第二話 漫ろ雨

 ふわりと広がる薬品の香り、清潔感のある床や壁、忙しなくあちこちを駆け回る看護師さん達。


 やはり、昔からどうしても病院の雰囲気には慣れない。というか、慣れていないほうが普通だとは思うけど、それにしたって俺は人一倍苦手なほうだと思う。


 壁に施された子供向けの絵や飾りも、待ち時間に遊べるようにと用意されたおもちゃの数々も、至る所に「病院は怖い場所じゃないよ」という、お医者さん達からの気配りが散りばめられているが、俺の苦手意識は、施術せじゅつに対しての恐怖とかそういうよくある理由じゃない。


 じゃあどうして苦手なのかというと、原因は俺の癖にある。


 子供の頃から――今でも十分子供なんだけど――他人の目線を気にしてしまう癖が抜けなくて、ついつい誰かに見られてるんじゃないかと周囲をキョロキョロと見てしまう。治したいとは思ってるんだけどこればっかりはなかなか矯正が利かない。


 それだけ聞くと、ただ神経質なだけなんじゃないかと思われるかもしれないけれど、問題はそこじゃなくて、他人を頻繁に気にするって事は、つまりそれだけ多く他人の情報が自分の中に入ってきてしまう事になる。


 少し話は変わるけど、この前ラジオで「実は、意外と人間は他人の事なんて見ていない」みたいなゴシップネタが、実際のところは本当なのかという検証企画をやっていた。

 

 調査の対象は、俺が今住んでいる東側の国(楓宮ふうぐう)から少し離れたところにある(王都おうとノーブル)の住人から選ばれた約500人だそうで。その中の七十パーセント近くが「あまり見ていない」と答えたらしい。

 

 こういう企画は眉唾物だし、いくら世界の中心国だからって、他の四大国でも同じ結果になるとは限らないけれど、もし本当に大半の人間がそうなんだとしたら、俺もそうなりたいと切実に思ってしまう。

 そのくらい、他人の事情や心情が胸に突き刺さるのは痛くて息苦しい。

 

 具体的にどういうふうになりたいかっていうと、丁度俺の幼馴染に、三島みしまなぎさっていう同級生の不良少年が居る。


 そいつは俺とは真逆の性格で、いつも楽観的で何事も深くは考えず、良い意味でも悪い意味でも後先の事をまるで気にしない。そう、あれくらいが俺の理想だ。

 

 小さい頃から、俺は汀のそんなところが羨ましかった。今思えば、だから友達になろうと思ったのかもしれない。

 

日百合ひゆりさん……? 大丈夫ですか?」


 手術室の前に設けられたベンチに座り、放心状態で目の前の壁を眺めていた俺を気遣って、恐らく中年くらいの看護師さんが声をかけてくれた。

 

「――えっ、あっ、ごめんなさい……。体調が悪いとかではなくて」


「よかった。何かあったらいつでも呼んでくださいね」


 優しい看護師さんはそう言い残してその場から去っていった。


 気遣いの気持ちはとっても有り難かったけれど、今の一瞬で過酷な現実に引き戻されてしまったようで、なんとも複雑な気持ちだ。それでも、心は少しだけ楽になった気がした。

 

 大怪我をした彩音が手術室に入ってからもう六時間近く過ぎていた。イロハさんにかけてもらった治癒術のおかげもあってか、お医者さんが言うには命に別状は無いらしい。

 

 その言葉を思い出してまた一つ安心した矢先、脳の空いたスペースに割って入るかのようにイロハさんの言葉がじんわりと蘇る。

 

 ――お二人は今から一ヶ月後、さっきのあの黒い妖異によって殺されます。

 

 あの時――闇を前に人生を投げ出してしまったあの時――は、奴が本当に絶望の化身に見えていた。実際のところ、本当に俺の感情が生み出してしまった化け物なのかもしれないが、もし一ヶ月後、またあんなものが俺達の前に現れるのだとしたら、間違いなく今度こそ二人揃って殺されるだろう。

 

 イロハさんは、未来の世界から俺達二人を守るためにやって来たと言っていた。俺もそういう時間遡行物のお話は大好きだけど、マジで時間を渡り歩いてる人を目の当たりにするとは思ってなかった。

 というか、今でも本当なのかと疑ってしまう。

 

