第12話 マイ・ディア・レディ(1)

 1882年春、ロンドン、ピカデリー・サーカス。

空は濃灰色の雲に覆われている。深夜からの雨は止む気配がない。ガス灯の光が雨に滲む。


 煉瓦とポートランド石からなる厚い壁、左右対称なイオニア式の柱、重厚なマホガニー材の扉に守られたバーリントン・ハウス。

その一角を占める広間に喪服姿の男女が集っていた。

悲しみに沈み、一言も発さない参加者がいる一方、アイルランド土地法について抑えた声で雑談を交わす人々もいる。

チャールズはもう30年以上隠居生活を送っていた。その知性の健在ぶりを示す著作を目にしていなければ、日頃疎遠だった彼らの哀悼の念が小さいからといって一概に薄情とは決めつけられない。


 「静粛に願います」

トレヴァー&サンズ法律事務所の先代の主、老トレヴァー氏が厳めしく咳払いをし、銀縁眼鏡を押し上げる。事務所の代表は息子に譲り一線を退いていても、一族の名士かつ旧知の仲である義理の叔父の遺言執行となれば後進に譲る気はさらさらないらしい。

普段は手放さない杖も脇に置き、小柄な体躯を精一杯伸ばし、恐ろしく明瞭な声で遺言状を淡々と読み上げる。


 ――我が蔵書を親しき友、親愛なる姪、ライエル夫妻に贈る。保有を望まず、売却または他者への譲渡とするも妨げない。判断は一任する。加えて派生する必要経費に備え、200ポンドを遺贈する。


 ウェストミンスター寺院で墓に花を手向けた後、トーマス・ライエルはコーヒーハウスの一隅に座っていた。

長身に添う上質なフロックコートとベスト、黒のクラバットとアンクル・ブーツ、品のいいつや消し銀製のカフスやピン。脇には喪章の巻かれたシルクハットと革手袋、どっしりした握りのついたオークの杖。

トーマスの身なりのすべてから彼の社会的地位の高さが察せられた。

先刻耳にした遺言書の内容を脳裏で反芻し、組んだ手で額を支え、ほろ苦く呟く。

「ひどいな貴方は。亡くなった後もメアリと魂を分かち合うつもりですか……」


 帰宅したトーマスを出迎えたメアリが訝しげに尋ねる。

「チャールズ叔父様の遺言状の公開だったのでしょう?どうしてそんな微妙な顔をしているの?」

「そんなに分かりやすいか?」

トーマスは椅子にどさりと腰を下ろし、疲れた表情で告げる。

「蔵書すべてを僕たち二人にと。それと200ポンド」

「まあ」

「信頼の証と受け取るなら光栄だ。しかし……秘蔵っ子のメアリ、君と全蔵書。彼の宝物を一つならず託されると正直複雑な気分だ。なんだか彼の掌にいるようで」

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