天泣編(完結済)
第一話 鉄砲雨
数十秒か、数分か、或いは数時間。いや、多分そんなに時間は経ってないはずだけど、俺は自宅の裏にある山の中で雨に打たれ続けていた。
雨、といよりは霧に近いのかもしれないけど、密度と質量のある微細な雨粒が大気中にびっしりと充満し、肌に張り付いて体温をどんどん奪っていく。
「おい生きてるか……? しっかりしろ!」
大声で必死に呼びかけるが、胸元から腹にかけてバックリと切り裂かれ、息をするのもやっとな妹から返事は帰ってこない。
彼女を抱えた両腕は赤黒い液体で真っ赤に染まり、気づけば足元の地面には雨でも拭いきれないほどの血溜まりが出来ていた。その規模が増すほどに、手に伝わる体温も酷く冷たくなっていく。
どうやら人間ってのは、あまりに信じ難い光景を目の当たりにすると、そのショックを和らげるために他の物事に注意をそらすように出来ているらしい。
――晩御飯の支度はしたか? ――戸締まりってしたっけ……? ――あれ、火、つけっぱなしじゃないだろうな? と、今関係の無いどうでもいいことがふつふつと脳の隅から湧いて出てくる。
そんな、何処をどうとってもどうにもならない俺達を、妹の腹を引き裂いた眼前の闇にまみれた(何か)はじっとりとした湿り気のある笑みを浮かべながら眺めていた。
容姿の大半は黒塗りで細部までは分からないが、体型と服装のシルエットから見て十代の女性だろう。手には体よりも大きな鎌を握り、白くボヤッと光を帯びたハッキリとしない目と口を動かして表情を作り上げている。
「にい……ちゃ……ん……」
目の前の恐怖に意識を吸い込まれそうになっていた俺に、腕の中の妹が口から血を吹きながらたどたどしい声を投げかけてくる。
「声を出すな! 血の出過ぎで本当に死んじまうぞ!」
「……ぃ……げて……」
声に力は無く、雨音も相まってほとんど聞き取れない。が、妹が俺に何を伝えようとしているのかはすぐに分かってしまった。
「……に……ぇ……て……」
もう訳が分からない。頭の中がショートしそうで、何かを考えようとしても雲のように散り散りになっていく。
そりゃあ、俺だって出来ることならすぐにでもこの闇に背を向けて、全力で走って逃げ出したい。そう。出来ることならもうとっくにやってるんだ。
「にぃ……ちゃん……おぇ……がい」
必死に呼びかける妹の声が耳に入る度に、目から吹き出すように涙が出る。泣いてどうする? 泣いてどうにかなるのか? ならないだろ。でもどうやってもこの竦んだ足じゃ、俺と一歳しか変わらない十二歳の女の子を抱えて走るなんて不可能だ。ならどうする……?
俺は今一度、眼前に佇む闇に目をやった。その異形はゆっくりと俺達の前までやってくると、目を細めながら口角をねっとりと上げる。
時折口を開き、何か言葉を発しているようだったが、謎の雑音混じりの声で発せられた音は全く言語として聞き取ることが出来なかった
そう、絶望だ。不意に俺の頭にこの二文字が浮かび上がった。この闇は全身でそれを体現していた。
頭の中で、皮肉にもそう納得した時、希望なんて微塵も存在しないこの理不尽な状況に、何故か根拠のようなものを感じてしまっていた。
「俺に対しての……罰なのか……?」
意図せず漏れた俺の言葉は、底の見えない異形の暗闇へと飲み込まれていく。絶望は何も答えることは無く、両手で大鎌を握りしめて大きく振りかぶった。
終わった。そう確信した。
俺は全身の力を抜いて目を閉ざした。諦めたんだ。もう助かる道は無い。たとえ助かったとしても、本当の意味でこの絶望を遠ざけることは俺にはできない。
思い返してみれば、今こうして目に見える形で現れたというだけであって、俺の人生にはコイツが体現する(絶望)が常に隣に居た。
三年前に両親を亡くし、他に身寄りもなかった俺達は二人きりで今まで生きてきた。
お互いに精神的にも、肉体的にも余裕なんて持てる訳も無く、そのせいか、最近は妹との仲も決して良好とは言えず、何かにつけてぶつかりあってばかりだ。
そんな、何もかも上手くいかない人生に、俺は幼いながらに諦めがついてしまっていたのかもしれない。
目の前にあるこの災厄は、俺が絶望に対して立ち向かうことを辞めてしまった事への罰なのだろう。
腹をくくってしまえば楽なもんで、さっきまでのパニック状態とは打って変わってとても清らかな気持ちだった。これから俺はその大鎌で首を刎ねられて死ぬ。もうそれでいいじゃないか。
全身を脱力し、俺はただ潔くその瞬間を待った。
人は死ぬ寸前、今までの人生を走馬灯のように見ると聞いたことがあるけど、どうやらそれは本当らしく、今まで経験してきた事が頭の中を猛スピードで駆け抜けていく。
あれ、もしかしてもう死んだのか……? いや、まだだな。まだ呼吸が出来る。雨音も聞こえる。雨粒が肌を打つ感覚も、血が腕を伝う感触も、まだはっきりと感じ取れる。
奴が大鎌を振りかぶってからどれくらいが経っただろう……?
