんが、俺にだって若い頃があったんだろうなあ……。はー青春してぇぜ……。
と、おじさんがどうでもいいことを一人でボヤいてると、キラッキラの女子学生三人組が、制服姿で談笑しながらコンビニから出てくるのがボンネット越しに見えた。
「かー! 青春してんなあ! おいおい!」
どうせ誰も聞いていないんだ。こんなふうに大声出したってへっちゃらさ。
――何やってんだかなぁ……。
ほんと、年なんて取るもんじゃねえ。
そう思いながら微糖の缶コーヒーを啜っていると、さっき出てきた女子学生の一人が他の二人に手を振って真っ直ぐ此方へ歩いてくる。
――まさか、今の聞こえてたか……?
さすがにそんなこたぁ無いだろうと思いながらも、若干気不味く縮んだ俺が座っている運転席の窓を、少し大振りな荷物を持った女の子がコンコンと優しくノックした。
「どうもっ、乗ってくかい?」
ドアガラスを下げて俺が声をかけると、女の子は運転席に置かれたサンドイッチと缶コーヒーを見て「あっ」と声を漏らしながらそのまま続けた。
「ごめんなさい休憩中でしたか……? もし大丈夫であれば、
車窓越しにそう訪ねてきた彼女は、如何にも青春を謳歌する女子中学生そのものだった。
短いスカートに袖をまくったブレザー姿で、黒髪に合う落ち着いた新緑色の瞳をこっちへ向けてくる。
「オーケーオーケー、気にしなさんなお嬢ちゃん。ほら乗りな」
そう言って後部座席のドアを開けると、彼女は笑顔で社内に座った。
「繁華街のパン屋っつったら、あれか? いっつもいい匂いのする赤レンガ造りの」
「あ、そこです! 親父にお使い頼まれちゃってて、終わったら帰りも乗っけてもらっていいですか?」
彼女の言葉に軽く相槌を打つと、俺は小さくなったサンドイッチを口の中へ放り込んで車を出した。
しっかし今日はいい天気だ。昨日一昨日と雨続きだったせいか、やけに日差しに照らされる街並みがキラキラ輝いてやがる。
そんな景色を見て改めて思うが、やっぱり楓宮はとにかくいい国だ。俺ぁ西側の国でも(サバナ)の出身なんだが、あっちと違って暑いわけでもなく、西のもう一つの国(コルド)みたく寒いわけでもねぇ。
気候は常に一定だ。まあ、そのせいで今みたいなお昼時は適温すぎて眠くなっちまうがな……。
ふわっと出そうになる
すると、丁度此の時間にやってるラジオ番組で面白そうな特集が始まった。
――今日のトークテーマは『
「あ! 運転手さん、ラジオの音量上げてもらってもいいですか? 好きなんですこの番組」
目をキラキラさせながら身を乗り出す彼女の言う通り、俺はカーラジオのつまみをグイッと回した。
「ほおー、珍しいな。お嬢ちゃんくらいの歳でもラジオなんて流行ってんのかい?」
「流行ってる……訳ではないですけど、私は好きです! 同級生はテレビとかケータイばっかり見てますけどね……」
軽めのショートヘアーをゆさゆさと揺らしながら、熱心に答えてくれる彼女をミラー越しに横目で眺めつつ、車は七番住宅区を抜けて殺風景な田園地帯へと入った。
「オーパードっつうと、出どころが分からねえのに昔からそう呼ばれてる……みたいな言葉を全部ひっくるめてそう呼ぶんだっけか? 確か略語で、正式名称は……。アウト……オブ……えーと……」
「アウトオブプレイスワード。略してオーパード。です!」
思い出せずにボソボソつぶやく俺に対して的確な返しを見せる女の子は、カーラジオの向こうで話すディスクジョッキーが説明を入れる前にそれ――オーパード――について解説を始めた。
「例えば、私がさっき言ったケータイとかテレビもそうだし、同じ系統だとスマホ、電話なんかもそうですよね。なんでそう呼ばれてるか分からないけど、なんとなく私生活に馴染んでる言葉。なんていうか、ロマン感じません?」
熱い視線をいなすように、俺は軽めの笑いで相槌を打つ。ま、お客さんのこういう会話に付き合ってやるのもタクシードライバーの務めだ。
それにしても、言われてみりゃあオーパードって色んなところにあるよな……。
ガキの頃に学校で習ったっきりあんまり意識してなかったが、楓宮の街並みとか服装とかも、(和文化)って言うんだっけか? その和ってのもどっから来てるのかわからんらしい。
俺はこの和文化が好きでサバナからこっちに引っ越して来たようなもんだ。なんつうか、柔らかいっつうか、懐かしいっつうか……。母親に似た温かい気持ちにさせてくれる。
それに、和服を着た女の子は美人でいい。
今乗ってる彼女みたいな制服姿とか、王都で流行ってるような所謂(モダン)っぽい服装も嫌いじゃねえが、和文化ってのはなんとなく
と、ラジオを聞きながら楓宮の良さに思いを馳せているうちに、気付けば目的地のすぐそばまで来ていた。
