覗き見る後輩

 しばらくすると、透子さんの肩が規則的に上下し始め、彼女の寝息が聞こえてきた。僕はそれに安心すると、自分も眠ることにした。


 僕の目を覚まさせたのは、カーテンの隙間から差す、ほの白い冬の朝日だった。目をこすりながら体を起こすと、隣に透子さんがいないことに気が付いた。


 眠気で鈍っていた僕の頭は途端に目覚め、彼女の姿を探すべく勢いよく立ち上がった。


 とはいっても、1Kのこの部屋で探す場所は少なかった。キッチンと玄関に続く部屋の扉を開き、そこに透子さんがいないのを確認すると、今度はユニットバスの扉を二度ノックした。


 しばらく待っても返答がなかったので扉を開けると、そこには誰もいなかった。


 部屋に戻り、ひょっとすると僕が眠っている間に帰ったのかもしれない、と思って携帯のメッセージアプリを開くと、透子さんからのメッセージが来ていた。


『昨日は迷惑をかけちゃってごめんなさい。今日は用事があるので先に帰らせてもらいました。この埋め合わせはまたしようと思います』


 携帯の時刻を見ると、もう十時だった。透子さんは寝ている僕に気を遣って、静かに出て行ったのだろう。


 落ち着いて部屋を見渡すと、ベッドの上には昨晩透子さんが着ていた僕のトレーナーとズボンが几帳面に折りたたんで置いてあった。


 机の上には、昨日透子さんが読んでいた薄い文庫本が置きっぱなしになっていた。きっと彼女が忘れていってしまったのだろう。


 僕は何とはなしにその本を手に取った。ブックカバーのかかった本を開くのは、透子さんの秘密にこっそり触れるようで多少の罪悪感があったが、好奇心が勝ってしまった。


 表紙をめくった。岩波文庫から出ている、芥川龍之介の『歯車 他二篇』であった。


 パラパラとページをめくると、ある所で止まった。ページの左上が斜めに折られている場所があったからだ。


 そこは表題作『歯車』の一番最後の部分だった。


『それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。――僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こういう気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?』


 芥川龍之介の『歯車』は、確か晩年の作品だったはずだ。中学生の頃に読んだきりなので内容はうろ覚えだ。


 透子さんはこの小説の最後のページにきっちりと折り目を付けていた。きっと、彼女の中でこの短編が特別な物だからなのだろう。僕は久しぶりに『歯車』を読もうと思った。


 短い物語であったので、すぐに読み終えることができた。主人公は普通の人が見れば何てことないものにずっと怯え続け、その恐怖や不安を本や薬で紛らわそうとするが、最後は苦痛に耐え切れずに死を望む――そんな暗く鬱々とした物語だった。『歯車』には、死を暗示する物や人、出来事が多く登場し、全体に暗い死の気配が漂っていた。


 透子さんはなぜこの短編の最後に印を付けていたのだろうか。彼女が昨晩言っていた、「一緒に死んでくれる人」という言葉が頭に浮かび、僕はとても不安になった。

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