さすがに長過ぎると思った俺は恐る恐る目を開いた。すると――。
「……へ……?」
衝撃のあまり、口の筋肉を動かす前に喉が鳴った。大鎌はとっくに振り下ろされていたが、その鋭利な刃を、何処からともなく現れた見知らぬ女性が刀一本で受け止めていた。
絶望を前に堂々と刀を操るその女性は、腰丈ほどある真っ赤な髪を揺らしながら片腕で軽々と鎌の刀身を撥ね退けると、体制を崩した相手の懐へ透かさず潜り込み、鎌を握る両腕を下段から上空へ斬り飛ばした。
抵抗する術を失った闇は成すすべなく女性から大きく距離をとると、あやふやなその顔でばつが悪そうに表情を歪める。
「ここは一旦引いたほうがいいと思うけど。どう? まだやる?」
よく通る透き通った声で赤髪の女性が闇に向かって投げかけると、言葉が理解出来たのか、闇はそのまま木々の暗がりへ溶けるように姿を消した。
「貴方は……一体……?」
自分でも情けなくなるほど怯えた声に、女性は背中で反応を示すと、注意深く周囲を見渡した後で俺達に駆け寄った。
彼女はすぐに妹の傷口にその碧眼を向けると、痛々しい姿を見て眉間にシワを寄せる。
「ごめんなさい。もっと早く来れてれば……」
女性は口を開きながらも手早く妹の首元から脈をとり、抉れた胸元に手をかざして魔法陣を起動させた。
すると優しい新緑色の光が妹の傷口を包み込み、忽ち血の勢いは止まり、傷口もゆっくりと塞がっていく。
治癒術で痛みが和らいだのか、引き攣っていた妹の表情は穏やかになっていき、そのまま気を失ってしまった。
「これで、すぐに危なくなったりはしないはず……。私には応急処置しか出来ないので、近くの病院まで運びます。場所は分かりますか?」
突然の出来事続きで頭が追いつかず、女性からの問いかけに、上手く言葉を発して答えることが出来なかった。
ゆっくりと落ち着いて言葉を紡ごうとしても、やはりブツ切りになってしまう。
半ばパニック状態で頭を悩ませていると、目の前の女性は穏やかな表情で俺の頭を優しく撫でながら、「落ち着いて下さい。もう大丈夫ですから」と俺をなだめた。
ただの一言だったが、ほんの数分前の絶体絶命の状況から開放された安心感も相まって、涙腺の留め具が弾け飛ぶように涙が溢れ出た。
「あり……がとう……ございます。助けてくれて」
啜り泣く俺を見て、女性は俺の背中に右腕を回して抱き寄せ、俺と妹を優しく包みこんでくれた。
その時、自分でもどうかと思うが、この見知らぬ女性に対して母親に似た母性を感じてしまった。
それほどにまで心が疲弊してしまっていたんだと思う。女性の体はとにかく柔らかく、暖かかった。
安心感で心が満たされながらも、女性の体に触れた瞬間にもう一つ気づいたことがある。
どうやらこの女性には、左腕が無いらしい。
元からそうなのか、後天的でこうなってしまったのかは分からないが、どちらにせよ大層不便だろう。
ましてや戦いに至っては不利でしかない。
それでも、対抗する力のない俺達の前に立って刀を振るってくれた女性に対して、心から尊敬の念を抱いた。
「私の名前は、イロハって言います。
俺は目を丸くして女性の顔を覗き込んだ。
間違いなく面識はない。けど、何故か他人のような気もしない。
過度な緊張で感覚が麻痺してしまっているのかもしれないが、一概にそうとも思えない。
名前を知るくらいならいくらでも手段はある。でも、上手く言葉では言い表せないけど、そういう小細工的なものでは無い繋がりをこの女性に感じていた。
女性の問いに俺は一つ頷くと、彼女は穏やかな表情から一転し、真剣な面持ちになってゆっくりと話し始めた。
「信じられないかもしれませんが、お二人は今から1ヶ月後、さっきのあの黒い妖異によって殺されます」
「……ころ……される……!?」
助かった。そう思っていた。しかし、やはり現実はそこまで甘くは無いのだろう。
女性の言葉を聞いて、闇を前にしていた時と同じように心臓の下の部分が締め付けられるように痛み始める。
しかし、女性はもう一度俺を抱き寄せると、妹と俺へ交互に目をやりながら再び表情を和らげて声をかけた。
「だから、助けに来ました。未来から」
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