卒業証書

瑞樹(小原瑞樹)

桜の木の下で

 はらり、はらり、桜が舞う。

 ひらり、ひらり、視界が揺れる。




 満開の花咲き誇る桜。桃色の木々に彩られた校門前。卒業を迎えた生徒たちは、黒い筒に入った卒業証書を胸に、それぞれの別れを惜しんでいる。元気でね、また遊ぼうね。涙と共に言葉を交わし、いつかの再会を約束する。


 わたしもその生徒たちの中で、満開の桜の木々を見上げていた。風が吹くと桜は揺れ、桃色の花びらがはらはらと舞う。

 その風に導かれるように、私の記憶も呼び覚まされる。過ぎ去りし三年間の学生生活。今も色褪せぬ、あなたとの出逢い。




 あれはそう、わたしがこの中学に入学したときのこと。地元を離れた中学校に進学したわたしは、知り合いもなく、ぽつんと桜の木の下に佇んでいた。

 どこから来たの? 仲良くしようね。入学式を終えた後、ぎこちなく交わされる生徒の会話に入りたくても何と声をかければよいかわからなくて、わたしはただ平気な顔をして、桜の木を見上げることしかできなかった。


 あなたが声をかけてきたのはそんな時だった。後ろから遠慮がちな足音がして、振り返るとそこにあなたがいた。制服姿の男の子。わたしより少し背が高くて、わたしより少し身体が細くて、わたしよりずっと、きれいだった。


「これ、落としたよ」


 彼が差し出したのはわたしのハンカチだった。バーゲンで買った安物のハンカチ。落としたことに気づいても、大してがっかりしなかったと思う。

 そのハンカチを、あなたは大事そうに持ってわたしに差し出してくれた。わたしは何と言っていいかわからなくて、黙ってそれを受け取った。受け取るとき、少しだけあなたの指がわたしの指に触れて、それがとても、あたたかかった。


 風が吹き、桜の木々が静かに揺れる。舞い散る桃色の花吹雪の中で、あなたはふわりと微笑んだ。それからじゃあ、と片手を上げて、わたしに背を向けて走っていった。遠くにいる、男の子たちの輪の中に入っていく。きっと友達なのだろう。男の子は何人もいたけれど、わたしにはあなたしか見えなかった。桜の木の下で笑うあなたは、とても優しくて、きれいだった。


 あの日からずっと、あなたのことが好きだった。同じクラスだってことがわかったとき、立ち上がってばんざいをしたくなった。名前を知って、出身校を知って、もっももっといろいろなことが知りたくなった。

 だけど、できなかった。あなたは人気者で、わたしとは違う世界に生きる人だったから。その時にはわたしもクラスに友達ができていたけれど、それでもあなたに近づこうとは思わなかった。あなたはまぶしくて、あたたかくて、おひさまみたいに、遠かったから。


 あなたへの気持ちは、誰にも話したことはない。言えばきっと、茶化されると思ったから。告白してみなよ。もしかしたら、上手くいくかも。そんな風に背中を押されて、笑顔でかわす自信がなかった。わたしは自分があなたにつり合うなんて思ってなかったし、あなたに告白して迷惑に思われるのもいやだった。あなたには、わたしが好きな、優しくて、きれいなあなたのままでいてほしかった。だから気持ちを胸にしまって、遠くからあなたを見ていることにした。あなたが笑っているのを見ているだけで、じゅうぶんに、幸せだった。


 入学して三か月くらい経った頃、あなたに彼女ができたと知った。同じクラスの女の子で、学年でも可愛いと評判の子だった。みんなはお似合いだと言って、わたしもお似合いだと思った。

 それでもわたしはあなたが好きで、あなたとその子が一緒にいるのを目で追っていた。その子の隣にいるあなたはとても幸せそうで、わたしはそんなあなたを見て嬉しくて、だけどちょっぴり、寂しかった。


 あなたと話す機会はほとんどなかった。理科の実験とか、家庭科の実習とか、グループが同じになったときに必要なことを話すくらい。

 それでもわたしは嬉しくて、あなたにどうでもいいことをたくさん聞いた。これは何? これはどうするの? あなたはわたしのくだらない質問にも付き合ってくれて、ひとつひとつを丁寧に教えてくれた。これはナトリウム。具材を切って、炒めて、混ぜて。そんな時間がとても楽しくて、あなたはずっと、私だけの先生だった。


 二年になって離れてしまったけれど、三年のときはまたあなたと同じクラスになれた。久しぶりにみるあなたはまた背が伸びたみたいで、声も前より低くなった気がした。大人への階段を上るあなたはますますまぶしくて、同時にますます、遠くなった。


 一年のときに付き合っていた彼女とは別れたと噂で聞いた。告白してみようかな。友達がそう言うのを聞いて、うん、いいんじゃない、とわたしは言った。本当にそう思っていた。あなたに新しい彼女ができて、あなたがまた幸せそうに笑ってくれるなら、私としても、幸せだった。


 結局、友達は告白しなくて、あなたは別の女の子と付き合い始めた。一つ年下の、二年生の女の子。あなたがその子の自転車を押してあげて、一緒に帰るところを何度か見た。彼女は可愛い子だった。前の彼女と同じか、それ以上に。

 わたしはやっぱりお似合いだと思った。お似合いだと思って、やっぱり寂しくなった。


 受験シーズンになってもあなたは変わらなかった。みんなに優しくて、あたたかくて、人気者のあなたのままだった。もしかしたら裏では、いろいろと悩んだり苦しんだりしていたのかもしれなかったけれど、わたしの前にいるあなたは、出逢った時と変わらずにきれいだった。きっといつまでもきれいなままなんだと思う。人は誰でも、よく知らない人に、自分のきれいじゃないところを見せようとはしないだろうから。