 とはいえ、あの人が居なかったら俺と彩音は今頃亡骸になって裏山に転がっていただろう。仮に嘘だったとしても、あの人には感謝してもしきれない。

 

 その上あの状況で、俺達に嘘を付いてイロハさんが特をする状況がいまいち思い浮かばない。


 あの闇が、実はイロハさんが自分で召喚した精霊で、わざと俺達兄妹を襲わせて助けたフリをした。なんて筋書きも無くはないのかもしれないけど、それにしたって彩音にかけてくれたあの治癒術は――魔術素人の俺から見ても――どう考えても普通じゃない。


 彩音はあの時、胸元から腹部にかけて抉り取られるように切り裂かれていた。

 しかしイロハさんの治癒術は、光で覆った傷口を瞬く間に塞いでいき、体感では受けた傷の半分以上が魔法陣一つで治ってしまっていた。


 かけた本人は応急処置だと言っていたけど、窮地に追いやられるような傷を殆ど治してしまう治癒術なんて、おとぎ話ですら聞いたことがない。

 

 それに、治癒術に限った話ではないけど、魔術を起動させるにはそれに見合うだけのコストが必要だ。


 大体はそこら辺で取れる魔石ませきなんかを使うらしいけど、たかが石ころ一つで目玉が飛び出るほどの値段がする。


 そうなると、金銭目的だったとしても利益にはならないし、なんなら赤字だ。


 今思い返してみると、そもそもイロハさんは手を翳しただけで彩音の傷口を塞いで見せた。

 

 待てよ? よく考えてみれば、魔術って人間の手だけで起動なんて出来ないはずじゃ……?

 

「日百合さん。終わりましたよ」


 考え事にふけっていた俺に、お医者さんが手術着姿で声をかけてくれた。

 

「本当にありがとうございます」


「容態は安定していますが、意識がまだ回復しないんです。このまま集中治療室で様子を見る形になります」


 そう言って、お医者さんは部屋の中へと戻っていった。

 俺はその頼もしい背中にもう一度深々と頭を下げながら、「よろしくお願いします」と伝え、さっきまで座っていたベンチへもう一度腰かけた。

 

 するとそこへさっき声をかけてくれた看護師さんがすぐにやってきて、これからの流れについて丁寧に説明してくれた。


 どうやらここからは長期戦になるらしく、既に時間も遅かった事もあり、一旦自宅に帰ってお医者さんからの連絡を待つことを勧められた。


 彩音に心細い思いをさせてしまわないかと少し気が引けたが、「お兄さんがへばってちゃ元も子もないですよ」と諭され、納得した俺は言われた通りに一度帰宅することにした。

 

 玄関口の受付で必要な手続きを済ませて外に出ると、まだ涔涔しんしんと雨が降り続けていた。雲の感じからして、これは当分止みそうにない。

 

 ここへ来る時はイロハさんに転移魔法で連れてきてもらったけど、帰りはどうするかを全く考えていなかった。

 

「タクシーで帰るか……」


 誰に向かって言うわけでも無く口からそう零すと、おもむろにタクシー乗り場へ足を向ける。

 

 冷静に考えると、転移魔法なんてそんなに簡単に使っていいのか……?

 

 確か、職が失われる可能性があるとかなんとかで、転移魔術を開発した企業が行政になんたらされて……、みたいな話をこの前ラジオで聞いた覚えがある。

 

 と、そこまで考えたところで、あの人――イロハさん――は本当に未来からやってきたのだと思い知らされる事になる。

 

 何故なら、今丁度到着したタクシー乗り場に設置されている掲示板に、ラジオで取り上げられていた企業についての新聞記事が掲載されていたからだ。

 

 記事によると、転移魔術を開発したというのは真っ赤な嘘で、金銭目的の詐欺グループだった事が発覚したらしい。

 

 もし仮に転移魔術なんてものがこの世に誕生してしまったら、物流や交通のあり方が一気に変わってしまうだろう。それくらい、あまり詳しくない俺でも簡単に想像がつく。

 

 しかし、それが使えてしまうイロハさんは、おおよそ本当に未来から来た人なのだろう。

 

「マジかよ……」


 少しの間、掲示板を読むのに夢中になっていると、そこへ一台の黄色いタクシーがやってきた。

 

 車体の上部には何故か狐の耳が付いていて、側面には大きなステッカーと共にポップな字体で名前のようなものが書かれている。

 

「コンコン……タクシー……?」

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