「はいよ、着いたぜ。ここで待ってればいいかい?」
「はい! あ、先に往復分のお金払っておきますね」
スカートをひらつかせながら俺の手にポンとお代を渡すと、女の子は荷物を持ってパン屋の中へと入っていった。
「うーん。青春だねえ……」
さっきまでの賑やかさのせいか、俺の独り言がやけに車内に響くような気がした。
それにしてもここはいかん。いかんぞ? さっき女の子が降りた時に一瞬ドアが空いただけなのに、車内が既にパンの焼けるいい匂いでいっぱいだ。
俺ぁパンよりコメ派なんだが――と言いながらさっきサンドイッチ食べたけど――パンだって別に嫌いなわけじゃないし、なんなら好きだ。
まあ、年を取ると、最悪食えりゃあなんでも良くなってくるが、そういうのは本当にダメな歳の取り方だ。
食に対してのモチベーションだけは失っちゃいけない。と、四十過ぎのおじさんはそう思う。
――コンコン。
気付けばさっきの女の子が運転席の窓をノックしていた。
座席のドアをあけると、座った女の子は俺に向かって、なんとも抗いようのない本能に訴えるような香ばしい香りを放つ包み紙と、紙製のタンブラーに入った温かい飲み物を手渡してくれた。
容器の側面には手書きでカフェラテと書かれている。
「え、こんなん貰っちゃっていいのかい?」
「もちろんです! さっきお昼邪魔しちゃったし……」
そう言いながら彼女も同じ包み紙を手にとり、くしゃくしゃと開いて中から湯気を放つソレを口いっぱいに頬張った。
「んー! やっぱここのクロワッサンは最高!」
彼女に習い、俺も包み紙を開いていかにも焼き立てであろうクロワッサンと対面する。
実は俺、クロワッサンあんまり好きじゃないんだよな……。
美味しさは分からなくはないが、水分の持っていかれようと、表面のパリパリが喉に
貰った手前そんなことは口が裂けても言えんが、まあここは可愛い女子中学生のために美味しく頂くことにしよう。
と、クロワッサンを片手でおもむろに口に運び――驚愕した。
「ん⁉️? な、なんじゃこりゃあ⁉️」
思わず声が出た。気持ち的には昔テレビで見たギャグアニメのように目玉も飛び出る程の旨さだ。
一体何をどうしたらこんなに旨いもんが作れるんだ? 外はパリッパリだが、その皮を歯が貫いた瞬間、口内から鼻へ向かって濃厚で芳醇なバターの香りが駆け巡る。
それに、さっき俺はなんて言った? 喉が乾くだって? 冗談言っちゃいけない。なんならむしろ潤うくらいだ。
中の生地にパサつきなんて微塵も感じず、固形物というよりは流体に近いトロトロの香ばしいバターペーストのような滑らかさだ。
そんな幸せを体現するように柔らかな生地を噛めば噛むほどに、さっきのバターの香りが身体全体に染み渡っていく。
そして俺は気づいてしまった。今まで食べていたクロワッサンは偽物だったんだと……。
「ね? ね? 美味しいでしょ?」
至極の旨さに酔いしれる俺に、彼女は強く同意を求める。
「美味いを通り越してこいつぁやべぇ……」
心の底から声を漏らしながら、バターの進軍に屈服した我が体内へ優しい味のするカフェラテを流し込む。
もはや何も言う事はない。ただ全身に幸福感が溢れ出るようなしっくりくる味だ。
「カフェラテも美味いな……」
「あ、そうそう。ここのパン屋さん、コーヒー豆も栽培してて、全部自家製らしいですよ?」
とんでもない情報を聞いてしまった。俺ぁ毎日缶コーヒーを三本も飲んでいるくらいにはコーヒー中毒者なんだぞ。
どうやらとんでもないお店に出会ってしまったらしい。
そして俺は本当にどうでもいいことにここで気付いてしまう。
「このクロワッサンもカフェラテも、立派なオーパードじゃねぇか……」
お互いに手を止めて「確かに」と頷きながら笑った。
まさかこんなところにも居るとはな。
目の前に広がる和文化と融合した近代的な街並みも、行き交う車も、人々も、何から何までヘンテコな世界だが、俺はこんな世界がわりと気に入っている。
タクシー業ってのはそういうヘンテコを楽しむ仕事でもあるのさ。今こうやって、お客さんとお茶してるみたいにな。
「あれ、そう言えばお嬢ちゃん、お使いはいいのかい? 見た所他になんにも持ってなさそうだけど」
「え、お使いならきちんと済ませましたよ?」
不意に思い出した俺の問いに彼女はあっさりと答えながら、学生鞄の中へ手を突っ込んで財布を取り出すと、中から手のひらサイズの紙ぴらを俺へ手渡しながら続けた。
「ここには包丁を届けに来たんです。私、七番住宅区で鍛冶師やってる、刀匠
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