 そうして季節は巡り、迎えた三度目の春。わたしはあの時と同じようにぽつんと佇み、満開の桜の木を見上げていた。友達はいたけれど、みんな同じ高校に進学することが決まっていたから、わざわざ涙を流して別れる必要はなかった。じゃあね、またね。そんな当たり前の挨拶をして、いつもと同じように手を振って別れた。わたしには別れを惜しむような人はいない。ただ一人を、除いては。


 あなたは入学式と同じように、大勢の人の輪の中にいた。あの時よりもっと多かったかもしれない。男の子もいれば、女の子もいた。二年生の彼女はいなかった。別れたのかもしれない。

 それでもあなたは幸せそうだった。たくさんの友達に囲まれて、たくさんの人に祝福されて、心から、幸せそうだった。


 あなたが遠くの高校に行く、と知ったのがどういうきっかけだったのか、よく覚えていない。あなたから直接聞いたわけではもちろんないし、友達に調べてほしいと頼んだわけでもない。

 でもそんなに不思議はなかった。あなたは人気者で、人気者のことは何かと噂になるものだ。有名な進学校に行って、医大に入って、将来は医者になるんだ。まるであなたの口から語られたように、わたしはその事実を知っていた。

 寂しいとは思わなかった。ただ、すごいな、と思った。あなたは最初から違う世界の人だったけれど、さらに世界が、遠くなった気がした。


 舞い散る桜の木の下で、私はあなたの声を聞いていた。あなたの笑い声。この三年間。ずっと追い続けていたあなたの声。それをもう聞けなくなるのは本当に寂しいけれど、仕方のないことだと思った。あなたはあなたの道を進み、わたしはわたしの道を進む。二つの道は進めば進むほど遠くなっていって、どこまで行っても交わることはない。最初から、わかっていたこと。わかっていても、認めたくなかったこと。


 突然、あなたの声が止んだ。笑い声はまだ聞こえていたけれど、あなたの声だけが聞こえなくなった。代わりに聞こえたのは遠慮がちな足音。それは少しずつわたしの方に近づいてきて、やがてわたしの後ろで止まった。

 わたしは振り返らなかった。何も気づいていない振りをして、ただ、桜の花を見つめていた。


「これ、落としたよ」


 そう声をかけられて、ようやくわたしは振り返った。そこにはやっぱりあなたがいた。入学式のあの時と同じように、そっとハンカチを差し出して。

 あなたの手に握られているのは、セールで買った安物のハンカチじゃない。レースの付いた、真っ白なハンカチ。一週間前にデパートで買って、昨日の夜に封を切った。わたしがわざと落として、あなたに見つけてもらいたかったハンカチ。


 わたしはすぐにハンカチを受け取らず、しばらくあなたを見つめていた。あなたもわたしを見ていた。入学式の時よりも少しだけ背が伸びて、少しだけ大人っぽくなって、だけど優しさは変わらないあなたがそこにいた。


 そんなあなたの姿を見つめていると、わたしは胸がきゅっと締めつけられた。できることなら、このままハンカチを受け取らず、ずっとあなたと見つめ合っていたかった。

 だけど、そんなことをしたらおかしな子だと思われるに決まっていて、それならわたしは、最後まであなたの他人のままでいたかった。だからつぶれそうな胸をぎゅっと押さえて、一言だけ、言うことにした。


「ありがとう」


 そう言ってわたしはあなたからハンカチを受け取った。受け取るとき、少しだけあなたと指先が重なった。細長い、きれいな指先。あなたが将来お医者さんになったときは、このきれいな指でたくさんの患者さんを治してあげるんだろう。そうなればいいと思ったけれど、口には出さなかった。他人からの励ましなんて、何の役にも立たないはずだから。


 あなたはそれじゃ、とだけ言うと、元いた人の輪に戻っていった。さよならも、またね、もない。あなたとわたしは友達でも何でもないから、話すことなんて何もない。

 それでもわたしは、もう少しだけあなたと言葉を続けていたくて、あなたの背中に、小さく呼びかけた。




――ありがとう。




 その声があなたに聞こえたのかはわからない。ちょうど強い風が吹いて、桜の木が大きく揺れたから、わたしの声なんてあっさりと消されてしまったかもしれない。

 だけど、あなたは振り返った。振り返って、けれど何を言っていいかわからなかったのか、ちょっと困ったみたいな顔をして、それからふわりと、微笑んだ。


 花吹雪の中で見たあなたの笑顔。それはやっぱり優しくて、あたたかくて、あの時よりもずっと、きれいだった。




 あなたの去った桜の木の下で、わたしはそっとハンカチを頬に当てた。一度も使ったことのない、新しいハンカチ。そこには少しだけあなたの匂いが残っていて、あなたが去った今も、そばにあなたがいるように感じさせる。実際にはあなたはもう遠くにいて、この先も二度と会うことはないとわかっていても、わたしはいつまでも、舞い散る桜の下で、あなたが笑顔を、向けてくれている気がした。


 この先、わたしがもっと大きくなって、この三年間のことをほとんど忘れてしまっても、今日この日のことだけは、ずっと覚えているだろうと思った。忘れられない卒業式。胸に抱いた、あなたへの恋。


 最後の桜が、枝から落ちる。同時に景色が遠くなって、わたしの目には何も映らなくなった。舞い散る桜も、校門も、あなた以外の、全ての人も。




 はらり、はらり、桜が舞う。

 ひらり、ひらり、視界が揺れる。




 頬に当てたハンカチをぎゅっと握りしめる。あなたがくれたこのハンカチは、わたしの本当の、卒業証書だった。

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