いつまでも後輩

 三限も授業があったが、出ようという気がしなかった。僕はキャンパス中央に向かう大勢の学生たちに逆行して、大学の外へ出る道を歩いていた。


 その間、透子さんの色々な姿を思い出した。思い出さずにはいられなかった。


 茶色いトレンチコートのポケットに両手を入れて隣を颯爽と歩く透子さん。辛いカレーを平気な様子で食べる透子さん。酔って駅のホームに座り込む透子さん。バーの暗い照明の下でゆったりと足を組む、水色のニットワンピース姿の透子さん。僕の部屋着を着て、僕の部屋で眠る透子さん。透子さんの涙で湿った胸の温かさと、柔らかい彼女の体の感触。


 京香さんの話を聞いても、透子さんがもうこの世界に存在しないことが信じられなかった。信じたくなかった。


 喉の奥と目頭がかっと熱くなり、涙がこぼれそうになる。僕は瞬きをせず、涙が流れそうになるのを止めた。そうして、透子さんの話をしている最中に京香さんが一度も涙を見せなかった理由が分かった。


 京香さんは、瞬きを一度もせず、涙がこぼれないようにしていたから泣いていなかったのだ。


 僕も京香さんと同じ方法で涙をこらえた。瞬きをせず、涙を乾かした。自分の家に着いて、一人になるまでは涙をこらえようと思った。


 そうして、一人になってから僕は泣いた。涙は汗のように、とめどなくこぼれた。体中の水分がなくなってしまうかと思うぐらいに涙を流した。


 しまいには、声をあげて泣いていた。自分の意志とは無関係に、嗚咽が喉を激しく震わせた。


***


『一緒に死んでくれる人』


 そう言った彼女はいつものように笑っていたが、瞳の奥には何か悲しみのようなものを静かに湛えていたようにも思える。


 記憶は簡単に薄れ、美化され、書き換えられていく。あの時の彼女の笑顔も、その目の奥の悲しみも、今となっては本当に僕が思い描いたようなものだったのか、定かではない。


 あれから長い年月が過ぎ、僕は透子さんよりも歳を重ねてしまった。


 それでも、透子さんは今でも僕の二つ上のアルバイト先の先輩であり、忘れることの出来ない人であり、僕の心は十九歳の冬から少しも動けないままだ。今でも僕は夜の闇の中に彼女の影を、彼女の匂いを探している。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

だから僕は先輩を忘れられない ないちち @naititi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画